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2012年9月18日火曜日

知里幸恵 夭逝したアイヌ ainu の天才少女 genia


90年前の今日、1922年(大正11年)9月18日、1人の天才少女が亡くなりました。北海道登別市出身のアイヌ人・知里 幸恵(ちり ゆきえ)、19年の生涯でした。
その著書『アイヌ神謡集』の出版が、絶滅の危機に追い込まれていたアイヌ民族・アイヌ伝統文化の復権復活へ転機をもたらしたのです。
近年、マスコミや各地のセミナー等でその再評価の声が高まっており、また幸恵への感謝から、「知里幸恵」記念館の建設運動が活潑化しています。 * 2008年10月には、NHKの『その時歴史が動いた』で幸恵が詳細に取り上げられ(以下の * 印のサイトで全編を見ることができます。 )、インターネット書店「アマゾン」の「本のベストセラー」トップ10に、『アイヌ神謡集』が入りました。
『アイヌ神謡集』は、フランス語・英語・ロシア語にも翻訳されており、2006年1月には、2008年度ノーベル文学賞受賞者フランス人作家ル・クレジオが、そのフランス語版の出版報告に幸恵の墓を訪れています。
知里 幸恵は、1903年(明治36)年6月8日、北海道幌別郡(現・登別市、札幌市か ら南へ約100キロ)のアイヌ人のごく普通の家庭に生まれました(父・高吉、母・ナミ)。 当時のアイヌには珍しく旭川で女学校にまで進学しています。 幸恵の祖母はユーカラクル、すなわちアイヌの口承の叙事詩“カムイユカラ”の謡い手でした。カムイユカラは、文字を持たなかったアイヌ民族にとっ て、その価値観・道徳観・伝統文化等を子孫に継承していく上で重要なものであり、幸恵はこのカムイユカラを身近に聞くことができる環境で育ちました。
幸恵の生まれた時代は、アイヌにとって異民族である日本人が明治政府の政策(ロシアの南下への対抗)や新天地を求めて北海道に本格的に進出し30年以 上経過していました。明治政府の政策(アイヌ人の土地没収、収入源の漁業・狩猟禁止、日本風氏名への改名、アイヌ固有の習慣風習禁止、日本語使用の義務)によ り、アイヌ民族・アイヌ伝統文化は経済的・精神的に絶滅の危機に瀕していました。
この状況下、幸恵は小学校では、幸恵にとって外国語である日本語の読み書きを必死に学ぶなど真面目な生徒でしたが、日本人(軍人・開拓民)によるアイヌの人々への差別に日々悩んでいました。
夜は、囲炉裏端で祖母から謡ってもらうアイヌの叙事詩“カムイユカラ”を聞き、明治以前のアイヌの歴史と伝統に触れることができました。
この幸恵の家を言語学者の金田一京助が訪れたのは、幸恵が15歳の時でした。金田一京助の目的は絶滅の危機に瀕していたアイヌ民族の伝統文化を記録することでした。幸恵は、金田一が幸恵の祖母たちからアイヌ伝統のカムイユカラを熱心に聞き記録に取る姿を見て、金田一のアイヌ伝統文化への尊敬の念、カムイユカラ研究への熱意を感じました。
金田一と出会う以前の幸恵は、自らがアイヌ人であることへの劣等感を抱いていました。学校(明治政府による正式校名:旧土人学校)では、日本人教師たち から、「アイヌ人(明治政府による正式呼称:旧土人)は劣った民族である、賤しい民族である」と政策的に繰り返し教えられ、幼い頃から疑うことなくそのま ま信じ込んでいましたが、金田一から直接「アイヌ民族・アイヌ文化は偉大なものであり自慢でき誇りに思うべき」と諭されて、独自の言語・歴史・文化・風習を持 つアイヌ人としての自信と誇りに目覚めたのです。
その後、幸恵はアイヌ民族の文化・伝統・言語を多くの人たちに知ってもらいたいとの一心からカムイユカラをアイヌ語から日本語に翻訳する作業を始めました。やがて、カムイユカラを「文字」にして後世に残そうという金田一からの要請を受け、東京の金田一宅に身を寄せて翻訳作業を続けました。
幸恵は重度の心臓病を患い、医者からも絶対安静を告げられていたが、病気をおして翻訳・編集・推敲作業を続けました。『アイヌ神謡集』は1922年(大正11年)9月18日に完成しました。しかしその日の夜、幸恵は心臓発作のため死去してしまいました。享年19でした。
幸恵がその命と引き換えに完成させた『アイヌ神謡集』は翌1923年(大正12年)8月10日に、柳田國男の編集による『炉辺叢書』の一冊として、郷土研究社から出版されました。
明治時代以前、アイヌ民族は農業・狩猟・漁業により自然と共存した生活を享受してきました。また、川でとったサケなど「アイヌの特産物」により、北は樺太を通じてロシアと、東は、千島列島を通ってカムチャツカ半島の先住民イテリメン人と、広範囲に交易も行っていました。アイヌ民族は文字を持たない民族ながら、樺太・北海道・千島列島を中心に一大文化圏を築いていたのです。
しかし19世紀に入り、アイヌを脅かす存在となったのが、南下政策をとるロシアと、それに危機感を覚え、樺太・北海道・千島などを防衛したい日本でした。
そのために明治政府は、ロシアの領土拡張(南下)の脅威に加え、鉱産資源の開発のために本格的に日本人(軍人・開拓民)を北海道に進出させて、北海道開拓を積極的に行いましたが、このことが、アイヌ人の生活を一変させてしまいました。
明治政府は、1899年(明治32年)に制定した『北海道旧土人保護法』 (土人とは土着民の意であり、新たに北海道に移住した人と区別するために元々の住民を旧土人と呼んだ)により、アイヌ人保護を行いました。しかし、これを、口 実であって日本人への同化すなわちアイヌ民族の自然消滅を進めたと解釈する者もいます。この法律に記されている内容は、農業に従事したいアイヌに対する土地 の無償附与、貧困者への農具の給付や薬価の給付、また貧困者の子弟への授業料の給付等です。
これにより、アイヌ民族の生活は、明治時代以前とは大きく変化しました。アイヌの人々にとって、外来の明治政府に土地を没収された土地が、外からやって来た「開拓民」に安価で払い下げられる様子は、精神的にアイヌの人々を絶望させました。
また、明治政府に土地や漁業権・狩猟権など生活基盤を没収されたことで、貧困へと追い込まれたアイヌ人もおり、当時、「座して死を待つばかり」と形容されたアイヌ民族、アイヌ伝統文化は消滅の危機に瀕していました。
明治時代に入り絶滅の危機に瀕していたアイヌ文化アイヌ民族に自信を与え、復権・復活の転機となった幸恵の『アイヌ神謡集』の出版は、当時新聞にも 大きく取り上げられ、多くの人が知里幸恵を、そしてアイヌの伝統・文化・言語・風習を知ることとなりました。また幸恵が以前、金田一から諭され目覚めたように 多くのアイヌ人に自信と誇りを与えました。
幸恵の弟、知里真志保は言語学・アイヌ語学の分野で業績を上げ、アイヌ人初の北海道大学教授となりました。
また歌人として活躍したアイヌ人、森竹竹市・違星北斗らも知里真志保と同様、公にアイヌ人の社会的地位向上を訴えるようになりました。
このように、幸恵はアイヌ人が事態を改善する重要なきっかけをもたらしたのです。
幸恵の『アイヌ神謡集』により、アイヌ人にとって身近な“動物の神々”が、アイヌ人の日々の幸せを願って物語るカムイユカラが文字として遂に後世に 残されたのです。文字を持たないアイヌ民族にとって画期的な業績でした。かつて幸恵が祖母から謡ってもらったように、母親が読み聞かせ子供が容易に理解できる 程に平易な文章でつづられた13編からなる物語。アイヌ語から日本語に翻訳されたその文章には、幸恵のアイヌ語・日本語双方を深く自在に操る非凡な才能が 遺憾なく発揮されています。また、文字を持たないアイヌ語の原文を、日本人が誰でも気軽に口に出して読めるようにその音をローマ字で表し、日本語訳と併記されています。

Chiri Yukie (知里 幸恵 , June 8, 1903 – September 18, 1922) was a Japanese transcriber and translator of Yukar (Ainu epic tales). She was born into an Ainu family in Noboribetsu, a town in Hokkaidō, the northernmost prefecture of Japan, at a time in Japan's history when increasing immigration of Japanese (Wajin, as distinguished from the Ainu) to Hokkaidō was resulting in the Ainu being relocated into separate communities and, in many cases, their means of livelihood being taken from them. The Ainu were viewed as a backward people, and it was the policy of the government to assimilate them into the Japanese way of life. The Ainu themselves, for the most part, saw this as the best (and perhaps only) way to survive the changing times (Sjoberg 1993, Kayano 1980).
Chiri was sent to her aunt Imekanu in Chikabumi, on the outskirts of Asahikawa, when she was six years old, presumably to lessen the financial burden on her parents. Imekanu lived with her aged mother, Monashinouku, a seasoned teller of Ainu tales who spoke very little Japanese. Chiri thus grew to be completely bilingual in Japanese and Ainu, and had a familiarity with Ainu oral literature that was becoming less and less common by that time. Although she had to endure bullying in school, she excelled in her studies, particularly in language arts. But she suffered from an ethnic inferiority complex that afflicted many of her generation (Fujimoto 1991).
Chiri was in her mid-teens when she first met Japanese linguist and Ainu language scholar Kindaichi Kyōsuke during the nation's Taishō period. He was traveling around Hokkaidō in search of Ainu transmitters of oral literature, and had come to seek out Imekanu and Monashinouku. Upon meeting Chiri, who was still living with Imekanu, Kindaichi immediately recognized her potential and spoke to her about his work. When Kindaichi explained the value he saw in preserving Ainu folklore and traditions to Chiri, she decided to dedicate the rest of her life to studying, recording, and translating yukar (Kindaichi 1997).
Kindaichi eventually returned to Tokyo, but sent Chiri blank notebooks so she could record whatever came to mind about Ainu culture and language. She chose to record the tales her grandmother chanted, using romaji to express the Ainu sounds, and then translated the transcribed yukar into Japanese. Eventually, Kindaichi persuaded her to join him in Tokyo to assist him in his work collecting and translating yukar. However, only months after arriving in Tokyo and on the same night she completed her first yukar anthology, she suddenly died from heart failure. She was only nineteen years old (Fujimoto 1991).
Legacy
Chiri's anthology was published the following year under the title Ainu Shinyōshū (A Collection of the Ainu Epics of the gods). Her younger brother, Chiri Mashiho, later pursued his education under Kindaichi's sponsorship and became a respected scholar of Ainu studies. Imekanu also continued the work of transcribing and translating yukar.

知里幸恵 銀のしずく記念館のホームページは <http://www9.plala.or.jp/shirokanipe/> です。

また、社団法人北海道アイヌ協会のホームページは <http://www.ainu-assn.or.jp/> です。

ご意見、ご質問等ございましたら、<ernestotaju@yahoo.co.jp> へ。

P.D. 

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2013年2月24日日曜日

知里真志保 Ainu (+エスペラントの応用)


 今日は、昨年9月18日に拙ブログで紹介した知里幸恵 夭逝したアイヌ ainu の天才少女の弟、知里真志保(ちり ましほ)の誕生日です。(1909年2月24日 - 1961年6月9日)。アイヌの言語学者、文学博士でした。専攻はアイヌ語学。大学での指導教授は、金田一京助でした。
 知里真志保は北海道幌別町字登別町(現在の登別市)出身です。
 アイヌ民族の視点からアイヌ語を理論的に研究し、『分類アイヌ語辞典』で朝日文化賞を受賞しています。その他にも、アイヌ語地名研究者の山田秀三とも共同しながら、アイヌ語学的に厳密な解釈を徹底させたアイヌ語地名の研究を進め、数々の論文や『地名アイヌ語小辞典』などを刊行し、北海道の地名研究を深化させました。また、言語学者・服部四郎との共同で北海道・樺太各地のアイヌ語諸方言の研究を行いアイヌ語の方言学の基礎を築きました。その業績は「アイヌ学」という一つの学問を築き上げていると言って良いでしょう。
 真志保は京助を敬愛していましたが、アイヌとしての自意識もあり、感情的な部分も含めて、学問的な批判は京助に対しても容赦しなかったようです。 また、先駆者であったジョン・バチェラーはもとより、研究仲間の著述における問題についても辛辣な批判を繰り広げました。
持病の心臓病悪化により52歳で亡くなりました。


 語学の才 能のあった知里真志保は、旧制一高、東大を通じ学友だった松本に、「エスペラントはヨーロッパの言語を標本化したものだ」と、エスペラントの講義をしたり、エスペラントで手紙を書いたというエピソードがあります。また、親交があり、後に義弟となった佐藤三次郎にもエスペラントを勧めたそうです。
 アイヌ神謡集の1篇をエスペラント訳し La Revuo Orienta 1926年10月号に出した松葉菊延は、詩としての扱い方に迷って「アイヌの学生がいる」と聞き、教えを乞いに知里真志保を訪ねています。
 この松葉菊延と知里真志保を引き合わせたのは宗近真澄で、呉海軍工廠から艦政本部に勤務、JEI評議員も勤めました。松葉は横須賀海軍工廠勤務。真志保は一高時代一時海軍中将宅に住み込んでおりましたか ら、その関係での接触があったのでしょう。
 また、知里真志保が尊敬していた日本民俗学の開拓者、柳田国男もエスペランチストでJEI役員でした。
 知里真志保は、樺太に住んでいた時代に、「アイヌ語法研究 - 樺太アイヌ語を中心として」(1942年)という論文を出しました。この中の凡例には、アイヌ語のローマ字は、従来の慣用である英語式を一部改めて、ch の代わりに、c に谷形の字上符記号を付けた文字( キャロン付きc )を、sh の代わりに、s に谷形の字上符記号を付けた文字( キャロン付きs )を、w の代わりに、u に皿形の字上符記号を付けた文字( ブリーブ付きu )を、y の代わりに、j を用いると書かれています。知里は、この時期を中心に一定の期間、このようなアイヌ語のローマ字表記をしていました。
 つまり、知里真志保のある時期の一連のアイヌ語のローマ字表記は、エスペラントの影響をかなり受けたものだったのです。



ご意見、ご質問等ございましたら、<ernestotaju@yahoo.co.jp>  へ。


2013年9月11日水曜日

アイヌ文化:「象徴空間、20年に」五輪に合わせ政府方針 (毎日新聞)


 政府の「アイヌ政策推進会議」(座長・菅義偉官房長官)が11日、札幌市であり、北海道白老(しらおい)町のポロト湖周辺に整備するアイヌ文化の復興拠点「民族共生の象徴となる空間」(象徴空間)を2020年度にオープンする工程表を決定した。

















 
菅官房長官はあいさつで、東京五輪が開催される20年7月までに象徴空間を完成させる考えを示し、「(東京五輪を)海外の皆さんにアイヌのことを知っていただく機会にしたい」と述べた。
 象徴空間はアイヌ差別の歴史に終止符を打ち、多民族共生社会の実現を目指す拠点。アイヌの歴史や文化の展示・調査研究、アイヌ文化の伝承と人材の育成などを行うほか、北海道大や東京大などが研究目的でアイヌ墓地から収集した遺骨を慰霊する。
 「アイヌを先住民族とする」とした国会決議(08年6月)を受け、政府の「アイヌ政策のあり方に関する有識者懇談会」が09年に象徴空間構想を打ち出した。


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2019年9月20日金曜日

Orbita 9 (スターシップ9) \ universo 宇宙 /アイヌ語のおもしろさ ainu 知里真志保 / Banksy (再) バンクシーと 五輪 olimpiada / el mundo 2020 世界 / Perera ante su cita de Otoño


エレナはまだ見ぬ未知の星を目指して、一人恒星間飛行を続けていた。一緒に飛び立った両親は既にいない。ある日、スペースシップの給気系統が故障し、エレナは近隣のスペースシップに救援信号を送る。その呼びかけに応えて姿を現したのが、エンジニアの青年アレックスだった。一目見て、互いに恋に陥る二人。しかし、エレナはこの飛行に隠された秘密を知らなかった。二人はなぜ出会ったのか―。              スペイン映画

Helena lleva preparándose para una misión de supervivencia desde que nació. Aunque ella no lo sabe, forma parte de un ensayo científico de gran envergadura. Su destino cambiará cuando Álex se cruce en su vida y le haga descubrir una nueva realidad, totalmente inimaginable para ella. Pero la historia de amor en la que ambos se embarcan, pondrá en riesgo un experimento de vital importancia para toda la humanidad…






スペイン映画

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宇宙の膨張率を新たに測定、謎解明に一歩前進



universo宇宙の膨張






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本日 VIERNES 20 DE SEPTIEMBRE の闘牛開催予定

Riaza – Pablo Atienza, Manuel Diosleguarde y Eusebio Fernández, que hará su debut con caballos. (La Quinta).

Azuqueca de Henares – Jorge Isiegas, Miguel Senent “Miguelito” y Gómez Valenzuela. (Fernando Peña).

本日は Castilla La Mancha Media で次のような番組(Final del I Certamen de Recortes de Castilla-La Mancha desde Talavera de la Reina)が生放送されます。

Castilla la Mancha Media Viernes 20 de Septiembre. 22:30 (日本時間翌日早朝4時半) Desde Talavera de la Reina (Toledo) Concurso de Recortadores. ☞ https://www.cmmedia.es/en-directo/tv/



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 アイヌ語やアイヌ文学を扱っていると、われわれの予想もしなかったような考え方にぶつかって戸惑いするのは毎度のことである。
 例えば氷をアイヌ語では「ル※(半濁点付き小書き片仮名フ、1-6-88)」(ru-p)と言う。「とける・もの」ということである。日本語の「コオリ」という語は「氷るもの」という意味であったと思われるから、さし示す対象は同じでも、ことばの裏の考え方には根本的なくいちがいがある。
 アイヌ語に、「エネア・レカ・イ カ イサム」(ene a-reka-ika isam)という表現がある。直訳すれば、「どう われら・褒め・よう も ない」ということで、「褒めようもない」から「くさす」という意味にもなりかねない。しかしこのアイヌ語の真意は、「それ以上ほめようとしても、ほめるキッカケがない」ということで、完全無欠を意味する慣用句なのである。
 また「ミナ・コヤイクス」(mina-koyaykus)という表現がある。直訳すれば「笑うことが・できない」ということである。「笑うことができない」ならば、「笑わないでムッツリとしている」のかと思えば、事実は「腹を抱えて笑う」ことである。「これ以上笑いたくても笑えない」というのが、このアイヌ語の真意である。
 古くアイヌは、自分たちをとりまく森羅万象を、自分たちと同様の生き物と考えていた。例えば風であるが、それはわれわれにとってこそ単なる空気の動きにすぎないのであるが、彼らにとってはそれは一個のれっきといた[#「れっきといた」はママ]生き物であった。またある地方では、風が吹き荒れると、戸外に草刈鎌を立てて、「風の神よ、あんまり暴れると、あんたの奥さんのズロースが切れますぜ」などと唱えた。風が女房を連れて暴れまわっているという考え方なのである。風が終日吹き荒れていたのが、夕方になってハタと吹きとだえることがある。そういう夕なぎのことを、「レラ オヌマン イペ」(風が夕方に食事する)という。風も人間同様に夕食をとり帰宅するという考え方である。
 アイヌに古くから伝承されているユーカラ(詞曲)の中に大風が吹きすさぶ場面がよく出てくる。例えば、烈しい風が森を襲うと、大地は轟々と鳴りわたり、森の木々はヒュウヒュウと鳴り続ける、そして折れやすい木は幹のまん中からポッキポッキと折れくだけ、折れにくい木はしなやかな小枝のように撓み伏し、また弾きかえす、風が野原に吹いてくると、忽ちそこに生えている青草を根こそぎ吹き上げて、宙にまきちらしてしまう。――というような場面であるが、それを原語の気持を生かして訳出してみると、怒れる風が森を襲って木々を投擲する、すると、木々が悲鳴を挙げて泣き叫ぶ、そして木々のうち、烈しい責め折檻にたえかねて折れたくなった者は自分の意志で幹のなかばから折れていき、あくまでも折れるものかと思う者は、風が襲いかかると見れば大地に身を伏せてそれをやりすごし、風が行きすぎるとまた立ちあがる、というのである。それに続く文章も従来は風が野原へ吹いてくると、「たちまち生えたる青草を根こそぎに大風が吹き上げて、まっ黒な雲となりて大空へ吹き上りたり」などと訳されたのであるが、「生えたる青草」とあるのは「座っている草」とするのが正しく、木々は立っているから立木なのだが、草は野原いちめんにあぐらをかいて座っている、そこへ怒れる風が襲いかかり、「あぐらをかいて座っている草たちの股ぐらに手をかけて持ち上げ、真黒な雲となって大空へ上って行った」というのであって、そこでは風も、木も、草ももはや単なる非情ではなく、人間と同様の感情をもち人間と同様に行動する動物である。嵐の場面はそれらの動物の間に繰りかえされる死闘として描かれているのである。
 川などもやはり動物である。動物であるから、それは肉体をもち、例えば上流を「川の頭」、中流を「川の胸」、曲り角を「川の肘」、川の流れが幾重にも屈曲して流れている部分を「川の小腸」などと呼ぶのである。また、われわれの考え方からすれば、川は山から発して海に入るものであるが、アイヌの古い考え方に従えば、それは海から上陸して山へ登って行く動物である。われわれが川の出発点と考えて「みなもと」(水源)と呼んでいるものを、アイヌは川の帰着点と考えて「ペテトコ」(川の行先)と名づけ、またわれわれが川の合流点と考えて「落合」と呼んでいるものを、アイヌは「ペテウコピ」(川の別れあう所)などと名づけているのは、そういう考え方の現れである。
 このように、物の考え方に大きな食いちがいがあって、それがアイヌ語やアイヌ文学の理解をよほど困難にしているのであるが、皮肉なことには、われわれがこの言語を学ぶ意義と興味の一つは、また実にそこにあるのである。



知里真志保


知里真志保 Ainu (+エスペラントの応用)

知里真志保 没 (1961)

知里幸恵 夭逝したアイヌ ainu の天才少女 genia

アイヌ再考 Ainu

アイヌ文化:「象徴空間、20年に」五輪に合わせ政府方針 (毎日新聞)

https://ernesto-mr-t.blogspot.com/search?q=%E7%9F%A5%E9%87%8C%E7%9C%9F%E5%BF%97%E4%BF%9D

アイヌ語でラジオ体操 (ラジオ講座より)

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バンクシーBanksy

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(残念ながら、スペイン語ではなく)英語が席巻する現代日本の言語風景。一方で現代の日本語も中国語や西欧諸語との関係から形作られ、豊かな多様性を生みつつ多くの生活言語を周辺化し飲み込んでもきた。言語学をはじめとする一線の研究者が、ことばの変化を生きる私たちに、より深く考える視座を提供する。現代の言語学の入り口としても好適。

【主要目次】
プロローグ(嶋田珠巳)

第I部 言語接触を考える基礎――言語接触とはどのようなもので、そもそも言語とはなにか
第1章 言語接触とはなにか(嶋田珠巳)
第2章 言語における固有と外来(林徹)
第3章 人間の言語能力と言語多様性――言語に向き合う視点(上野善道)

第II部 日本語の歴史を考える視点――日本語にもある、さまざまな出会いの経験。そこにある「言語接触」とは
第4章 日本語と漢語・漢文(遊佐昇)
第5章 近代日本の国語政策(安田敏朗)
第6章 日本語の現代的諸相(真田信治)

第III部 文化の生態系を考える視点――言語は人々の生活においてどのような機能を担っているのか
第7章 言語接触からみた琉球語――琉球語の多様性の喪失(狩俣繁久)
第8章 文化(生態系)を映しだす言語の〈かたち〉(宮岡伯人)
第9章 英語詩の中のアイルランド――シェイマス・ヒーニーの場合(栩木伸明)

第IV部 日本語の未来を考える視点――英語は日本語の将来にダメージを与えるのか
第10章 英語化する日本語とその未来(斎藤兆史)
第11章 外来種論争から考える日本語と英語(岡ノ谷一夫)
第12章 英語侵略に抗うための、ことばの教育(大津由紀雄)
エピローグ――この本をまとめるなかで考えたことなど(嶋田珠巳)

読書案内

100年後、この国はどんな言葉を話しているのだろうか。人工知能の出現と浸透が「人間とはなにか」を問うように、多言語社会の到来は「言語とはなにか」を問う。それらの問いはそれぞれに、“人間性”を際立たせ、“言語性”を突き詰めさせるのかもしれない。「言語接触」はその問いを解く重要な鍵であることはまずまちがいない。 




              
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ここ弐参日に拙ブログへの visitas ページビュー audiencia があった(日本以外からの) 地域(国々) ☞ スペイン、アメリカ合州国、モンテネグロ、ドイツ、アゼルバイジャン、アイルランド、オランダ、モンゴル、フランス、カザフスタン、オーストラリア、イギリス、中国、韓国、ロシア、ウクライナ、イタリア、メキシコ、インド、etc.

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