2013年2月23日土曜日

堀口 九萬一


堀口 九萬一(ほりぐち くまいち、1865年2月23日(元治2年1月28日) - 1945年(昭和20年)10月30日)は日本の外交官、漢詩人、随筆家。号は長城。詩人堀口大學の父として知られています。


秀才として知られ、18歳のとき地元長岡の学校で校長となるほどでした。上京後、東京帝国大学法学部に最優秀の成績で入学しました。大学在学中、1892年に息子が誕生します。後の詩人堀口大學です。
1894年、日本初の外交官及領事官試験に合格しました。外務省領事官補として朝鮮の仁川に赴任中、1895年、閔妃暗殺に際して、朝鮮の大院君に日本側から決起を促した廉で停職処分を受けてしまいました。1年後、1896年に復職するも、外交官としては陽の当たらない道を進むことを余儀なくされました。
臨時代理公使としてメキシコに赴任中、1913年、メキシコで軍事クーデターに遭遇しています。フランシスコ・マデロ大統領が殺害された際には、身を挺して未亡人と子供たちを保護しました。さらに日本の武士道を説いて、大統領妻子に危害を加えぬことを革命軍に保証させ、サムライ外交官と謳われました。
他にオランダ、ベルギー、スウェーデン、スペイン、ブラジル、ルーマニアに赴任。最初の夫人と死別(1895年)した後、ベルギーで白人女性と再婚しました。
当初は長男大學も官界に進ませるつもりでしたが、病弱な大學が文学に志を持っていることを知ると、彼を自分の任地に呼び寄せ、息子が30歳になる頃まで養って文学修業を助けました。
1925年、ルーマニアを最後に依願免官、以後、講演、随筆などで活動しました。

スペインには1913年(大正2年)9月から1917年(大正6年)9月まで4年間公使として赴任しました。

30年余りの海外生活の中で「イスパニア」が「一番愉快で面白かった」と堀口 九萬一は『外交と文藝』の中で語っています。

息子大学とは違い、九萬一は闘牛を鋭くも暖かい目で観察し、1933年の著書『南米及び西班牙』(平凡社)で多くのページを割いています。下男下女らが「一年中汗水流して働くのも、闘牛を見に行きたい」がため、など aficionados a los toros にとっては堪らない魅力的な記述が溢れています。

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