2014年1月12日日曜日

「外国語教育 」(岸田國士): その影響力(¿偏向?)は如何に

示唆に富む文章です。


外国語教育

岸田國士



 今日、わが国における外国語の問題を考へるとすれば、およそ次の三点、即ち、この歴史的転換期に直面して外国語教育はいつたいどう取扱はるべきかといふ こと、次には国際的な関係が一層複雑微妙になつて来たかういふ時代に、外国語の活用ないし利用がどんな状態にあるか、つまり日本人としていまどの程度に外 国語を実際に生かして使つてゐるかといふこと、もう一つは、日本語の海外進出に絡んで、やはり日本語を一応ほかの国から観た外国語として考へてみるといふ こと、これらの点が主として問題になると思ふ。
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 最近、従来の外国語教育がいろいろの角度から批判されるやうになつて、例へば、外国語教育が偏重されてゐたといふ見方から、授業時間の削減などが行はれ るやうになつた。これに対して、外国語が果して偏重されてゐたかどうか、むしろ今日の時局なればこそ外国語の教育はなほ一層これを重要視しなければならな いのではないか、といふ考へ方が対立してゐる。この点についてのわたくし自身の見解は、やはり外国語の教育は一層重視しなければならぬ――といふことを前 提とするけれども、しかし、重要視するにしても、今日までの教育方法がかなり根本的に改革さるべきであると思ふ。即ち、外国語教育において真にその成果を 挙げるためには、従来の教育方法にはいくつかの重大な欠点があるやうに思ふのである。
 まづ日本人が外国語を学ぶ目的をもつと明確に認識する必要がある。従来は、専門的な知識を習得するために、外国語を通じてそれぞれの国の文化に触れてこ れを摂取するといふことが、外国語を学ぶ最も大きな目的であつた。また更に一つの大きな目的は、実用的に外国人と或る程度まで自由に意志の疏通ができるや うに、といふことであつた。しかし、一般に中等学校で外国語を学ぶ場合には、将来いま述べたやうな意味で外国語を実際に活用するやうな職業に進むもの以外 は――即ちその数において大部分のものは――常識として一通り初歩的な外国語を習得しておいたはうがいゝといふふうなこと、例へば看板の横文字だとか新し い外来語の意味ぐらゐは解らなければいけないとか、もつと滑稽な例をいふと、女学校などでは、横文字が読めなくては缶詰の使ひ方がわからないとか、甚だ他 愛のないことが、しかも公然の理由になつてゐたと思ふ。ところで、この第一、第二の目的は、外国語習得の理由として、かなりハツキリもしてゐるし、また納 得もできるけれども、第三のいはゆる常識として――といふ考へは、今後はぜひとも一掃しなければならない。これはまつたく欧米依存の精神の現はれであつ て、つまりは日本人の生活の到るところに欧米崇拝、或ひは欧米依存の事実があつたことを物語るものだと言はなければならない。しかも、事実において、中等 学校だけの外国語などは殆んどなんの役にも立つてゐないのである。例へば、前述の缶詰の使用法を読みこなせるだけの力でさへ、果して充分についてゐるかど うか、甚だ疑問であらう。したがつて、多くの場合、たゞ英語を習つたといふ安易な自己満足に了つてゐるといふ有様である。
 しかし、さうだからと云つて、中等学校卒業者が外国語に対して、まつたく無知であつていゝかといへば、必ずしもさうではないと思ふ。殊に外来語などもか なり日本語のなかにはいつてゐるのだし、またこれからもさういふ傾向が全くなくなるわけでもない。したがつて、何かにつけて外国語に関する知識は国民とし てやはり或る程度は有つてゐなければならない。しかし、わたくしの考へでは、従来のやうに、外国語といへばすぐ英語だと考へるやうな態度は捨てなければな らない。そして、中等学校全体を通じて、日本と関係のある諸外国の言葉を教へる、そしてどの程度の数にいづれの外国語を教へるかといふやうなことを、計画的にや つてゆくべきだと思ふ。また、日常生活を通じて日本人が触れる可能性のある外国語を、――これは新しい方法に依らなければならないと思ふが――例へば、各 国語の簡単な発音だとか、同じ意味の言葉がそれぞれ国に依つてどう異るかとか、さう言ふやうなことを中等学校で教へるのも一つの方法ではなからうか。見分 け方ぐらゐ覚えておくとずいぶん役に立つ。これは外国語にたいする知識を与へるための、いくぶん新しい方式であり、考へ方であらうと思ふ。
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 中等学校だけでやめるものはそれとして、今度は専門学校以上に進むもののためにはどうするか、――これは前述の中等学校の教育法をそのまゝ適用していゝ かどうかは疑問である。で、例へば上級学校にゆくための中等学校と然らざるものとを区別する――これは学制全体の改革に属する問題だが――のも一つのゆき 方だと思ふ。さらに上級学校で外国語を習得する場合、従来と根本的にやり方を違へなければならない点がある。即ち、これまでは話すことと読むことと書くこ ととが、全然目的を異にするかの如くバラバラに教へられてゐた。例へば、会話のための英語だとか、或ひはたゞ本を読むための英語だとか、要するに非常に偏 した外国語の身につけ方を、ほとんど総べてのものがやつてゐたといふことである。
 殊に大学なんかでは、専門の書物が読めればいゝといふふうに一般に考へられてゐた。また、書くことにしても、専門的な論文が書ければいゝ――実は専門的 な論文は一般に非常にやさしいものだとされてゐるが――とされてゐた。したがつて、さういふふうな外国語の身に付け方をした人には、話すといふことはまつ たく専門外のことであるのみならず、会話などはできなくても別に何の不便も感じない。むしろ、会話は外国語習得の最も俗な分野であると考へられさへした。 実際また、会話を専門に学ぶ人々、例へば外交官とか通訳とか、或ひは外国商館に勤めやうとする人とかは、たゞ会話ができるやうになるために、実につまらぬ 苦心を払ひ、肝腎なことがお留守になるといふ有様である。かういふふうな考へ方でいままで外国語の教育が行はれてきた。ところが、実際問題としては、さう いふ外国語の習得の仕方が、やはりそれぞれの目的を半分づつしか達してゐないのである。例へば、大学の先生で、専門的な本はかなり読みこなせる人が、その 専門的な学問について、さらに欧米の学者と議論をするやうな場合に、口が自由に利けなくなつてほとんど用が足りないことがあり、研究にも事を欠くとすれば 甚だ考へものである。ところで、かうした結果になつたことは、外国語を通じて専門的な知識を身に付けるには、本さへ読めればいゝといふ、いはゞ一種の自己 弁護が成り立つことに依るのだが、このことがそもそも外国語に対する間違つた考へ方に原因してゐるのである。即ち、外国語といふものは、「外国人のやう に」喋つたり書いたりしなければいけない、かういふ考へ方が過去において日本人の頭にかなり深く浸み込んでゐたやうに思ふ。例へば、英語ならば「英米人の やうに」書ける、喋れるといふことが、英語学習の理想であつた。ところがそんなことは馬鹿々々しいことだから、よほどどうかした人でないと一生懸命にはな れない。結局それを諦めて、日本人としてまづ可能な方向にゆく、といふのが自然であらう。「外国人のやうに」喋ることが一番うまい喋り方であり、最も理想 的な会話であると考へてゐるために、そこまで自信のないものは、つい喋るといふことが自尊心を傷けるわけだから、なるべく下手に口を利かないやうにする。 それを敢てするものは最も安易な程度の外国語を「操る」ことで満足してしまふ結果になる。例へば、日常の挨拶の仕方を非常によく心得てゐるとか、或ひはま た実に月並な俗語を連発するか、要するに外国人の口真似をすることが、いはゆる上手に外国語を操ることであるとされる。その結果、日本人が日本人としての 能力でものを云ふよりも、非常に単純な低調なことしか云へなくなるのである。 手紙などを書く場合も同様で、外国人のやうな手紙を書かうとするから、結局は外国の無学な女か子供の書くやうな手紙になつてしまふ。しかし、吾々が外国語 を習つたやうな従来の習ひ方でゆけば、当然さうならざるを得ないのである。それではどうすればいいかと云へば、やはり日本人として日本人流に外国語を使ひこなす、といふことを目標にすべきであると思ふ。
 この意味において、――これは少し細かいことになるけれども――外国語の一つ一つの言葉の意味は正確につかまなければならないが、しかし、それを日本語 を使ふやうな気持で、つまり自分の考を述べる必要な武器として用ふべきである。もとより文法や語彙の正確なのに越したことはないが、飽くまで、「自分のも の」をそれで伝へる工夫をすべきであつて、英米人風の云ひ廻し――つまりイディオムなどといふふうなものは、日本人が無理に使ふのは不見識だといふことで ある。むしろ彼等はかういふ云ひ廻しはしない、しかし、いかにも日本人でなければ表はせないものの考へ方、ものの 感じ方がその表現のなかに示されてゐる――といふやうな英語を使ふべきである。彼の内村鑑三といふ人はさうであつたといはれる。この人は実に堂々と二時間 ぐらゐ続けざまに英語の演説ができた人であるが、その英語はイギリス人の使ふ英語でもなければ、アメリカ人の英語でもない、実に独特な英語であつた。独特 なといふのは、要するに彼が日本人として英語を使つてゐたといふ意味である。しかも、その英語はよくイギリス人やアメリカ人を感動させる英語であつたとわ たくしは聞いてゐる。これはもう当然さうあるべきことであつて、日本人は今さういふ語学力をもつた人を必要としてゐるのである。この心構へが教師にもで き、学生にもできれば、日本人の外国語教育は、従来に比して数倍の効果を挙げ得るのではないかと思ふ。
 それには、まづ語学を試験のために勉強するなどといふことはもちろん絶対に排撃しなければならないが、また、例へば、学生がイギリス人やアメリカ人のや うな作文を書かなくても、彼がその学んだいくつかの言葉を大胆に駆使して、いかにも日本人でなければ書けないやうな作文を書けばそれで満点を付けてやる ――といふふうにぜひしたいものである。こゝでわたくし自身の経験をいふと、実はわたくしもフランス語で話したり書いたりするのは不得手でもあり、嫌ひで もある。そのために、フランス語の手紙を書くのが非常に厭やで臆劫であつた。ところが、必要に迫られたからでもあるが、こんなことではとても駄目だと思つ て、思ひきり大胆に日本語の直訳みたいな文章で、手紙など綴ることにした。それから急に手紙を書く気持が楽になつたやうに思ふ。そればかりでなく、その手 紙が却つて非常に面白いとほめられたことさへある。例へば、ヨーロッパ人ならば、親しい情を表はすために、手紙の末尾に「接吻を送る」といふやうな言葉を 記すけれども、日本人にはそんなことはとても気恥づかしくて書けない。そこで、そんな調子で書くよりは、やはり日本人らしく「頭を下げる」と書くはうが面 白い。つまり「頓首」とやるのである。それで相手には充分意味も心持も通じるし、日本的な味も出るのである。野口米次郎氏の詩などはさういふところに非常 に特徴があるのではないかと思ふ。
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 吾々は中等学校から外国語を学んで外国の言葉を覚え、そして外国人の書いた文章に接触するわけであるが、その場合は、何かしら日本人として「言葉」の機 能といふものについて、いままで国語の授業では気が付かないでゐたものを、はじめて発見することがあるやうに思ふ。言葉といふものはかういふものだつたの か、かういふ力を有つてゐるのか、――と気が付いたときから、急に外国語に対する興味が起つて来る。しかも、それは文学といふものに対して、はじめて眼が 展けた時でもあるのである。かういふことは、本来ならば、国語教育を通じて行はるべきことである。ところが、これまで日本の国語教育はどうも言葉としての センスを国民に与へるやうに仕組まれてゐなかつた。即ち現代の日本人の多くは国語を通じて文学的なセンスを掴み得ないで、むしろ外国語を通じて掴んだとい ふことが謂へると思ふ。要するに、従来は日本人に対して日本語教育が充分に行はれなかつた。その欠陥を非常に皮肉なことであるが、外国語教育によつて大部 分補つてゐたとも謂へるのである。このことは、殊に外国の優れた文学的作品に接するやうになると、一層はつきりして来る。曾つて、或る時期には、外国語を やらなければ新しい現代の文学の真髄に触れられない――といふやうな、日本人として甚だ悲しむべき実情にあつた。将来、国語教育が一層進歩して、これが日 本語の正しい力強い訓練といふところにまでゆき得たとしても、なほ且つ外国語が今日までに果してきたさういふ一つの役割は、外国語教育を担当する人々が充 分に自覚しなければならないことであると思ふが、いづれにしてもこの点に相当考へるべき問題があるやうに思はれる。この意味から云つて、今日、外国語教育 の問題がいろいろ政治的に考慮せられるに当つても、この点を忘れてはならないと思ふ。即ち、外国語を通して触れる文学的なものは、ただたんに人々を外国に 親しませるだけでなく、やはり文学の本質に触れさせるのであつて、決してそのために外国を怖れる必要はないといふことである。
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 もう一つ外国語の問題がある。それは日本語の海外進出に伴ふ日本語教育の問題である。日本語をどういふふうな仕方で、外国人、特に大陸の人たちに教へる かといふことは、既にかなり以前から研究されてゐる。現在、一応その初歩の部分については方式も公けに決められてゐるやうだが、私の考へでは、日本語を外 国人に教へるために、尠くとも日本人が外国語を学んだ経験がも少し生かさるべきである。しかし、事実は殆ど全くされてゐない。現在では、どちらかと云ふ と、日本国内における国語教育を土台にして、それに外国人だからといふ幾分の手心を加へる程度のものが、日本語を外国人に教へる方法の基礎になつてゐる。 であるから文部省辺りでもさういふ一つの基本的な研究をしてはゐるけれども、これに外国語教育の経験者がもつと参加してはどうかと思ふ。これは是非考慮し てもらひたいと思ふ。といふのは外国語の教師、即ち外国語を教へてゐる日本人は、最も深く且つ長く外国語を学んだ人たちである。この人たちの経験が日本語 を外国人に教へるメトードを創り上げるための最も有力な参考になる筈である。
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 最後に、これはちよつと外国語教育の問題からは離れるが、日本では中等学校の殆んど全部が英語を教へてゐる結果、外国語といへばすぐ英語のことしか考へ ないといふ傾向がある。したがつて、西洋風とか、西洋式とかいへば、それはイギリス式乃至アメリカ風と考へ勝ちである。このことが日本人の外国、特に欧米 の認識を非常に誤らせてゐる。西洋と英米とを混同してゐること、これが――わたくしとしてはもう少し詳しく云ひたいことであるが――案外いろいろのところ に影響してゐるのであつて、日本人の正しい西洋認識にたいして著しい障碍をなしてゐるのである。また吾々の日常用語のなかで使はれてゐる英語は日本人の生 活のなかにかなりいろいろの影響を及してゐる。例へば今日、「教養」といふ日本語ができてゐるにも拘らず、カルチユアといふ言葉がしばいろ使はれる。しか しカルチユアといへば、これはイギリス人的な教養である。カルチユアといふ言葉を使つて、日本人にカルチユアが有るとか無いとか云ふが、これではいかにし ても日本的な教養即ち「たしなみ」を連想させない。それはイギリス的な教養の形式的輸入なのである。ところがそれは西洋的な教養でさへもないのである。そ れを日本人がカルチユアといつて、何か普遍的な意味を与へようとしても無理なのである。かういつた点をひとつ改めて考へなほさなければいけないと思ふ。
 一般に、専門教育を受けた人々は、これは英語に限つたことではないのだが、それぞれ専門にやつた語学を通じて、いま教養の不統一といふ現象を起してゐ る。フランス語でやつた人はいくぶんフランス的な教養を身に付け、ドイツ語でやつた人にはある程度ドイツ風の教養がしみ込んでゐる。そしてお互ひにさうい ふことに気がつかないで、何かお互ひのあひだに本質的な違ひがあるかのやうに感じ、まつたく不思議な考へ方の対立をみせたりしてゐる。これは日本の今日の 文化にとつて重大な問題である、或る国の言葉を少し深く勉強し、その国の文化に接触すると、かなり批判的にその国を観てゐても、とかくその国にたいして親 しみをもつ。或る意味においてはその国にたいして愛情を感じる。そこで、自分の国についでその国が好きになるのは自然の人情である。ところが、日本人の場 合は、どうかすると病膏盲に入つて、自分の好きな国の敵国は、自分の敵国のやうな気がしてみたりする。例へば、フランスが好きな人は、フランス人が嫌ひな 民族をフランス人と一緒になつて嫌ふ。であるから、その民族が日本と非常に近い関係にあるやうな場合には、日本人として一種の矛盾を感じるやうなこともあ り得るわけである。かういふことは、仮りに人情としては已むを得ないとしても、大いに反省を要することである。もとより外国語を専攻するためにはその国を 知らなければならぬ。しかも、或る国を真に理解するといふことは、その国にたいする深い愛情なしにはあり得ない、といふこともまた事実である。かういふ点 で従来やゝ溺れるといふやうな傾向が無いでもなかつたといふことは、これは個人としては大したことではないかも知れないが、日本の国民として考へると、そ の影響は甚だ大である。これは将来大いに考へなければならぬと思ふ。

              「改造 第二十四巻第二号」1942(昭和17)年2月1日


eti