2012年9月28日金曜日

John Dos Passos ジョン・ドス・パソス

今回はU.S.A.三部作で有名なジョン・ドス・パソスことジョン・ロデリーゴ・ドス・パソス(John Roderigo Dos Passos, 1896年1月14日 シカゴ - 1970年9月28日 ボルチモア)についてです。
ドス・パソスは1912年、1916年にハーバード大学を卒業すると、スペインに美術と建築を学びに行きました
ヨーロッパで第一次世界大戦が勃発すると、ドス・パソスは友人のE・E・カミングス、ロバート・ヒリヤーとともにノートン=ハージェス救急隊に志願し、パリと北イタリアで運転手として働きました。1918年、アメリカ陸軍医療科に編入され、ペンシルベニア州のキャンプ・クレインに軍役。戦後はパリに配置され、アメリカ陸軍海外教育委員会の許可を得てソルボンヌで人類学を学びました。
1920年、最初の小説『One Man's Initiation: 1917(一人の男の入門 1917年)』を出版。「失われた世代」の1人と見なされました。続いて反戦小説『Three Soldiers(三人の兵卒)』を発表。1925年のニューヨーク市の生活を扱った『Manhattan Transfer (マンハッタン乗換駅)』では「意識の流れ」の実験的技法を導入し、商業的にも成功を収めました。Ernesto Mr. T も感銘を受けました。
ドス・パソスはアメリカを、金持ちと貧乏人の2つの国家と見るようになっていきました。世界産業労働組合について好意的に書き、サッコ・バンゼッティ事件の有罪判決については、二人の死刑をやめさせるため、アメリカ・ヨーロッパの著名人たちと連帯しました。1928年、ドス・パソスは社会主義のシステムを学ぶため数ヶ月間ソビエト連邦を旅行。スペイン内戦が始まると、アーネスト・ヘミングウェイとともにスペインに行きました。しかし、共産主義運動についてのドス・パソスの考えは既に変わり始めていて、ヘミングウェイやハーバート・マシューズと訣別。後にヘミングウェイは『移動祝祭日』の中で、金持ちの友人を連れてきて自分の愛する地を汚染したとして、ドス・パソスを「ブリモドキ」と呼んで非難しました。

ドス・パソスの代表作「U・S・A」3部作は、『北緯四十二度線』(1930年)、『一九一九年』(1932年)、『ビッグ・マネー』(1936年)から成っています。新聞の切り抜き(「ニュース映画」)・作者の意識の流れ(「カメラの目」)・登場人物たちそれぞれのドラマで、20世紀初頭の「アメリカ合州国」を、虚実織り交ぜて、実験的手法で、眺望したものです。アメリカの政治・経済に対するドス・パソスの見方はとても悲観的で、第一次世界大戦の間、どの登場人物も自分の理想を保ち続けることができません。
1930年代中期、ドス・パソスは共産主義を非難する記事を書き続けました。『ビッグ・マネー』では、理想主義的な共産主義者が、党の集団思考によって徐々に消耗し、ついには滅ぼされていきます。しかし、ファシズムに対抗してヨーロッパで社会主義が支持を得たために、ドス・パソスの国際的な本の売り上げは落ちていきました。ドス・パソスは右傾化し、1950年代初期にはジョセフ・マッカーシーを賞賛していました。それにもかかわらず、ヨーロッパはドス・パソスの文学への貢献を認め、1967年にはアントニオ・フェルトリネリ賞をドス・パソスに贈りました。ドス・パソスのシンパは、ドス・パソスが信条を変えたがために後期の作品が無視されたと主張していますが、「U・S・A」以降、作品の質が低下したのは明白です。
第二次世界大戦の1942年から1945年にかけて、ドス・パソスは戦争特派員として働きました。1947年には、The American Academy of Arts and Letters に選ばれました。しかし、その年、交通事故で18年間連れ添った妻キャサリンが亡くなり、ドス・パソス本人も片目を失ってしまいました。1949年、エリザベス・ハムリン・ホルドリッジ(1909年 - 1998年)と再婚。翌1950年には最初で最後の子供ルーシー・ハムリン・ドス・パソスが生まれました。
ドス・パソスは亡くなるまで、執筆を続けました。1970年の今日、9月28日にボルチモアで没し、自宅からそう遠くないバージニア州ウェストモアランド郡Cople ParishのYeocomico Churchに埋葬されました。
ドス・パソスは42作の小説の他、詩、エッセイ、戯曲、そして400点以上の美術作品を残しています。
非線形の語り口(Nonlinear narrative)を開拓したドス・パソスの作品は、文学界に多大な影響を与えました。アルフレート・デーブリーンの『ベルリン・アレクサンダー広場(Berlin Alexanderplatz)』、ジャン=ポール・サルトルの『自由への道(Les chemins de la liberté)』3部作は、とくにその手法の影響が強く見られます。
サルトルは1936年のエッセイの中でドス・パソスを「我等が時代(20世紀)の最も偉大な作家」と称賛しています。

John Rodrigo Dos Passos, nacido en Chicago, Illinois, el 14 de enero de 1896, en una familia descendiente de portugueses de la isla de Madeira, en su juventud viajó, junto a sus padres, por México y algunos países de Europa (en especial Portugal, Bélgica, el Reino Unido y España). En 1916 se graduó en Artes por la Universidad de Harvard.
Al iniciarse la intervención norteamericana en la Primera Guerra Mundial se encontraba de viaje en España, y se alistó voluntario en las ambulancias militares de Italia. Publica en 1919 una novela de corte autobiográfico, La iniciación de un hombre. Tras la guerra, volvió a viajar por España y a su regreso publicó Rocinante vuelve al camino.
En 1925 publica la novela que le dio fama y relevancia mundial: Manhattan Transfer, escrita como un mosaico por el que deambulan los diversos personajes, con breves relatos fragmentarios cuyo conjunto retrata una idea fiel del Nueva York de la época que describe. Este mismo estilo es el que utilizaría en su trilogía U.S.A.
En 1927 hizo pública su postura contraria a la ejecución de los anarquistas Nicola Sacco y Bartolomeo Vanzetti y fue encarcelado por ello. Aunque inicialmente mantuvo una ideología cercana al socialismo, una visita a la Unión Soviética a finales de los años 20 le hizo ser bastante más crítico. En 1937 volvió de nuevo a España para colaborar con Ernest Hemingway en el guion del documental La tierra española, pero al conocer la desaparición de su amigo y traductor de su obra José Robles Pazos, presumiblemente a manos de los servicios secretos soviéticos, rompió definitivamente con la ideología comunista. A esta época corresponden algunas de sus novelas, como Aventuras de un joven, Número uno o El gran destino.
John Dos Passos ha historiado la realidad social norteamericana. Su particular estilo, con cuadros y referencias aparentemente inconexas, sitúa sus obras en el marco de la época.
John Dos Passos falleció en Baltimore, Maryland, el 28 de septiembre de 1970. ドス・パソスは1970年の今日亡くなったのです。
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