2014年7月5日土曜日

工藤幸雄歿 Kudō Yukio murió (2008年)


2年前に載せたものの再録・補訂版です。

6年前の今日、偉大な翻訳家・工藤幸雄が亡くなりました。

Kudō Yukio (jap. 工藤幸雄, ur. 20 marca 1925 w Dalian, zm. 5 lipca 2008 w Tokio) - japoński poeta, romanista, polonista, profesor Akademii Sztuk Pięknych Tama (jap. 多摩美術大学 Tama Bijutsu Daigaku) w Tokio.

Studiował literaturę francuską na Uniwersytecie Tokijskim. W latach 1967-1974 pracował jako lektor języka japońskiego w Instytucie Orientalistyki Uniwersytetu Warszawskiego. W 1995 r. prezydent Lech Wałęsa uhonorował go Krzyżem Komandorskim Orderu Zasługi Rzeczypospolitej Polskiej. W 1999 r. otrzymał Nagrodę Literacką Yomiuri za przetłumaczenie całości dzieł literackich Bruno Schulza na język japoński. Ponadto przetłumaczył wiele dzieł literatury polskiej, m.in. Witolda Gombrowicza, czy Isaaca Bashevisa Singera. Zajmował się także tłumaczeniem dzieł laureatów Nagrody Nobla, jak Borys Pasternak, Czesław Miłosz, Wisława Szymborska.

Za znaczące osiągnięcia w propagowaniu polskiej kultury teatralnej na świecie w 1995 otrzymał nagrodę im. Stanisława Ignacego Witkiewicza przyznaną przez Zarząd Polskiego Ośrodka Międzynarodowego Instytutu Teatralnego.



工藤 幸雄(1925年3月20日 - 2008年7月5日)は、偉大なロシア・ポーランド文学者でした。

大連にて、満鉄社員の家庭に生まれました。旧制中学校卒業後、第一高等学校受験に3度失敗し、1944年、善隣外事専門学校露西亜科に入学し、その後城北補修学校を経て、1946年9月、第一高等学校文科甲類三組に入学し、52年頃東京大学仏文科を卒業しました。米国留学後、54年に共同通信社外信部に入り13年勤め、その間ロシア、ポーランドの文学を翻訳しました。67年にワルシャワ大学に日本語講師として赴任し、7年間滞在して、75年に帰国しました。76年多摩美術大学教授となりましたが、その前には偶書を訳したりして糊口を凌いでいました。95年に多摩美大を定年退職しました。

1999年、『ブルーノ・シュルツ全集』の翻訳で読売文学賞受賞しました。ゴンブロービチ、アイザック・シンガーなどを中心にポーランド文学を数多く翻訳しています。ほかにパステルナーク、ミウォシュ、シンボルスカなどノーベル賞作家の翻訳を多く手掛けています。

工藤幸雄は東京大学仏文科の学生だった頃から、ロシアの文学作品を自主的に翻訳したりしていました。本として初めて出たのは、友人、田中融ニの誘いで映画の原作を共訳した『泥棒成金』でした。これは英語からの翻訳で、その後も英語のミステリの短編をいくつか手掛けました。さらにロシア文学作品を1冊手掛け、次にポーランドの若手作家マレク・フラスコの作品を訳しましたが、このフラスコの作品を手がけたときは、ポーランド語はまだ独学の生かじりの状態で、フランス語の訳本を頼りにしました。「この言葉は知らないからできない、と思って諦めてしまうのではなく、何かできる方法があるならば、それでやってみる、ということも大切だ」と工藤は言っています。

満洲の生まれで、子どもの頃は街を歩いているとロシア語を耳にすることがあり、そのような経験が外国語に興味を持つきっかけになったようです。

フランス語をやるようになったのは、かつて全盛を誇っていたフランス映画の影響とのことでした。

英語は、浪人時代に英作文を相当やり、戦後、進駐軍の機関や「極東国際軍事裁判所」で翻訳の仕事などをして生活費を稼いだとのことです。裁判所の翻訳課の上司はアメリカ人で、「君の翻訳文には、俗語的な表現と格式ばった文体が混じっている」と注意を受けたりしたそうです。その頃は、言葉のレベルの違いまでは、さすがの工藤も分かっていなかったようです。

語学の学校にも足繁く通っています。英語は日米会話学院で、フランス語はアテネ・フランセで、ロシア語は御茶ノ水のニコライ堂の付属学校で、ポーランド語は米国留学中に大学院で、それぞれ授業を受けています。

「翻訳家とは外国語ができる人のことだと思っている人がいますが、和訳翻訳家の仕事は日本語を書くことですから、日本語が何よりも大事な基礎であり、翻訳家になるための大原則です。日本語に上達するには、日本語で書かれた文章をひたすら読み込むことです。いい文章があれば、書き写してみる。翻訳家は、男性の言葉・女性の言葉、若者の言い方・老人の言い方など、さまざまに使い分けなければなりませんが、これを習得するには、何度でも自分で書いてみるのです。」と工藤は言ってました。

工藤の死に際し著書の編纂者の1人は*「われわれはまたほんとうの国宝を失ったのである」と述べています。



戦後ポーランドの文化を語る:回顧と展望 コワコフスキ、ミウォシュ両氏に聞く(工藤幸雄)



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