2012年9月18日火曜日

知里幸恵 夭逝したアイヌ ainu の天才少女 genia


90年前の今日、1922年(大正11年)9月18日、1人の天才少女が亡くなりました。北海道登別市出身のアイヌ人・知里 幸恵(ちり ゆきえ)、19年の生涯でした。
その著書『アイヌ神謡集』の出版が、絶滅の危機に追い込まれていたアイヌ民族・アイヌ伝統文化の復権復活へ転機をもたらしたのです。
近年、マスコミや各地のセミナー等でその再評価の声が高まっており、また幸恵への感謝から、「知里幸恵」記念館の建設運動が活潑化しています。 * 2008年10月には、NHKの『その時歴史が動いた』で幸恵が詳細に取り上げられ(以下の * 印のサイトで全編を見ることができます。 )、インターネット書店「アマゾン」の「本のベストセラー」トップ10に、『アイヌ神謡集』が入りました。
『アイヌ神謡集』は、フランス語・英語・ロシア語にも翻訳されており、2006年1月には、2008年度ノーベル文学賞受賞者フランス人作家ル・クレジオが、そのフランス語版の出版報告に幸恵の墓を訪れています。
知里 幸恵は、1903年(明治36)年6月8日、北海道幌別郡(現・登別市、札幌市か ら南へ約100キロ)のアイヌ人のごく普通の家庭に生まれました(父・高吉、母・ナミ)。 当時のアイヌには珍しく旭川で女学校にまで進学しています。 幸恵の祖母はユーカラクル、すなわちアイヌの口承の叙事詩“カムイユカラ”の謡い手でした。カムイユカラは、文字を持たなかったアイヌ民族にとっ て、その価値観・道徳観・伝統文化等を子孫に継承していく上で重要なものであり、幸恵はこのカムイユカラを身近に聞くことができる環境で育ちました。
幸恵の生まれた時代は、アイヌにとって異民族である日本人が明治政府の政策(ロシアの南下への対抗)や新天地を求めて北海道に本格的に進出し30年以 上経過していました。明治政府の政策(アイヌ人の土地没収、収入源の漁業・狩猟禁止、日本風氏名への改名、アイヌ固有の習慣風習禁止、日本語使用の義務)によ り、アイヌ民族・アイヌ伝統文化は経済的・精神的に絶滅の危機に瀕していました。
この状況下、幸恵は小学校では、幸恵にとって外国語である日本語の読み書きを必死に学ぶなど真面目な生徒でしたが、日本人(軍人・開拓民)によるアイヌの人々への差別に日々悩んでいました。
夜は、囲炉裏端で祖母から謡ってもらうアイヌの叙事詩“カムイユカラ”を聞き、明治以前のアイヌの歴史と伝統に触れることができました。
この幸恵の家を言語学者の金田一京助が訪れたのは、幸恵が15歳の時でした。金田一京助の目的は絶滅の危機に瀕していたアイヌ民族の伝統文化を記録することでした。幸恵は、金田一が幸恵の祖母たちからアイヌ伝統のカムイユカラを熱心に聞き記録に取る姿を見て、金田一のアイヌ伝統文化への尊敬の念、カムイユカラ研究への熱意を感じました。
金田一と出会う以前の幸恵は、自らがアイヌ人であることへの劣等感を抱いていました。学校(明治政府による正式校名:旧土人学校)では、日本人教師たち から、「アイヌ人(明治政府による正式呼称:旧土人)は劣った民族である、賤しい民族である」と政策的に繰り返し教えられ、幼い頃から疑うことなくそのま ま信じ込んでいましたが、金田一から直接「アイヌ民族・アイヌ文化は偉大なものであり自慢でき誇りに思うべき」と諭されて、独自の言語・歴史・文化・風習を持 つアイヌ人としての自信と誇りに目覚めたのです。
その後、幸恵はアイヌ民族の文化・伝統・言語を多くの人たちに知ってもらいたいとの一心からカムイユカラをアイヌ語から日本語に翻訳する作業を始めました。やがて、カムイユカラを「文字」にして後世に残そうという金田一からの要請を受け、東京の金田一宅に身を寄せて翻訳作業を続けました。
幸恵は重度の心臓病を患い、医者からも絶対安静を告げられていたが、病気をおして翻訳・編集・推敲作業を続けました。『アイヌ神謡集』は1922年(大正11年)9月18日に完成しました。しかしその日の夜、幸恵は心臓発作のため死去してしまいました。享年19でした。
幸恵がその命と引き換えに完成させた『アイヌ神謡集』は翌1923年(大正12年)8月10日に、柳田國男の編集による『炉辺叢書』の一冊として、郷土研究社から出版されました。
明治時代以前、アイヌ民族は農業・狩猟・漁業により自然と共存した生活を享受してきました。また、川でとったサケなど「アイヌの特産物」により、北は樺太を通じてロシアと、東は、千島列島を通ってカムチャツカ半島の先住民イテリメン人と、広範囲に交易も行っていました。アイヌ民族は文字を持たない民族ながら、樺太・北海道・千島列島を中心に一大文化圏を築いていたのです。
しかし19世紀に入り、アイヌを脅かす存在となったのが、南下政策をとるロシアと、それに危機感を覚え、樺太・北海道・千島などを防衛したい日本でした。
そのために明治政府は、ロシアの領土拡張(南下)の脅威に加え、鉱産資源の開発のために本格的に日本人(軍人・開拓民)を北海道に進出させて、北海道開拓を積極的に行いましたが、このことが、アイヌ人の生活を一変させてしまいました。
明治政府は、1899年(明治32年)に制定した『北海道旧土人保護法』 (土人とは土着民の意であり、新たに北海道に移住した人と区別するために元々の住民を旧土人と呼んだ)により、アイヌ人保護を行いました。しかし、これを、口 実であって日本人への同化すなわちアイヌ民族の自然消滅を進めたと解釈する者もいます。この法律に記されている内容は、農業に従事したいアイヌに対する土地 の無償附与、貧困者への農具の給付や薬価の給付、また貧困者の子弟への授業料の給付等です。
これにより、アイヌ民族の生活は、明治時代以前とは大きく変化しました。アイヌの人々にとって、外来の明治政府に土地を没収された土地が、外からやって来た「開拓民」に安価で払い下げられる様子は、精神的にアイヌの人々を絶望させました。
また、明治政府に土地や漁業権・狩猟権など生活基盤を没収されたことで、貧困へと追い込まれたアイヌ人もおり、当時、「座して死を待つばかり」と形容されたアイヌ民族、アイヌ伝統文化は消滅の危機に瀕していました。
明治時代に入り絶滅の危機に瀕していたアイヌ文化アイヌ民族に自信を与え、復権・復活の転機となった幸恵の『アイヌ神謡集』の出版は、当時新聞にも 大きく取り上げられ、多くの人が知里幸恵を、そしてアイヌの伝統・文化・言語・風習を知ることとなりました。また幸恵が以前、金田一から諭され目覚めたように 多くのアイヌ人に自信と誇りを与えました。
幸恵の弟、知里真志保は言語学・アイヌ語学の分野で業績を上げ、アイヌ人初の北海道大学教授となりました。
また歌人として活躍したアイヌ人、森竹竹市・違星北斗らも知里真志保と同様、公にアイヌ人の社会的地位向上を訴えるようになりました。
このように、幸恵はアイヌ人が事態を改善する重要なきっかけをもたらしたのです。
幸恵の『アイヌ神謡集』により、アイヌ人にとって身近な“動物の神々”が、アイヌ人の日々の幸せを願って物語るカムイユカラが文字として遂に後世に 残されたのです。文字を持たないアイヌ民族にとって画期的な業績でした。かつて幸恵が祖母から謡ってもらったように、母親が読み聞かせ子供が容易に理解できる 程に平易な文章でつづられた13編からなる物語。アイヌ語から日本語に翻訳されたその文章には、幸恵のアイヌ語・日本語双方を深く自在に操る非凡な才能が 遺憾なく発揮されています。また、文字を持たないアイヌ語の原文を、日本人が誰でも気軽に口に出して読めるようにその音をローマ字で表し、日本語訳と併記されています。

Chiri Yukie (知里 幸恵 , June 8, 1903 – September 18, 1922) was a Japanese transcriber and translator of Yukar (Ainu epic tales). She was born into an Ainu family in Noboribetsu, a town in Hokkaidō, the northernmost prefecture of Japan, at a time in Japan's history when increasing immigration of Japanese (Wajin, as distinguished from the Ainu) to Hokkaidō was resulting in the Ainu being relocated into separate communities and, in many cases, their means of livelihood being taken from them. The Ainu were viewed as a backward people, and it was the policy of the government to assimilate them into the Japanese way of life. The Ainu themselves, for the most part, saw this as the best (and perhaps only) way to survive the changing times (Sjoberg 1993, Kayano 1980).
Chiri was sent to her aunt Imekanu in Chikabumi, on the outskirts of Asahikawa, when she was six years old, presumably to lessen the financial burden on her parents. Imekanu lived with her aged mother, Monashinouku, a seasoned teller of Ainu tales who spoke very little Japanese. Chiri thus grew to be completely bilingual in Japanese and Ainu, and had a familiarity with Ainu oral literature that was becoming less and less common by that time. Although she had to endure bullying in school, she excelled in her studies, particularly in language arts. But she suffered from an ethnic inferiority complex that afflicted many of her generation (Fujimoto 1991).
Chiri was in her mid-teens when she first met Japanese linguist and Ainu language scholar Kindaichi Kyōsuke during the nation's Taishō period. He was traveling around Hokkaidō in search of Ainu transmitters of oral literature, and had come to seek out Imekanu and Monashinouku. Upon meeting Chiri, who was still living with Imekanu, Kindaichi immediately recognized her potential and spoke to her about his work. When Kindaichi explained the value he saw in preserving Ainu folklore and traditions to Chiri, she decided to dedicate the rest of her life to studying, recording, and translating yukar (Kindaichi 1997).
Kindaichi eventually returned to Tokyo, but sent Chiri blank notebooks so she could record whatever came to mind about Ainu culture and language. She chose to record the tales her grandmother chanted, using romaji to express the Ainu sounds, and then translated the transcribed yukar into Japanese. Eventually, Kindaichi persuaded her to join him in Tokyo to assist him in his work collecting and translating yukar. However, only months after arriving in Tokyo and on the same night she completed her first yukar anthology, she suddenly died from heart failure. She was only nineteen years old (Fujimoto 1991).
Legacy
Chiri's anthology was published the following year under the title Ainu Shinyōshū (A Collection of the Ainu Epics of the gods). Her younger brother, Chiri Mashiho, later pursued his education under Kindaichi's sponsorship and became a respected scholar of Ainu studies. Imekanu also continued the work of transcribing and translating yukar.

知里幸恵 銀のしずく記念館のホームページは <http://www9.plala.or.jp/shirokanipe/> です。

また、社団法人北海道アイヌ協会のホームページは <http://www.ainu-assn.or.jp/> です。

ご意見、ご質問等ございましたら、<ernestotaju@yahoo.co.jp> へ。

P.D. 

知里真志保 Ainu (+エスペラントの応用)



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