2023年11月14日火曜日

el tren de tercera clase シベリヤの三等列車 (林芙美子) ferrocarril transiberiano / Paso decisivo (Momento de decisión) 愛と喝采の日々 The Turning Point (1977) Es demasiado tarde para arrepentirse. / (ボリビア、イスラエルと断交 コロンビアとブラジルもイスラエル非難)

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Deedee, tomaste una decisión.


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Es demasiado tarde para arrepentirse.


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Lo mismo te digo, Emma.


 

Paso decisivo (Momento de decisión) 愛と喝采の日々 The Turning Point

公開アメリカ合衆国の旗 1977年11月14日
日本の旗 1978年4月29日

 Una estrella del American Ballet Theatre queda con una antigua amiga y compañera cuya hija quiere ser bailarina. Las dos mujeres rememoran su amistad y también sus desavenencias: cuando eran muy jóvenes, la prestigiosa bailarina ensayaba con su amiga, pero ésta decidió dejar la danza por su familia.

 


 


 

 

 

シベリヤ三等列車

林芙美子



 1信
 満洲の長春へ着いたのが十一月十二日の夜でした。口から吐く息が白く見えるだけで、雪はまだ降つてゐません。――去年、手ぶらで来ました時と違つて、トランクが四ツもありましたし、駅の中は兵隊の波で、全く赤帽を呼ぶどころの騒ぎではないのです。ギラギラした剣附鉄砲の林立してゐる、日本兵の間を潜つて、やつと薄暗い待合所の中へはいりました。此待合所には、売店や両替所や、お茶を呑むところがあります。五銭のレモンティを呑みながら、見当もつかない茫々とした遠い道筋の事を考へたのですが、――「此間満鉄の社員が一人、ハルピンと長春との間で列車から引きずり降ろされて今だに不明なんですがね」とか、「チチハルの領事が惨殺されたさうですよ」なぞと、奉天通過の時の列車中の話です。あつちでもこつちでも戦争の話なのですが、どうもピリッと来ない。――兎に角、何処に居ても死ぬるのは同じことだと、妙に肝が坐つて、何度もホームに出ては、一ツづつトランクを待合所に運んで、私は呆んやりと売店の陳列箱の中を見てゐました。去年は古ぼけた栗島澄子や高尾光子の絵葉書なんか飾つてあつたものですが、そんな物は何も無くなつてゐて、いたづらに、他席他郷送客杯の感が深いのみです。
 こゝでは満洲人のジャパンツーリスト社員に大変世話になり、妙に済まなさが先きに立つて、擽つたい気持ちでした。こゝだけでも二等にされた方が良いと云ふ言葉をすなほに受けて、長春ハルピン間を二等の寝台に換へました。不安でしたが、やつぱり金を出しただけの事はあるなんぞと妙なところで感心してしまつたりしたものです。
「内側からかうして鍵をかつておおきになれば大丈夫ですよ」
 若い満人のビュウローの社員は、何度となく鍵を掛けて見せてくれました。こゝからはロシヤ人のボーイで日本金のチップを喜ぶと云ふ事です。で、やれやれこれでよしと云つた気持ちで鍵を締めて、寝巻きに着かへたりなんぞしてゐますと、何だか山の中へでも来た時のやうに遠い耳鳴りを感じました。四囲があまり静かだからでせう。此列車からホームまではかなり遠いのです。列車が動き出しますと、満人のボーイが床をのべに来てくれます。此ボーイは次の駅で降りてしまふので、床をのべに来る時、持つて来た紅茶の下皿に拾銭玉一ツ入れてやりました。やらなくてもいゝと聞きましたが、大変丁寧なので、やりたくなります。
 四人寝の寝台が私一人でした。心細い気もありましたが、鍵をかつて寝ちまふ事だと電気を消さうと頭の上を見ますと、私の寝室番号が何と十三です。それにハルピンに着くのが明日の十三日、私は何だか厭な気持ちがして、母が持たしてくれた金光さまの洗米なんかを食べてみたりしたものです。迷信家だなんて笑ひますか、今だにあの子供のやうな気持ちを私はなつかしく思ふのですが……。十三日の朝八時頃、何事もなくハルピンに着きました。折悪しく私の列車は、貨物列車の間に這入つて行つたので、北満ホテルのポーターに見つかりもせず、とてもの事に一人で行つてしまへと、四ツのトランクをロシヤ人の赤帽にたのんで、兎に角駅の前まで運んで貰ひました。――冬のハルピンは夏より好きです。やつぱり寒い国の風景は寒い時に限ります。空気がハリハリと硝子のやうでいゝ気持ちでした。
「ヤポンスキーホテル・ホクマン」
 これだけでロシヤ人の運転手に通じるのですから剛気なものです。古い割栗の石道を自動車が飛ぶやうに走つて、街を歩いてゐる満洲兵の行列なんかを区切らうものなら、私はヒヤヒヤして首を縮めたものです。
 さて、一ツの難関は過ぎましたが、いよいよ戦ひの本場を今晩は通らなければなりません。

 2信
 全く何度も云ふやうですが、私はハルピンが好きです。第一に物価が安いせゐもあるでせうけれども、歩いてゐる人達が、よりどころもなく淋しげに見えるからでせうか……。北満ホテルへ着きますと、皆覚えてゐてくれました。去年のまゝの顔馴染の女中達でした。「こつちは大丈夫でしたか!」まづこんな事から挨拶を交はしたのですが、ハルピンは日本で考へてゐた以上に平和でした。「こつちは何でもございませんよ」長崎から来た女中なぞは、ハルピンは呑気なところだと笑つてゐます。窓から眺めた風景だけでも戦ひはどこにあるのだらうと思はせる位でした。――日本の茶漬も当分食べられないだらうと、朝御飯には味噌汁や香のものを頼みました。
「此間も日本の女の方が一人でお通りになりました」
「その方も無事にシベリヤへ行かれたやうですか?」
「はい、御無事で行かれたやうです。お立ちになります時、やつぱりかうして日本食を召し上りながら、死んでしまふかも知れませんなんかと、淋しさうに云つていらつしやいましたが、……」
 音楽学校の先生でショウジさんと云ふ方らしい。東京の列車から御一緒にパリーまで道連れにして貰はうなんぞと思つたのですが、何しろ二等で行かれるのでは、ケタが違ふので、私は六日遅れてしまつたのです。
「その方、運が良かつたのですね、私なんか無事に越せますかしら……」そんな事を話しあつてゐますと、チヽハルから、今婦女子だけが全部引上げて来たと云ふニュースがはいりました。女中達は、二三日泊つて様子を見てみたらどんなものかと云つてくれますが、様子なんぞ見てゐたら、まづ困つてしまふので、どんな事があつても、午後三時出発にきめてしまひました。ハルピンからシベリヤへ行く日本人は私一人です。エトランゼも居るにはゐましたが、ごく少数で、ドイツの機械商人と、アメリカの記者二三人と、まあ、その位のもので、あとは中国の人ばかりです。
「日本人の方でドイツへ行かれる方がいらつしやるんですが、二三日様子を見るとおつしやてゐますよ」
 だが、どうしても様子を見てゐる旅費が切り出せないので、私は列車に乗る事にきめて、街へ買物に出ました。寒さに向つてではありますし、又、シベリヤの食堂車で、一々食事をとつてゐた日には、とても高くかゝると云ふ事でしたので、まづ毛布や食料品を買ひ込む事にしました。
 ハルピンで買つた紅色の毛布、これはもう大変な思ひ出ものです。パリ―の下宿で、いま蒲団がはりに使用してゐます。
 安いあけびの籠を買つて、それへどしどし買つた食料品を詰める事にしました。何しろ初めてのシベリヤ行きなので、――用心して買物をしたつもりでも、沢山抜けたところがあるんです。まづ、葡萄酒を一本買ひましたが、ハルピン出来を買つたので、苦味にがくてとても飲めたものではありません。外に、紅茶、林檎を十個、梨五個、キャラメル、ソーセージ三種、牛鑵二個、レモン二個、バターに角砂糖一箱、パン二個、ゼリー、それからヤカンや、肉刺、匙、ニュームのコップなど揃へました。また、アルコールランプや、オキシフルや、醤油や、アルコール、塩などは、溝口と云ふ商品陳列館の人に貰つて、これは大変役に立ちました。――それこそ、風呂に這入る暇もなく停車場行です。大毎の小林氏が、チヽハルとモスコーへ、誰か迎ひに出てくれるやうに電報を打つてあげませうと云つて下すつて、一人旅には一番嬉しいことでした。こゝでも私は二等の寝台に買ひかへて、乗る事にしましたが。――大分番狂ひで仕方もないのですが、二三日ハルピンで様子を見てゐたと思へば良いと、腰を落ちつけて何気なく、窓硝子を見ると、何と頬の落ち込んでゐる自分の顔を初めて見て私は驚いてしまひました。
 ところで、荷物の事なのですけれども、小さいトランクを四つ持つより、大きいのを一ツと、手廻りの物を入れるスウツケースと、その方が利巧だと考へました。同室者は、ハイラルで降りる、ロシヤ人のお婆さんでした。髪の毛は真白でも帽子を被ると、赤いジャケツを着てゐますので、三十歳の若さに見えました。晩の九時頃が、命の瀬戸ぎはなのですが――この、ロシヤ婦人に大丈夫だと云はれて少しは落ちつきが出来ました。

 3信
 十四日です。
 私は戦ひの声を幽かに聞きました。――空中に炸裂する鉄砲の音です。初めは枕の下のピストンの音かと思つてゐましたが、やがて地鳴りのやうに変り、砧のやうにチョウチョウと云つた風な音になり、十三日の夜の九時頃から、十四日の夜明けにかけて、停車する駅々では、物々しく満人の兵隊がドカドカと扉を叩いて行きます。
 激しく扉を叩くと、私の前に寝てゐるロシヤの女は、とても大きな声で何か呶鳴りました。きつと、「女の部屋で怪しかないよ」とでも云つてくれるのでせう。私は指でチャンバラの真似をして、恐ろしいと云ふ真似をして見せました。ロシヤの女は、それが判るのでせう、ダアダアと云つて笑ひ出しました。私は此女と一緒に夕飯を食堂で食べました。何か御礼をしたい気持ちでいつぱいなんですが、思ひつきがなくて、――出発の前夜、銀座で買つた紙風船を一つ贈物にしました。彼女は朝になつても、その風船をふくらましては、「スパシイボウ!」と喜んでくれました。まるで子供のやうです。紙風船は影の薄い東洋人にばかり似合ふのかと思ふと、このロシヤのお婆さんにもひどくしつくりと似合ひました。手真似で女学校の先生だと云つてゐましたが、勿論白系の方なのでせう。
 ひわ色に白にぼたん色に紙風船のだんだらが、くるくる舞つて、何か清々した風景です、窓のカーテンは深くおろしたまゝです、ハイラルには朝十時頃着きました、もう再び会ふ事はないだらう、此深切なゆきずりびとをせめて眼だけでも見送りたいものと、握手がほぐれると、私はすぐカーテンの隙間から、ホームに歩いて行く元気のいゝお婆さんの後姿を見てゐました。パリーへ来るまで……来てまでも、私は沢山の深切なゆきずりのひとを知りました、何しても報いられないのですが、そのまゝお互ひがお互ひを忘れて行くのでせうか。……

 駅のロシヤ風の木柵の傍には、満人の兵隊とアメリカの記者団が何か笑ひながら握手してゐました。――どうしたせゐか、一望の端に見えるシベリヤの空が、ひどく東洋風なので満人の人達の方の顔が何だかしつかりとして見えました。――でもいづれの国も虎を背負つてゐるかたちかも知れない。……
 マンジウリに着いたのがお昼です。露満の国境です。まだ雪は降つてゐません。珍らしく日本風な太陽が輝いてゐました。日本風な――笑ひますか、こんな言葉も一脈のノスタルジヤでせう。……こゝでは大毎の清水氏や、ビュウローの日本のひとが出てくれました。二人ともいゝ方でした。――安東を出てから二度目の税関です。荷物を税関に運んで、調べて貰ふ間にパスポートにスタンプを押して貰ひました。ガランとした税関の高い壁上には、大きなシベリヤ地図が描いてありました。一寸田舎の小学校の雨天体操場と云つた感じです。シベリヤを通過する旅客は、ドイツの商人と私との二人きりです。鞄をあけたソヴィエートの税関に調べて貰つてゐる間に、満人の憲兵が何度も私の姓名と職業を尋ねました。パスポートを調べられるのは勿論ですし、所持金まで聞かれました。勿論これはロシヤ側の方です。で、私は人に教はつた通り、米ドルで三百ドルだと書いてみせました。写真機もタイプライターも持つてゐませんでしたが、若し持つてをれば、通過する間封ぜられます。税関では、一ツ面白い事がありました。下村千秋氏が玉木屋のつくだ煮を下すつたのを持つてゐたのですが、どうしても開けて見せろと云ふので、私は開いて貝を一ツ摘んで食べて見せました。此様な、まるで土みたいな色をした食料品なぞ、不思議なのでせう。一切の仕事が片づくと、さて、一週間を送るべき、モスコー行きの硬床ワゴンに落ち着きました。

 4信
 共産軍はもうチチハルへ出発したとか、ロシヤの銃器がどしどし中国の兵隊に渡つてゐるとか、日本隊は今軍隊が手薄だとか、兵匪の中に強大な共産軍がつくられてゐるとか、風説流々です。戦ひを前にしての静けさとでも云ひますのか、マンジウリの駅は、此風説に反してひつそりしてゐました。
 いよいよソヴェートロシヤ領です。
 青い空に真赤な旗が新鮮でした。赤い貨車が走つてゐる。杳々とした野が続いて、まるで陸の海です。私はロシヤへ這入つてから二拾円だけルーブルに換へました。列車の中に国立銀行員が鞄を持つてやつて来ます。国立銀行員だなんて云つても、よぼよぼの電気の集金人みたいな人でした。印刷したてらしいホヤホヤのルーブル紙幣を貰つたのですが、まるで、煙草のレッテルみたいで、麦の束が描いてありました。その紙幣を九枚に小銭を少し、丁度四拾銭程換算賃をとられました。夕方、時計は七時ですが、明るい内にハラノルへ着きました。小駅で、発車を知らせるのに小さい鐘を鳴らしてゐました。ところで、まづ、私の寝室をこゝに書きませう。一室に四人づつで、一ツ列車に八ツ室があります。私は、一等も二等も覗いて見ましたけれど、シベリヤを行かれる方には三等をお薦めしたいと思ひます。けつして住み悪くはありませんでした。初め、列車ボーイに、日本金の参円もやればいゝと聞いてゐました。つまり日が五拾銭の割でせうが、私は何を考へ事をしてゐたのか、思はず五円もやつてしまひました。大変気前のいゝところを見せたわけです。――こゝではルーブルでチップをやつてもボーイは決して有難い顔をしないでせう。日本金でやれば、国外で安いルーブルが買へるからださうです。
 私の部屋のボーイは、飛車角みたいにづんぐりして、むつつり怒つたやうな顔をした青年でした。帽子には油じみた斧と鎌の、ソヴェートの徽章がついてゐます。五円やつたからでもないでせうけれども、大変深切でした。私は二日間で私の名を覚えさせました。帽子をぬぐと額が雪のやうに白くて、髪は金色です。モスコーに母親とびつこの弟が居ると云ふ事が判りました。私にパリーへ行つて何をするのだと聞きますので、お前のやうな立派な男をモデルにして絵を描くのだと云つたら、紙と鉛筆を持つて来て描けと云ふのです。私はひどく赤面しました。日本の旅は道づれ世は情と云ふ言葉を、今更うまい事を云つたのもだと感心してゐます。私の隣室は、ドイツ商人で、ボーイは、ゲルマンスキーの奴はブルジョワだと云つて指を一本出して笑つてゐました。何でブルジョワだと聞くと、タイプライターも、蓄音機も、写真機も持つてゐるからだと云つてゐました。此隣りのゲルマンスキーも仲々愛想のいゝ人でしたが、その同室にゐるロスキーは旅行中一番深切でした。私の部屋はまるで貸しきりみたいに私一人です。だから、私は朝起きると両隣りからお茶に呼ばれるし、トランプに呼ばれるし、何しろ出鱈目なロシヤ語で笑はせるんだから、可愛がつてくれたのでせう。左隣りはピエルミで降りる若い青年と、眼の光つた四十位の男と乗つてゐました。私此ピエルミで降りると云ふ青年がとても好きで、よく廊下の窓に立つては話をするのですけれど、何しろ雲つくやうな大男なのです。あまり背が高いので、話が遠くて、よくかゞんでもらつたのですが、ボロージンとはこんな男ではないかと思ふ程、隆々とした姿で、瞳だけが優しく、青く澄んでいました。

 5信
 十六日の夕方、ノボォーシビルスクと云ふところへ着きました。そろそろ持参の食料品に嫌気がさして、不味い葡萄酒ばかりゴブゴブ呑んでゐました。起きても寝ても夢ばかりです。私は一生の内に、あんなに夢を見る事は再びないでせう。まるで呆んやりとして夢の続きばかりのやうでした。ノボォーシビルスクでは十五歳位の男の子が一人乗つて来ました。勿論隣室のピエルミ君の上のワゴンに寝るんでせうが、来るとすぐ私の部屋にはいつて来て、ヤポンスキーと呼びかけて来るのです。長い事かゝつて聞いた事は、母親がモスコー婦人会の書記のやうな事をしてゐて、それに一年振りで会ひに行くのだと云ふ事でした。
 子供の母親の名前は、カピタリカーパと云ふ人ださうです。僕はピオニエールだよ、さう云つて元気に出て行きましたが、兎に角シベリアの三等列車は呑気で面白い。十七日、昼食の註文を朝のうちに取りに来ましたので、食べる事にして申し込みました。申し込むと云つたところで、扉をニューと開けて食堂ボーイが、「アベード?」と覗きます。それに承知ダアとか、不承知ニエットとか答へればいゝんで、訳はないのです。大変昼が楽しみでした。ピエルミ君も初めて、註文したらしく、指をポキポキ鳴らして嬉しさうでした。窓に額をくつつけて、吹雪に折れさうな白樺のひよろひよろした林を見てゐると、ピエルミ氏はタンゴの一節を唄つてくれたのですが、ロシヤ人はどうしてかう唄が好きなのでせう。いつそ此人の奥さんになつて、ピエルミで降りてしまはうかなんぞやけくそな事を考へたのですが、何しろ言葉が分らないし、私とは二尺位も背丈が違ひ過ぎるやうな気がしましすし、ともあれ諦める事にきめましたが、ピエルミまではまだ大丈夫日数があるので、楽しみです。甘いつて、まあ……笑つて下さい。自分で何か考へて行くか、空想してゆくか、本当は退屈な旅なのですよ。これで一二等に乗つてゐる人達はどんな事をして暮らしてゐるのでせうか。
 お昼は、ピエルミ氏が先頭でゲルマンスキーと相客のミンスク氏も一緒です。此ミンスク氏の名は、ミンスクで下車するといふので、私はいつもミンスクと呼んで笑はせてゐました。(ミンスクはポーランドの国境に近い方)――まづ、運ばれた皿の上を見ますと、初めがスープ、それからオムレツ(肉なし)ウドン粉料理(すゐとんの一種)プリン、こんなもので、東京の本郷バーで食べれば、これだけでは二拾銭位のものでせう。――悪口を云ふのではありませんよ。それがこゝでは三ルーブルです(約三円)。驚木桃の木山椒の木とは此事でせうか。思わず胸に何かこみあげて来るやうな気がしました。食べてゐる人達はと云へば、士官と口紅の濃い貴婦人が多いんです。貴婦人と云つても、ジャケツの糸がほぐれてゐるやうなのがおほかたなのですよ。――けつして労働者ではない級の女達です。インテリ級の貴婦人なのでせう。こつちの百姓の女は、絵描きが着るやうなブルーズを着こんでゐます。日本ではよいとまけの土工女がせいぜい荒つぽい仕事位に思つてゐましたが、こちらでは女達だけで長い線路をつくつてゐました。
 車窓から見た七日間のロシヤの女は、とてもハツラツと元気で、悪く云へば豚のやうになつてゐる女が多い。チエホフ型の女とか、ゴルキーの女とか、そんな女は今のロシヤにはゼイタク事なのでせう。一二等の廊下で、呆んやり同志の働きを見て、爪の化粧をしてゐるロシヤのインテリ婦人も居るのだから、ロシヤはなかなか広いものでした。――林檎が一個一ルーブル、玉子一ツ五十カペック、――まだ驚きましたのは、バイカルを過ぎた頃売りに来た、いなり寿司のやうな食料です。思はず雑誌をはふりつぱなしにして、「アジン!」と怒鳴りました。二個一ルーブルで買つて、肉を刻んだのでもはいつてゐるのだらうと、熱いやつにかじりつくと、これはまたウドン粉の天麩羅でありました。ウドン粉の揚げたのが一円だなんて、私は生れて、此様なぜいたくな買物をした記憶を持つたのは初めてです。鶏の小さい丸焼きが五ルーブル位です。とても手が出ません。牛乳が飲みたかつたし、茹で玉子が欲しかつたし、――だが、高くて手にあひませんでした。

 6信
 シベリヤの寒気は、何か情熱的ではあります。列車が停るたび、片栗粉のやうにギシギシした雪を踏んで、ぶらぶら歩くのですか、皆毛皮裏ツユウパアの外套を着込んで、足にはラシャ地で製つた長靴をはいてゐます。
 ブリッヂの鉄の棒にでも、一寸手をふれれば痛い感じがします。長く握つてゐると手が凍りつくとボーイが教へてくれました。此度で一等楽しみで、プロレタリヤ的なのは、お湯が、駅々で只で貰へた事です。大きい駅に着く度に、「ハヤツサア、チャイ?」さう云つて、ボーイが私のヤカンをさげて湯を貰つて来てくれます。砂糖は私が寄附して、いつもボーイの部屋で四五人、大きな事を云ひながら飲むのです。勿論紅茶も時々は持つて行きました。煙草はみんな新聞紙に巻いて呑んでゐるやうでした。鰊くさい漁師が一人ゐて、ヤポンスキーの函館はよく知つてゐると云つて、日本を説明するのでせう。盛にゲイシャ、チブチブチブ……と云ふのです。そのチブチブが解らなかつたのですが、あとで笑つてしまひました。チブチブと云ふのはゲイシャの下駄の音の形容なのです。私が、カラカラ……と云つて見せると、さうだと云つて、又、皆に説明するのです。何の事はない信州路行く汽車の三等と少しも変りがありません。――十八日の夜。オムスクと云ふ所から、赤ん坊を連れた女が部屋に乗りました。うらなりみたいな若いお母さんでしたが、此子供はまるで人形です。人見知りしないで、すぐ私のベッドへ来て、キャッキャッと喜んでゐました。ワ―リャと云ふ子です。此ワーリャは可愛かつたのですが、ワーリャの母親は、一々物を呉れ呉れと云つて嫌でした。私は、三日月と云ふ日本の安い眉墨を持つてゐたのですが、「お前はパリーへ行けば買へるんだから、それを呉れ」と云ふのです。外の者ならパリーにもあるでせうが、娘の頃から使ひつけてゐるもので、何としてもやる訳にゆかず、「あんたの髪の毛はブロンドぢやないか、眉だけは真黒いのをつけてをかしいよ、ホラ私の髪の毛と眉は黒いから、これをつけるのだ」さう何度云ひ聞かしても、如何にも舌打ちして欲しいげなのです。恨みがかゝつてはおそろしいと、半分引き破つて呉れてしまひました。
 日本では舌を鳴らすと、チエッとか何とかの嫌な意味ですが、ロシヤでは、ホーウとか何とか、いゝ場合の意味らしい。――ワーリャはよたよた歩いてきて、私の頬へ唇をさしよせて来ます。――時々、隣室のゲルマンスキーがレコードをかけます。寒い一眸の野を走る汽車の上で、音楽を聞いたせゐか、涙があふれて仕様がありませんでした。ロシヤ人と云ふ人種は、いつたいに音楽が好きなのでせう。トロイカと云ふ映画を御覧になりましたか。タンゴなぞは禁止されてゐると云つても走つてゐる汽車の中です。やるせなげな唄を耳にします。窓外は、あの映画に出て来る馬橇が走つてゐます。此ゲルマンスキーの、レコードが鳴り出しますと、まるで蜂の巣のやうに扉があいて、ゲルマンスキーの部屋の前に集ります。皆の顔が生々して来ます。実際音楽が好きなのでせう。


 ところで前の食堂の話なのですけれど、半年ばかり前までは、強制的に食事費を取られてゐたと云ふ話でしたが、私の時は、食べても食べなくても良かつたので、大変楽でした。
 隣室のピエルミ氏は、毎日詩集のやうなものを読んでゐます。ゴルキーやチエホフや、トルストイや、ゴーゴリなんぞ読んだ事があると云つたら、ピエルミ氏は、お前にロシヤ語が話せればもつと面白い事が出来るのにとくやしがつてくれました。ところで、或時ピエルミ氏に、「あの食堂はブルジョワレストランぢやないか」さう聞いた事があります。で、私の部屋にいつもパンを貰ひに来る、まるで乞食みたいにずるいピオニールの事を話しました。
「なぜ、食堂で飯をあたへないのでせう」
 ピエルミ氏は、子供つぽく笑つて、わからないと云ひました。実さい、一二度の事ならば、何でもないのですが、私が食べる頃を見計らつては、「ヤポンスキーマドマゼール、ブーリキ」なんぞと云つて、腹をおさへて悲しげにしてみせます。私は、もう苦味にがい葡萄酒でも呑むより仕方がない。岩のやうになつたパンと、林檎を持つて行かせて怒つた顔をしてみせました。私の食料品も、おほかたは人にやつてばかりで、レモン一個と砂糖と、茶と、するめが残つたきりです。十九日は、また昼食を註文して今度はミンスク氏と並びました。スープ(大根のやうなのに人参少し)それに、うどん粉の酸つぱいのや(すゐとんに酢をかけたやうなもの)蕎麦の実に鶏の骨少し、そんなものでした。昼食に出るまでは楽しく空想して、それで食べてしまふと、落胆してしまふのです。十九日の夜は、借りた枕や、シーツと毛布代を、六ルーブル払ひました。毛布と云つても、一枚の布と云つた方がいゝ程な古ぼけた柿色の毛布です。手荷物を嫌がらない人だつたら、ハルピンあたりで二枚も毛布を買つた方が長く使へるでせう。枕や毛布を借りるのはエトランゼだけで、私の隣人達は、枕から毛布、ヤカンまで持つて乗り込んで来ます。背負つた荷物の中から、かうした世帯道具が出るのは、三等車でなければ見られない図でせう。夜は、ボーイの部屋でスープをご馳走になりました。スープと云つても塩汁です。大変うまかつた。ピオニールも呼んでわけてやりました。ボーイは、私が泣いてゐるので、どうしたのか、「トウキョウ。ママパパ」恋ひしいかと云ふのでせう。私はスープを貰つてすゝつてゐたら、ふいに涙が出て困りました。乗客達は、私が小さいので、十七八の少女だとでも思つてゐるのでせう。それはそれはロシヤ人は、フランス人よりのつぽです。私は、此ボーイにニュームのコップと、レモンと残つた砂糖と、ヤカンと、茶を、モスコーへ着いたら遣る約束をしました。家には湯わかしがボロボロだと云ふのです。ロシヤは、どうして機械工業ばかり手にかけて、内輪の物資を豊かにしないのでせうか、悪く云えば、三等列車のプロレタリヤは皆、ガツガツ飢ゑてゐるやうでした。

 

世界情勢

 

ボリビア、イスラエルと断交

コロンビアとブラジルもイスラエル非難

 

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 Javier Cercas

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Nueva edición de Soldados de Salamina, novela imprescindible del siglo XXI, revisada a fondo por el autor y rematada por un esclarecedor epílogo escrito por él mismo.

A finales de enero de 1939, apenas dos meses antes del final de la guerra civil, un grupo de prisioneros franquistas es fusilado cerca la frontera francesa por soldados republicanos que huyen hacia el exilio. Entre esos prisioneros se halla Rafael Sánchez Mazas, fundador e ideólogo de la Falange, poeta y futuro ministro de Franco, quien consigue milagrosamente escapar y ocultarse en el bosque mientras los republicanos lo persiguen; hasta que un soldado lo descubre, lo encañona y, mirándolo a los ojos, le perdona la vida.

Sesenta años más tarde, un novelista fracasado descubre por azar este enterrado episodio bélico y, fascinado por él, emprende una investigación para aclarar sus circunstancias y desentrañar su significado. ¿Quién era de verdad Rafael Sánchez Mazas? ¿Cuál fue su verdadera peripecia de guerra? ¿Quién fue el soldado que le dejó escapar? ¿Y por qué lo hizo? ¿Qué secreto escondía su mirada?

Novela revolucionaria y deslumbrante, Soldados de Salamina cosechó un extraordinario éxito de crítica y público y catapultó la carrera de uno de los novelistas más prestigiosos de la actual narrativa española. Desde entonces no ha dejado de leerse en todo el mundo con creciente admiración y catorce años más tarde sigue siendo, como afirmó Mario Vargas Llosa, «una de las grandes novelas de nuestro tiempo».

Grandes autores opinan...
«Una obra maestra.»
Kenzaburo Oé

«Un libro maravilloso.»
Susan Sontag

«Una de las novelas fundamentales de nuestro tiempo.»
Mario Vargas Llosa

«Debería convertirse en un clásico.»
George Steiner

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