今日は、昨年9月18日に拙ブログで紹介した知里幸恵 夭逝したアイヌ ainu の天才少女の弟、知里真志保(ちり ましほ)の誕生日です。(1909年2月24日 - 1961年6月9日)。アイヌの言語学者、文学博士でした。専攻はアイヌ語学。大学での指導教授は、金田一京助でした。
知里真志保は北海道幌別町字登別町(現在の登別市)出身です。
アイヌ民族の視点からアイヌ語を理論的に研究し、『分類アイヌ語辞典』で朝日文化賞を受賞しています。その他にも、アイヌ語地名研究者の山田秀三とも共同しながら、アイヌ語学的に厳密な解釈を徹底させたアイヌ語地名の研究を進め、数々の論文や『地名アイヌ語小辞典』などを刊行し、北海道の地名研究を深化させました。また、言語学者・服部四郎との共同で北海道・樺太各地のアイヌ語諸方言の研究を行いアイヌ語の方言学の基礎を築きました。その業績は「アイヌ学」という一つの学問を築き上げていると言って良いでしょう。
真志保は京助を敬愛していましたが、アイヌとしての自意識もあり、感情的な部分も含めて、学問的な批判は京助に対しても容赦しなかったようです。 また、先駆者であったジョン・バチェラーはもとより、研究仲間の著述における問題についても辛辣な批判を繰り広げました。
持病の心臓病悪化により52歳で亡くなりました。
語学の才 能のあった知里真志保は、旧制一高、東大を通じ学友だった松本に、「エスペラントはヨーロッパの言語を標本化したものだ」と、エスペラントの講義をしたり、エスペラントで手紙を書いたというエピソードがあります。また、親交があり、後に義弟となった佐藤三次郎にもエスペラントを勧めたそうです。
アイヌ神謡集の1篇をエスペラント訳し La Revuo Orienta 1926年10月号に出した松葉菊延は、詩としての扱い方に迷って「アイヌの学生がいる」と聞き、教えを乞いに知里真志保を訪ねています。
この松葉菊延と知里真志保を引き合わせたのは宗近真澄で、呉海軍工廠から艦政本部に勤務、JEI評議員も勤めました。松葉は横須賀海軍工廠勤務。真志保は一高時代一時海軍中将宅に住み込んでおりましたか ら、その関係での接触があったのでしょう。
また、知里真志保が尊敬していた日本民俗学の開拓者、柳田国男もエスペランチストでJEI役員でした。
この松葉菊延と知里真志保を引き合わせたのは宗近真澄で、呉海軍工廠から艦政本部に勤務、JEI評議員も勤めました。松葉は横須賀海軍工廠勤務。真志保は一高時代一時海軍中将宅に住み込んでおりましたか ら、その関係での接触があったのでしょう。
また、知里真志保が尊敬していた日本民俗学の開拓者、柳田国男もエスペランチストでJEI役員でした。
知里真志保は、樺太に住んでいた時代に、「アイヌ語法研究 - 樺太アイヌ語を中心として」(1942年)という論文を出しました。この中の凡例には、アイヌ語のローマ字は、従来の慣用である英語式を一部改めて、ch の代わりに、c に谷形の字上符記号を付けた文字( キャロン付きc )を、sh の代わりに、s に谷形の字上符記号を付けた文字( キャロン付きs )を、w の代わりに、u に皿形の字上符記号を付けた文字( ブリーブ付きu )を、y の代わりに、j を用いると書かれています。知里は、この時期を中心に一定の期間、このようなアイヌ語のローマ字表記をしていました。
つまり、知里真志保のある時期の一連のアイヌ語のローマ字表記は、エスペラントの影響をかなり受けたものだったのです。
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