2013年7月31日水曜日

世界最高の闘牛誌 6 TOROS 6 最新号 No. 996


La mejor revista taurina del mundo 世界最高の闘牛誌 6 TOROS 6 の 最新号 No. 996 が 届きました。(残念ながら、No. 993 は結局届かないようです。)

En portada 表紙は Valencia と Santander で活躍した ocho toreros です。Triunfos de costa a costa という副題が付いていますが 南東と北の上記両都市を 御洒落に表現したものです。 













今週号の índice は 以下の通りです。いつも通り、紅い文字は Ernesto Mr. T の recomendaciones 推薦記事です。今週号も4€と値上げはありません。約520円 です。Compra 6 TOROS 6 ahora mismo. 

• La Opinión del Director 5
• Por derecho 6
• En directo 8
• Protagonistas de julio: Rafaelillo y Antonio Nazaré 10
Entrevista: Eduardo Lozano y la plaza de Pontevedra 12
Entrevista: Carlos Zúñiga y el abono de Gijón 14
• Villaseca de la Sagra inaugura plaza 16
• Novilladas en Madrid y Plaza México 18
• Feria de Julio de Valencia 19
• Feria de Santiago en Santander 26
• Última hora y Festejos 29
• Escalafón 30
• Nueva ganadería: La Rosaleda 32
• Novillero: Martín Escudero 33
• Tauroguía 34
• Tauro.net 36
El año Belmonte: Anecdotario taurino 37
Evocación: Antonio Ordóñez y Mondeño en Santander 38
• Las tauromaquias pintadas: Luis García-Ochoa 40
• De pitón a pitón 42

ご意見、ご質問等ございましたら、
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‪Ignacio de Loyola‬ murió. (1556年) 聖ロヨラ 野上豐一郎

本日は ‪Ignacio de Loyola‬ イグナシオ・デ・ロヨラの忌日であります。そこで 野上豐一郎の「聖ロヨラ」を掲載することとしました。


 イタリアでアシジのサンフランチェスコの遺跡を見たので、エスパーニャではサンロ ヨラの遺跡を見たいものだと思つてゐた。聖ロヨラはヂェズイタ派(耶蘇會)の開祖であり、その同志で後輩なるハヴィエル(ザベリヨ)は天文年間に初めて日 本に耶蘇教を持つて來て猛烈な布教をした人であり、私の生れた豐後の地は領主大友宗麟の洗禮に拍車をかけられて最も早く耶蘇教化した地方であつたので、今 も昔語にいろんな話が遺つて居り、ロヨラの名はザベリヨの名やワリニャーニの名と共に早くから親しみを感じてゐた。それに、私自身耶蘇教徒ではないけれど も、一方、聖フランチェスコの超俗的な修道生活に敬意を捧げると同時に、他方、聖ロヨラの鬪士的教化運動にも興味を懷いてゐたので、その勇猛な精神の發生 弛を一見したいと望んでゐた。
 サン・セバスティアンの公使館の食堂で、その話が出た時、矢野公使は、明日はオニャーテの古い大學とビルバオの新らしい戰場に案内しようと思つてゐたが、ついでにロヨラにも寄らうといつた。
 サン・セバスティアンのヴィラ「ラ・クンブレ」を車で出かけたのは朝の八時半だつた。八月中旬の炎熱の日ではあつたが、道は山から山を傳つて行くのでは あり、車の速度に比例して嵐氣を含んだ風が爽やかに車窓を吹き拔けるので、少しも倦怠を感じなかつた。私たちの車は、初めは南へ南へと山道を登つたり降つ たりして進むのであつたが、どつちを見ても鋭い突つ立つた山ばかりで、次次に奇怪な形が展開するので馴れない目には珍らしかつた。それに、エスパーニャと いふ國は貧乏國だと思つてゐたが、道路だけは、どんな山の中へ行つてもすばらしい近代的な鋪裝がしてあつて、不思議なくらゐだつた。何しろ最後の王朝時代 に政府が思ひ切つた苛斂誅求をして全國に完全な道路網を張つたといふのだから、おかげでわれわれまで助かるといふものである。
 エルナニを左に見て、最初に通つた町はトロサであつた。オリアの盆地に横たはる人口一萬餘の工業都市で、またベレ帽の本産地である。ベレ帽には赤と黒が あり、一體に此の邊バスク地方では赤羅紗のベレ帽をかぶつた男が多く目につく。私たちの車にガソリンを入れた男も赤いベレ帽を横つちよにかぶつてゐた。
 トロサで道が二つに分れる。左の道を南東の方へ行くと昔のナヴァラ王國に出る。ナヴァラにはパンプロナの町があつて、聖ハヴィエルの生れた城が寺になつ て遺つてゐるといふから、其處へも行つて見たかつたが、だいぶ寄り道になるのでまた出直すことにして、私たちは右の道を西南の方へ取つて進んだ。
 その道をかまはず眞直ぐに行くと、サラゴサの手前から國道二十四號に出逢つてマドリィに達するのであるが、私たちはトロサの町から少し行き、ちよつとわ かりにくい道(それでも鋪裝はよく出來てゐる)を右へ曲つて、また山あひを走らせた。此の附近は最近の内亂初期の戰場で、ところどころに散らばつてる農家 に彈丸で壞された痕などが見えた。矢野公使は内亂の發生經路にくわしく、戰線に立つて觀戰したこともあるので、みちみち詳細な説明を聞きながら行つた。
 アスペイティアの村を通つたのは十時を過ぎてゐた。聖ロヨラの洗禮を受けた寺があるといふことだが、そのまま通り拔けると、やや打ち開けた盆地の前面約 二キロの地點に、一つの高い圓屋根の塔が白つぽい横に伸びた四角な建物に圍まれて立つてゐるのがすぐ目につく。それがこれから訪ねようとするロヨラの寺で あつた。


 ロヨラは地名で、それを姓にして領主の家はデ・ロヨラと名乘つてゐた。私たちの主人公は領主の息子で、俗名をドン・イニーゴ・ローペス・デ・レカルデと いひ、後に聖列に加へられて聖イグナシオ(イニャーシオ)と呼ばれた。コロンブスのアメリカ發見の前の年(一四九一年)に生れ、少壯の頃パンプロナの戰爭 に出かけ、重傷を負うて家の子郎黨に舁がれてロヨラに歸り、城内の一室に長い間病臥してゐた。一念發起して大悟したのはその時だつたといはれる。彼は助か らないものと覺悟してゐた命が助かり、譬へやうもない法悦の心に浸つて、神とキリストに對する感謝で充たされ、生涯を神の道に捧げたのである。それには、 もとよりわれわれの容易に窺ひ知ることのできない深い冥想と強い決意が先立つたものでなければならぬ。人類を無知と不信から救つて神の國の門へ導くために 命を投げ出さうとした彼の仕事が雄辯にそれを語つてゐる。
 彼がフランシスコ・ハヴィエル(ザベリヨ)と知つたのはパリであつた。彼は宗教の研究を志してコレジュ・サント・バルブに學んでゐた。其處へ十五歳年少 のハヴィエルが後れて留學した。當時はルネサンス思想の影響を受けてどこの國にも自由奔放な物の考へ方が行き亘つてゐた。殊にパリは文化の中心地で、集ま つてゐる學生の生活も極端に放縱に流れがちだつた。ハヴィエルもその影響を少からず受けてゐたといはれる。それを引き止めて戒律の正しい宗教生活の方へ連 れ込んだのは先輩ロヨラであつた。なほ他にも幾たりかの同志ができた。彼等は一五三七年ヴェネティアに會合して、將來のヂェズイタ派運動の基礎となるべき 盟約を結んだ。その時、ロヨラ四十六歳、ハヴィエル三十一歳であつた。
 機會は遂に法王パオロ三世の公然の允許を得て海外傅道の仕事を始めるやうに彼等を助けた。海外とはいつても專ら東洋であつた。東洋も印度を基礎にして當 時新たに「發見」された日本に主力を盡した。日本の傳道は最後には迫害を以つて禁止されたけれども、天文・永祿から元龜・天正へかけて極めて短年月の間に 驚くべき改宗者を得たことは、ヂェズイタ派としては奇蹟的な成功といふべきであつた。それは主としてハヴィエル以下第一線に立つた多くの熱心な伊留滿たち の不撓の努力の結果ではあつたが、根本は彼地に於いて絲を引いてゐた管長ロヨラの人格に因るものでなければならなかつた。
 さうしてロヨラの生れた家のある土地であり、其處に建てられたヂェズイタ派の本山であるから、日本から來た旅行者が興味を持つのも理由のないことではない。
 しかし、矢野氏の話によると、日本人で此の寺を訪問する者は甚だ稀だといふことで、恐らく私たちが最初ではないだらうかといふことだつた。


 ところが、その寺へ行つて見ると、何とこれがロヨラの宗派の本山かと失望せざるを得なかつた。
 此の寺は一六八一年、ロヨラの歿後百二十六年目にエステルライヒのフィリプ四世の皇妃マリアナが建てたもので、技師はカルロ・フォンタナであつた。規模 は相當に大きく、構造はロトンダ式で、一階は八角形を成し、上に支へられた圓屋根も決してわるい形ではないが、一たび内部に足を踏み入れると、誰しもその 金碧燦爛たる裝飾に首を傾げないではゐられないだらう。内部には圓柱がないので、隨つて主廊も側廊もなく、ただ徒らに廣い空間の正面に拱形の大きな聖壇が 光り輝いてゐるのだが、その主材はイトサリスの山から切り出したといはれる大理石で、壁面にくつ附いた數本の柱は極彩色に彩られ、その内の四本は大蛇が捲 かりついたやうた印象を與へるのもよくないし、中央上部の龕の中に安置された聖イニャーシオの立像のけばけばしい銀色に光つてるのもどうかと思ふ。その他 の細部について、私は正確な記憶を持たないが、一言にして盡せば、あくどく、しつこく、ごてごてして、いかにも人の目を眩惑させようとするかの如き意向が 見え、感歎の念を起させるやうなものではなかつた。
 私はエスパーニャの古い寺院では、その多くはエスパーニャ特有のゴティク樣式で、いづれも見事な構成に敬意を表したのであるが、ロヨラの本堂の惡趣味のバロッコ樣式だけは何としても贊成することができなかつた。
 しかし、本堂の左右から背面へかけて接合された大きな修道院(それは公開されてない)の一部に包み込んであるロヨラの生家は十分に一見に値するものであ つた。古い繪圖で見ると、昔は孤立した方形の城――といふよりは、大きな箱のやうな家で、高い一階は石で疊み上げ、比較的低い二階と三階は煉瓦造で、一階 の内部には大理石を張りつめ、ところどころ砲眼があるのは籠城の必要があつたものと見える。今ではそれがそつくり修道院の建物の中にそのまま保存されて、 希望者には觀覽させるやうになつてゐる。
 本堂を出て右へ曲ると、すぐ「聖館サンタ・カザ」 (ロヨラの生家はさう呼ばれてゐる)の入口の前に出る。其處に二つの銅像がある。右側のは、武裝した少年時代のロヨラの立像で、左手に長槍を持つて仰向い てゐる。その顏だけを白大理石にしてあるのは、他の青銅の部分とあまりに際立つた對照でいけない。左側のは、職場で負傷したロヨラとそれを助けたり途方に くれたりしてゐる三人の從者の群像で、特別の傑作でもないがまづくもない出來である。
 おもしろいのは入口のアーチの上に嵌め込んだロヨラ家の古い標札で、二匹の熊が一本の樹を中央にして向ひ合つてる浮彫である。
 案内者は三階から先に見せた。木造の天井も柱も昔のままに遺つて古色甚だ掬すべきものがある。一室は負傷したロヨラが長い間横臥してゐた所で、其處で彼は生涯の重大な轉向を體驗したといはれる。
 二階も古い天井の木組が珍らしく、一室はロヨラの生れた部屋、その隣りにゆかを大理石で敷きつめた部屋があり、種種の貴重な物が藥味箪笥のやうな抽斗に所藏してある。これは耶蘇會の信者たちが後で蒐集したものださうだが、その中にはキリストの爪などもあるさうだ。東洋で佛骨や佛齒を珍重するやうなものだらう。その隣りは銀でゆかを張つた祭壇で、これはロヨラの家族の祭壇だつたものだといふ。
 一階に下りると、サン・ホセ(ヨセフ)を祀つた部屋があり、イタリア風のモザイクの床が美しく、大理石の床の間からは先にいつた砲眼が開いてゐる。隣り には法王ピウス匹世を祀つた部屋があり、またロヨラの前で多くの聖列に入れられた同志たちが膝まづいて拜んでる大きな浮彫の祭壇がある。左列の中央から二 番目の像がハヴィエルだと案内者は説明した。ハヴィエルの像の信用すべきものは少いと聞いてゐたので私は熱心に見たが、俯向いた横顏で個性の表はれはよく 見取れなかつた。


 參詣人は私たちの外には殆んどなかつた。「聖館サンタ・カザ」 でアメリカ人らしい一組に出逢つただけだつた。土地も僻遠な所であり、ヴァティカノのやうな大量的な參詣人を見出さうとは豫期してゐなかつたけれども、と にかくヂェズイタ派の本山ではあり、相當な群集があるものと思つてゐたのに、意外だつた。さういへば、アジジの聖フランチェスコの寺だつて大して參詣人は なかつた。
 しかし、ヂェズイタ派にしても、フランチェスコ派にしても、寺よりは修道院が主體で、寺に善男善女を集めて拜ませるよりも俗界へ飛び込んで行つて傳道す る鬪士を養成するのが目的だつたのだ。今はさういつた仕事を救世軍がやつてゐる。ヂェズイタ派の組織は近代の初葉に於いては時勢に適合したものであつた が、今日では場ちがひなものになつたのではなからうか? エスパーニャはカトリック國の中でも「最もカトリック的な國」だといはれ、どこの寺へ行つても多 くの熱心な信者が本堂の隅隅に膝まづいて十字を切つて拜んでるのが見られるが、それは皆サンタ・マリアを拜むのである。サン・イニャーシオなどは人氣がな ささうである。
 サン・イニャーシオの一黨が三百年前に日本へ侵入して布教したのは、日本文化史の上から見れば多大の貢獻をしてくれたことになるが、ハヴィエルにしても トレスにしても、ワリニャーニにしても、いづれも宗教的情熱に湧き立つ拔群の鬪士ではあつたけれども、靈魂の救濟のことばかりに夢中になつて、彼等の文化 の美しい花を移植しようとは考へもしなかつた。果實を持つて來て蒔いて置けばよいといつたやうな態度だつた。その證據には、當時あれほど見事に爛※(「火+曼」、第4水準2-80-1)と咲き亂れてゐたルネサンスの文化が何一つとしてわれわれの國には傳はらなかつたのである。建築・彫刻・繪畫・音樂・詩・戲曲・等等。尤も、それ等のものの大部分は傳道者たち自身が否定しようとしたものであつただらうから、傳はらなかつたのも當然といへるかも知れないが。
 しかし、それは日本を理解しなかつたからである。日本民族の藝術に對する鋭敏な知性を觀破したならば、彼等は千三百年前の佛教傳道者の如く、まづきらび やかな藝術の衣を着せて人類愛の教義を持ち込んで、或ひはもつと成功したかも知れなかつたのだ。ところが、さういつた民族的不理解は、三百年を經過した今 日に於いてもまだいろんな方面に於いて東洋と西洋の間に嚴存してるのだから驚かざるを得ない。……
 そんなことを考へながら、それでもわれわれの祖先の中に彼の最善と信じるものを蒔きつけようとしたサン・イニャーシオ上人に敬意を表することを私は怠りはしなかつた。
 寺を出ると左手のイサライツの山の緩い斜面には正午に近い陽光が一面に降り注いで、その上の碧空にはアド・バルーンのやうな白い雲が二つ三つ浮かんでゐた。
 私たちはオニャーテの方へ駈けらした。

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La Liga Gaélica ゲール語連盟 (1893年)

1893年の今日、7月末日、アイルランドで 或る言語団体が生まれました。


ゲール語連盟(英語:The Gaelic League, アイルランド語:Conradh na Gaeilge)は、18世紀末から19世紀にかけてアイルランド語とゲール文化の復興を掲げてアイルランドで活動した団体です。1893年7月31日にロスコモン州出身のプロテスタントである Douglas Hyde ダグラス・ハイドらによってダブリンで設立されました。創設メンバーには 他に Eugene O'Growney、Eoin MacNeill、Luke K. Walsh などがいます。Gaelic Union が発展解消して結成されたゲール語連盟はゲール語復興運動の中心となり、イースター蜂起などのアイルランド独立運動にも大きな影響を与えました。連盟の機関誌は『光の剣』(An Claidheamh Soluis)で、編集者には Pádraig Pearse パトリック・ピアース (次の foto) らがいます。




La Liga Gaélica (en irlandés: Conradh na Gaeilge) es una organización "para mantener la lengua irlandesa hablada en Irlanda". Se fundó en Dublín el 31 de julio de 1893 por Douglas Hyde, un protestante de Frenchpark (condado de Roscommon) con la ayuda de Eugene O'Growney, Eoin MacNeill, Luke K. Walsh y otros. Fue una evolución de la anterior Unión Gaélica y se convirtió en la principal institución promotora del renacimiento gaélico. El primer diario de la Liga fue An Claidheamh Solus ("La espada de luz") de la cual fue el principal editor Pádraig Pearse.

Aunque era apolítica, la liga atrajo a muchos nacionalistas irlandeses de orientaciones diversas, más que la Asociación Atlética Gaélica. Fue a través de la liga que muchos de los futuros rebeldes y líderes políticos se encontraron por primera vez, y patrocinaron la fundación de otros grupos como los Voluntarios Irlandeses. La mayoría de los firmantes de la Proclamación de Pascua eran miembros de la Liga.

Tras la fundación del Estado Libre Irlandés, la organización perdió buena parte de su rol en la vida pública. Posteriormente ha dirigido la campaña para la aprobación de la Ley de Lenguas Oficiales de 2003 que da protección legal a los hablantes de irlandés y creó el cargo del An Coimisinéir Teanga (Comisionado de Lenguas).

Conradh na Gaeilge se encuentra entre las organizaciones responsables de coordinar la campaña para que el irlandés sea considerada lengua oficial de la Unión Europea. Más recientemente, la organización se ha visto envuelta en una disputa con el Fine Gael sobre la política de este partido destinada a acabar con el estatuto de la lengua irlandesa como asignatura obligatoria para obtener el Leaving Certificate. La Liga ha incitado a los votantes para que en las elecciones generales sólo voten a por candidatos que se muestren a favor del mantenimiento del estatuto actual de la lengua irlandesa.

以下ゲール語です。

Eagraíocht is ea é Conradh na Gaeilge (seanlitriú: Connradh na Gaedhilge) a bunaíodh sa bhliain 1893 chun an Ghaeilge a choinneáil á labhairt agus a chur i mbéal na ndaoine in Éirinn arís, agus an meath tubaisteach a tháinig uirthi sa 19ú haois. Is gnách dearcadh ar Dhubhghlas de hÍde mar phríomhbhunaitheoir an Chonartha, ós rud é gurbh eisean a chuir tús leis an ngluaiseacht Gaeilge lena chuid óráidíochta faoi ath-Ghaelú na hÉireann. Bunaitheoirí tábhachtacha eile ab ea iad Eoin Mac Néill agus Eoghan Ó Gramhnaigh.






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不払いにより 41もの闘牛場がストライキ Un total de 41 plazas, en huelga por impagos


Un total de 41 plazas, en huelga por impagos
La Unión de Toreros, y la Unión Nacional de Picadores y Banderilleros han decidido, conjuntamente, convocar huelgas en todas las plazas de toros de España en las que existan impagos a profesionales del sector taurino en las últimas temporadas, según informa sevillataurina.com. Las organizaciones convocantes estiman que las empresas que explotan estas plazas de toros, en su mayoría, se crean para funcionar sólo durante la temporada taurina e incumplen sus obligaciones con toreros, ganaderos y ayuntamientos, adeudando también pagos a la Hacienda Pública y a la Seguridad Social.
Así, hasta un total de 41 plazas de toros mantienen actualmente deudas con distintos profesionales taurinos, y, en consecuencia, son las afectadas por esta huelga, traducida en parones temporales, sin que nadie pueda torear allí, hasta que se pongan al día con sus pagos. Las mayoritarias son de Castilla-La Mancha, con 24 cosos taurinos afectados. Además, la región de Andalucía cuenta con un total de once plazas en esta lista negra con huelga de profesionales del sector.

La crisis の影響もあるでしょうが恐ろしい事態です。特に、カスティージャ・ラ・マンチャ地方が酷いようです。闘牛の明るい話題は少ないようです。しかし、この試練は乗り越えなくてはいけません。それほどまでに闘牛とは人間性にとって大事なものなのです。


La Armada Española llega a las costas de Inglaterra 無敵艦隊 (1588年)

誰もが一度は耳にしたことのある「無敵艦隊」の御話であります。

1588年5月、メディナ・シドニア公率いる約130隻のスペイン無敵艦隊がリスボンを出発しました。無敵艦隊は7月末から8月初め(旧暦7月)に行われた一連の海戦の後のグラブリンヌ沖海戦でイングランド艦隊に敗北して作戦続行を断念し、北海方向へ退避しました。無敵艦隊はスコットランドとアイルランドを迂回して帰国を目指すも、悪天候によって大損害を蒙ってしまい、結局スペイン本国に帰還できたのは約半数の67隻でした。死傷者は2万におよび、スペイン衰退の予兆となりました。但し、この戦いの後イングランドは反攻作戦に失敗して戦争の主導権を失い、一方、スペインは艦隊を再建して制海権を守り通しており、戦争は1604年にスペイン側有利で終わっています。大英帝国が海洋覇権国家となるのにはまだ長い年月を必要としたのです。





Armada Invencible es un término de origen inglés, para referirse a la Empresa de Inglaterra de 1588 proyectada por el monarca español Felipe II para destronar a Isabel I de Inglaterra e invadir Inglaterra. El ataque tuvo lugar en el contexto de la Guerra anglo-española de 1585-1604. El ataque fracasó pero la Guerra se extendió 16 años más y terminó con el Tratado de Londres de 1604, favorable a España.

Felipe II decidió articular el ataque conjuntamente, y de manera compleja, desde Portugal y desde las posesiones españolas en los actuales Países Bajos. Se armó una gran flota en puertos españoles que recibió el nombre de Grande y Felicísima Armada. Las naves enviadas desde Portugal (pues Felipe también gobernaba allí) participarían en el combate, mientras que las fuerzas españolas que salieran simultáneamente desde Países Bajos, con los Tercios de Flandes, se encontrarían entre el Canal de la Mancha y el Mar del Norte con las que habían salido de la península, con el objetivo de desembarcar en Inglaterra. Esta invasión no pretendía la anexión de las islas británicas al Imperio español, sino la expulsión de Isabel I del trono inglés, y respondía a la ejecución de María Estuardo, la política anti-española de piratería y a la Guerra de Flandes. Debía mandarla el almirante de Castilla Don Álvaro de Bazán, marqués de Santa Cruz, pero murió poco antes de la partida de la flota, siendo sustituido a toda prisa por Alonso Pérez de Guzmán (VII duque de Medina-Sidonia), Grande de España. Estaba compuesta de 127 barcos que partieron de España, y de ellos, 122 barcos penetraron en el Canal de la Mancha.

Las turbulentas condiciones meteorológicas en el mar llevaron al naufragios a muchas naves, sin embargo 87 barcos, unas tres cuartas partes, regresaron a España. sin haber cumplido su misión de derrotar las fuerzas inglesas y favorecer el ataque desde Flandes. Al año siguiente Inglaterra intentó aprovechar la ventaja obtenida tras este fracaso de ataque español y realizó su propia flota, la Contraarmada o Invencible inglesa (con una flota aún mayor que la española), resultando en otro absoluto fracaso y devolviendo el statu quo al conflicto.








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2013年7月30日火曜日

日本語も広めよう

読売新聞を読んでいると、以下の記事が目に入りました。「ニホンゴ学べる専用サイト開設…外相に提言へ」です。


 外相の私的懇談会「海外における日本語の普及促進に関する有識者懇談会」の政策提言案が30日、明らかになった。
 外国人の日本語学習を支援するため、インターネット上に専用サイトを開設することや、日本語講師の研修を行うことなどが柱だ。政府のクール・ジャパン(かっこいい日本)戦略で高まる日本語学習熱に応える狙いがある。
提言案では、国際交流基金が日本語学習サイト「eラーニング講座」(仮称)を設置し、初学者向けの学習ソフトを無料提供するほか、将来的に日本人 ボランティアとの会話や有料の日本語レッスン受講を可能にすることが盛り込まれている。日本語教師の日本での研修や、アニメなどを活用した教材の提供も検 討する。日本語教育の機会を増やすため、各国の教育機関担当者を日本に招くことや、日本語学習者向けの就職説明会を開催する方針も打ち出した。
 提言は近く外相に提出され、外務省は来年度予算の概算要求にサイト開設費などを盛り込む。
(2013年7月30日17時51分  読売新聞)


また、3週間ほど前には「海外で日本語学ぶ外国人、過去最多…中国が初の1位」という題で以下の記事が載っていました。


 海外で日本語を学んでいる外国人は昨年、398万4538人に上り、過去最高を更新したことが、国際交流基金が8日発表した調査結果(速報値)でわかった。
 前回の2009年調査に比べ9・1%増えており、国・地域別では中国が初めてトップになった。
 調査は昨年7月~今年3月、在外公館などを通じ、203か国・地域で実施。日本語教育を行っている小中高校、大学、民間の塾など約1万8500機関から回答を得た。
 日本語教育が行われていたのは136か国・地域で、前回比7・5%増の1万6045機関。国・地域別では、同26・5%増の中国(約104万 6000人)、インドネシア(約87万2000人)と続き、1984年調査からトップを続けていた韓国(約84万人)は3位に下がった。
(2013年7月9日  読売新聞)


日本は戦争及び力によって占領地のアジアに日本語を広めようとしたことがありました。その反省からか 今迄は余り日本語を世界に広げることに積極的だったとは言えません。我らが日本語も(¿我らが?)スペイン語、英語などに負けない素晴らしい言語です。日本語教育を通して 例えば 日本文学をもっと世界に紹介していくことなども大事なことなのではないでしょうか。


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Mothra モスラ(1961年)

昔は怪獣映画が流行ったものです。1961年の今日、7月30日、モスラが封切られました。Ernesto Mr. T 5歳の時であります。

この映画は他の怪獣映画とは違い、原作の執筆陣が凄いのであります。中村真一郎、福永武彦、堀田善衛の3者による『発光妖精とモスラ』なのです。日本文学界の大御所3人による執筆なのであります。なお、映画でフランキー堺が演じる¿主人公?福田善一郎は、原作者3人の名前を組み合わせたものなのです。


Hottta Yoshie, 堀田善衛






中村真一郎/福永武彦 /堀田善衛 『発光妖精とモスラ』 - 原爆文学




¡MONSTRUOSO! Cine de Monstruos Gigantes: MOTHRA [Original ...



以下の trailer の中にもあるように 音楽もなかなかのものであります。





小説と映画の違いの主なものは、まず小説の小美人は2人ではなく4人で、身長も映画(30cm)の倍あります。また原作ではモスラが繭を作る場所が国会議事堂というところも政治に対する文学者達なりの批判精神の顕れであったのでしょう。映画では東京タワーになってしまっていますが。


ロシリカ共和国は決定稿ではロリシカ共和国となっていますが、当時核開発競争に躍起であったロシア+アメリカへの皮肉でありましょう。

その他の違いを含め、更なる御楽しみは 拙ブログを御覧の皆様各自で。


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ごんぎつね 新美南吉

今日は Ernesto Mr. T の郷土 知多半島が生んだ 児童文学者 新美南吉 (1913年7月30日 - 1943年3月22日)の誕生日です。本日で生誕100年となりました。そこで 今回は その代表作とも言える『ごん狐』を掲載することに致しました。こんな物語を書ける作家はもう現代にはいなくなってしまったようです。




 これは、わたしが小さいときに、村の茂平もへいというおじいさんからきいたお話です。
 むかしは、私たちの村のちかくの、中山なかやまというところに小さなお城があって、中山さまというおとのさまが、おられたそうです。
 その中山から、少しはなれた山の中に、「ごんぎつね」という狐がいました。ごんは、一人ひとりぼっちの小狐で、しだの一ぱいしげった森の中に穴をほって住んでいました。そして、夜でも昼でも、あたりの村へ出てきて、いたずらばかりしました。はたけへ入って芋をほりちらしたり、菜種なたねがらの、ほしてあるのへ火をつけたり、百姓家ひゃくしょうやの裏手につるしてあるとんがらしをむしりとって、いったり、いろんなことをしました。
 あるあきのことでした。二、三日雨がふりつづいたそのあいだ、ごんは、外へも出られなくて穴の中にしゃがんでいました。
 雨があがると、ごんは、ほっとして穴からはい出ました。空はからっと晴れていて、百舌鳥もずの声がきんきん、ひびいていました。
 ごんは、村の小川おがわつつみまで出て来ました。あたりの、すすきの穂には、まだ雨のしずくが光っていました。川は、いつもは水がすくないのですが、三日もの雨で、水が、どっとましていました。ただのときは水につかることのない、川べりのすすきや、はぎの株が、黄いろくにごった水に横だおしになって、もまれています。ごんは川下かわしもの方へと、ぬかるみみちを歩いていきました。
 ふと見ると、川の中に人がいて、何かやっています。ごんは、見つからないように、そうっと草の深いところへ歩きよって、そこからじっとのぞいてみました。
兵十ひょうじゅうだな」と、ごんは思いました。兵十はぼろぼろの黒いきものをまくし上げて、腰のところまで水にひたりながら、魚をとる、はりきりという、網をゆすぶっていました。はちまきをした顔の横っちょうに、まるい萩の葉が一まい、大きな黒子ほくろみたいにへばりついていました。
 しばらくすると、兵十は、はりきり網の一ばんうしろの、袋のようになったところを、水の中からもちあげました。その中には、芝の根や、草の葉や、くさった木ぎれなどが、ごちゃごちゃはいっていましたが、でもところどころ、白いものがきらきら光っています。それは、ふというなぎの腹や、大きなきすの腹でした。兵十は、びくの中へ、そのうなぎやきすを、ごみと一しょにぶちこみました。そして、また、袋の口をしばって、水の中へ入れました。
 兵十はそれから、びくをもって川からあがりびくを土手どてにおいといて、何をさがしにか、川上かわかみの方へかけていきました。
 兵十がいなくなると、ごんは、ぴょいと草の中からとび出して、びくのそばへかけつけました。ちょいと、いたずらがしたくなったのです。ごんはびくの中の魚をつかみ出しては、はりきり網のかかっているところより下手しもての川の中を目がけて、ぽんぽんなげこみました。どの魚も、「とぼん」と音を立てながら、にごった水の中へもぐりこみました。
 一ばんしまいに、太いうなぎをつかみにかかりましたが、何しろぬるぬるとすべりぬけるので、手ではつかめません。ごんはじれったくなって、頭をびくの中 につッこんで、うなぎの頭を口にくわえました。うなぎは、キュッと言ってごんの首へまきつきました。そのとたんに兵十が、向うから、
「うわアぬすと狐め」と、どなりたてました。ごんは、びっくりしてとびあがりました。うなぎをふりすててにげようとしましたが、うなぎは、ごんの首にまきついたままはなれません。ごんはそのまま横っとびにとび出して一しょうけんめいに、にげていきました。
 ほら穴の近くの、はんの木の下でふりかえって見ましたが、兵十は追っかけては来ませんでした。
 ごんは、ほっとして、うなぎの頭をかみくだき、やっとはずして穴のそとの、草の葉の上にのせておきました。


 十日とおかほどたって、ごんが、弥助やすけというお百姓の家の裏を通りかかりますと、そこの、いちじくの木のかげで、弥助の家内かないが、おはぐろをつけていました。鍛冶屋かじや新兵衛しんべえの家のうらを通ると、新兵衛の家内が髪をすいていました。ごんは、
「ふふん、村に何かあるんだな」と、思いました。
なんだろう、秋祭かな。祭なら、太鼓や笛の音がしそうなものだ。それに第一、お宮にのぼりが立つはずだが」
 こんなことを考えながらやって来ますと、いつのにか、表に赤い井戸のある、兵十の家の前へ来ました。その小さな、こわれかけた家の中には、大勢おおぜいの人があつまっていました。よそいきの着物を着て、腰に手拭てぬぐいをさげたりした女たちが、表のかまどで火をたいています。大きななべの中では、何かぐずぐず煮えていました。
「ああ、葬式だ」と、ごんは思いました。
「兵十の家のだれが死んだんだろう」
 おひるがすぎると、ごんは、村の墓地へ行って、六地蔵ろくじぞうさんのかげにかくれていました。いいお天気で、遠く向うには、お城の屋根瓦やねがわらが光っています。墓地には、ひがんばなが、赤いきれのようにさきつづいていました。と、村の方から、カーン、カーン、と、かねが鳴って来ました。葬式の出る合図あいずです。
 やがて、白い着物を着た葬列のものたちがやって来るのがちらちら見えはじめました。話声はなしごえも近くなりました。葬列は墓地へはいって来ました。人々が通ったあとには、ひがん花が、ふみおられていました。
 ごんはのびあがって見ました。兵十が、白いかみしもをつけて、位牌いはいをささげています。いつもは、赤いさつまいもみたいな元気のいい顔が、きょうは何だかしおれていました。
「ははん、死んだのは兵十のおっかあだ」
 ごんはそう思いながら、頭をひっこめました。
 その晩、ごんは、穴の中で考えました。
「兵十のおっ母は、とこについていて、うなぎが食べたいと言ったにちがいない。それで兵十がはりきり網 をもち出したんだ。ところが、わしがいたずらをして、うなぎをとって来てしまった。だから兵十は、おっ母にうなぎを食べさせることができなかった。そのま まおっ母は、死んじゃったにちがいない。ああ、うなぎが食べたい、うなぎが食べたいとおもいながら、死んだんだろう。ちょッ、あんないたずらをしなけりゃ よかった。」


 兵十が、赤い井戸のところで、麦をといでいました。
 兵十は今まで、おっ母と二人ふたりきりで、貧しいくらしをしていたもので、おっ母が死んでしまっては、もう一人ぼっちでした。
「おれと同じ一人ぼっちの兵十か」
 こちらの物置ものおきうしろから見ていたごんは、そう思いました。
 ごんは物置のそばをはなれて、向うへいきかけますと、どこかで、いわしを売る声がします。
「いわしのやすうりだアい。いきのいいいわしだアい」
 ごんは、その、いせいのいい声のする方へ走っていきました。と、弥助やすけのおかみさんが、裏戸口から、
「いわしをおくれ。」と言いました。いわしうりは、 いわしのかごをつんだ車を、道ばたにおいて、ぴかぴか光るいわしを両手でつかんで、弥助の家の中へもってはいりました。ごんはそのすきまに、かごの中か ら、五、六ぴきのいわしをつかみ出して、もと来た方へかけだしました。そして、兵十の家の裏口から、家の中へいわしを投げこんで、穴へむかってかけもどりました。途中の坂の上でふりかえって見ますと、兵十がまだ、井戸のところで麦をといでいるのが小さく見えました。
 ごんは、うなぎのつぐないに、まず一つ、いいことをしたと思いました。
 つぎの日には、ごんは山でくりをどっさりひろって、それをかかえて、兵十の家へいきました。裏口からのぞいて見ますと、兵十は、午飯ひるめしをたべかけて、茶椀ちゃわんをもったまま、ぼんやりと考えこんでいました。へんなことには兵十のほっぺたに、かすり傷がついています。どうしたんだろうと、ごんが思っていますと、兵十がひとりごとをいいました。
「一たいだれが、いわしなんかをおれの家へほうりこんでいったんだろう。おかげでおれは、盗人ぬすびとと思われて、いわし屋のやつに、ひどい目にあわされた」と、ぶつぶつ言っています。
 ごんは、これはしまったと思いました。かわいそうに兵十は、いわし屋にぶんなぐられて、あんな傷までつけられたのか。
 ごんはこうおもいながら、そっと物置の方へまわってその入口に、栗をおいてかえりました。
 つぎの日も、そのつぎの日もごんは、栗をひろっては、兵十の家へもって来てやりました。そのつぎの日には、栗ばかりでなく、まつたけも二、三ぼんもっていきました。


 月のいい晩でした。ごんは、ぶらぶらあそびに出かけました。中山さまのお城の下を通ってすこしいくと、細い道の向うから、だれか来るようです。話声が聞えます。チンチロリン、チンチロリンと松虫が鳴いています。
 ごんは、道の片がわにかくれて、じっとしていました。話声はだんだん近くなりました。それは、兵十と加助かすけというお百姓でした。
「そうそう、なあ加助」と、兵十がいいました。
「ああん?」
「おれあ、このごろ、とてもふしぎなことがあるんだ」
「何が?」
「おっ母が死んでからは、だれだか知らんが、おれに栗やまつたけなんかを、まいにちまいにちくれるんだよ」
「ふうん、だれが?」
「それがわからんのだよ。おれの知らんうちに、おいていくんだ」
 ごんは、ふたりのあとをつけていきました。
「ほんとかい?」
「ほんとだとも。うそと思うなら、あした見にいよ。その栗を見せてやるよ」
「へえ、へんなこともあるもんだなア」
 それなり、二人はだまって歩いていきました。
 加助がひょいと、うしろを見ました。ごんはびくっとして、小さくなってたちどまりました。加助は、ごんには気がつかないで、そのままさっさとあるきました。吉兵衛きちべえというお百姓の家まで来ると、二人はそこへはいっていきました。ポンポンポンポンと木魚もくぎょの音がしています。窓の障子しょうじにあかりがさしていて、大きな坊主頭ぼうずあたまがうつって動いていました。ごんは、
「おねんぶつがあるんだな」と思いながら井戸のそばにしゃがんでいました。しばらくすると、また三人ほど、人がつれだって吉兵衛の家へはいっていきました。お経を読む声がきこえて来ました。




 ごんは、おねんぶつがすむまで、井戸のそばにしゃがんでいました。兵十と加助は、また一しょにかえっていきます。ごんは、二人の話をきこうと思って、ついていきました。兵十の影法師かげぼうしをふみふみいきました。
 お城の前まで来たとき、加助が言い出しました。
「さっきの話は、きっと、そりゃあ、神さまのしわざだぞ」
「えっ?」と、兵十はびっくりして、加助の顔を見ました。
「おれは、あれからずっと考えていたが、どうも、そりゃ、人間じゃない、神さまだ、神さまが、お前がたった一人になったのをあわれに思わっしゃって、いろんなものをめぐんで下さるんだよ」
「そうかなあ」
「そうだとも。だから、まいにち神さまにお礼を言うがいいよ」
「うん」
 ごんは、へえ、こいつはつまらないなと思いました。おれが、栗や松たけを持っていってやるのに、そのおれにはお礼をいわないで、神さまにお礼をいうんじゃア、おれは、引き合わないなあ。


 そのあくる日もごんは、栗をもって、兵十の家へ出かけました。兵十は物置でなわをなっていました。それでごんは家の裏口から、こっそり中へはいりました。
 そのとき兵十は、ふと顔をあげました。と狐が家の中へはいったではありませんか。こないだうなぎをぬすみやがったあのごん狐めが、またいたずらをしに来たな。
「ようし。」
 兵十は立ちあがって、納屋なやにかけてある火縄銃ひなわじゅうをとって、火薬をつめました。
 そして足音をしのばせてちかよって、今戸口を出ようとするごんを、ドンと、うちました。ごんは、ばたりとたおれました。兵十はかけよって来ました。家の中を見ると、土間どまに栗が、かためておいてあるのが目につきました。
「おや」と兵十は、びっくりしてごんに目を落しました。
「ごん、おまいだったのか。いつも栗をくれたのは」
 ごんは、ぐったりと目をつぶったまま、うなずきました。
 兵十は火縄銃をばたりと、とり落しました。青い煙が、まだ筒口つつぐちから細く出ていました。





次の マンガ video を原作を少し翻案したもののようです。




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