2017年11月19日日曜日

Pedro Romero nació en Ronda (1754) ペドロ・ロメーロ誕生 PEDRO ROMERO MARTINEZ

1754年の今日、11月19日の朝に アンダルシアは Ronda ロンダの町で 後に「闘牛術の父」と呼ばれるようになる男の子が誕生しました。



 この史上最高の闘牛士の1人である Pedro Romero ペドロ・ロメーロは 両足を揃えて立ち、牛を迎え撃ちながら殺す recibir レシビール という高度の受け身の技を編み出したことで特に有名です。この recibir の大技に関しては、現在では José María Manzanares が有名です。(この稿の最後に付けております。)
 この Pedro Romero は、25年間に5600頭の牛と対峠し一度も負傷することなく射止めた文字通りの matador マタドールでした。77歳の時、Alcalá de Henares アルカラ・デ・エナーレス の闘牛場で 2頭を仕留めて満天下を捻らせました。カルロス四世に Sevilla セピージャ の闘牛学校の校長就任を依頼されています。人気も、好敵手の Pepe Yiyo ぺぺ・ジージョを凌ぐほどでした。
 2人の争いはアルパ公爵夫人とオスナ公爵夫人の確執に火を付けました。流行り歌が囃立てました。

 2人の公爵夫人が争うは
 1人の闘牛士の恋心
 その名はペペ・ジージョ
 じゃなくて ペドロ・ロメーロ
 レーロ、レーロ、
 レーロ、レーロ、
 公爵夫人2人に闘牛士が1人

 山脈 Sierranía の中央部海抜723メートルにあるロンダは Guadalevín グアダレビン川の流れる深い谷が町を二分し、100メートル近い高さの峡谷を新橋 Puente Nuevo (construido entre 1751 y 1793) が跨いでいます。

 ペドロ・ロメーロの父親は Juan Romero フアン・ロメーロ、祖父は Francisco Romero フランシスコ・ロメーロ でしたが、ロメーロ一族は代々船の乗込大工を天職としてきました。祖父も父も最初そうであったように、Pedro も地中海岸へ船大工の修業をさせられました。が、祖父に、父に流れている情熱的 な闘いの血はこの Pedro をも船大工としての生涯に甘んじさせはしませんでした。
 左肩に格子縞の風呂敷包みを背負い、その包みの上に、木剣の柄を覗かせて新橋を渡り、Ronda で開かれた featival taurina 闘牛祭 に瓢然と帰ってきたその午後の Pedro の闘いぶりは、祖父より、父よりもその才能と勇敢さにおいて凌ぐ素晴しいものであったそうです。
 この午後、un novillo の強襲に負傷しながらも、 dos novillos を仕留めた Pedro をもう誰れも止めることはできませんでした。
 父 Juan は当時40歳の円熟期の闘牛士で、息子 Pedro を彼の闘牛士隊の一員として闘 牛士の初歩から教え込みました。1771年、Ronda の公式闘牛に父の第2剣士として初めて toro を葬りました。Pedro 17歳の秋でした。
 翌1772年には、早くもアラビア建築様式の華麗な闘牛の殿堂、セビージャ闘牛場に5月の4日間も招待され、着実に大闘牛士への道を歩み出しました。
 Pedro は祖父や父から、どんな状況にも変らぬ冷静な精神力と、素晴しく敏感に反応する視力、誇らかな容姿、傑出した怪力を受け継ぎ、雄牛の攻撃を微動だにしない構えの胸元まで呼び込んでの必殺の一撃を牛のラの隆起部に射し込む recibir の大技で倒していきました。
 この豪快な殺しの技 recibir は 正確には suerte de recibir と言いますが、現在では José María Manzanares 以外はあまり見られなくなった高等技術です。
 1775年、父 Juan、息子 Pedro 両方の終生の好敵手、Sevilla の天才剣士 Joaquín Rodríguez "Costillares" と 共に、Romero は Madrid に登場、スペインの首都をこの若き2人の剣士が征服しました。
 ロメーロ一族3代に渡る闘いの系譜は繊細で技巧的なセビージャ派の闘牛技に対し、豪快なロンダ派 として現在まで闘牛技の骨太い根幹を形成しています。
 ロンダ闘牛場脇の公園にある、悠然と剣を持った Pedro Romero の像の台座に次のような句が刻まれています。

 憶病者は真の男にあらず
 闘牛には真の男が必要
 恐怖が牛より悲劇を招く




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