2017年8月2日水曜日

永田寛定 歿 (1973) Nagata Jirosada Falleció.

永田寛定は、1963年2月の「世界短編文学全集月報5」に以下のように記しています。

パローハとアソリン

 スペイン文学とわたしとの関係はもう五十年を越える久しいものだが、その間にどれほどこの文学を日本へ紹介できたかと考えると、まことに僅かで、お恥かしい次第といわざるをえない。《事志と違う》という語の恨みを老残の身に痛感しつつ、今さらどうしようもないと諦めてはいるが、わが国におけるスペイン語の草創時代からいくばくも ない明治の末に、だれにも知らせずスペイン文学を味っていたことを思うと、その頃の感動がよみがえって、なぜこの道一すじに生きなかったかと悔まれもするのである。  
 わたしの場合、語学と文学を平行させて、右を歩いたり左を歩いたりしたのがいけなかったかもしれない。しかし、日本のスペイン語界の実情は、それ以外の歩き方をさせてくれなかったことも事実 である。わたしは戦後、教壇生活が一時ひまになったので、 宿願だった《スペイン文学の古典》に手をつけ、その翻訳も完成しかけていたのに、またまた語学に要望されて辞典の監修という仕事へ逸れ、そのために訳業から遠ざかること数年に及んだ。しかし、辞典の方が一くぎりついたし、今度集英社から懐かしいパローハとアソリンを受けもたされ たので、これを機会にスペイン文学へ戻るつもりでいる。
 さて、パローハとアソリンはわたしをスペイン文学の病みつきにならせた当の作家である。ふたりとも、いわゆる《九十八年代作家》の急先鋒として文学の新時代を作りあげただけでなく、その作品の質と量において、二十世紀の前半を代表する巨匠になった。生まれもパローハが一八七二年、アソリンが一八七四年だから、まず同じ頃と見てよい。ただ、パローハはパスコ種族の出で、スペインの最北端の人、アソリンは地中海に面する東南の州アリカンテの出生で、学生時代には互いに知るところなく、パローハの 処女作『暗い人生』を見たアソリンが感動して、自分たちの仲間に引き入れたと言われる。 以来ふたりの友情は変ることなく、その傾向もその文章もほとんど対照的に離れてゆきながら、よ い意味の刺激を常に与えあう間柄になったのである。アソリンの出世作は小品と感想の集
『ひなの町々』で、わたしがそのひとりの処女作と、もうひとりの出世作から四篇ずつを選んで、スペイン近代文学の基底となった写実主義を見てもらうことにしたのは、半世紀むかしの夢を見直したい思いにほかならないが、しか し、これらの短篇は、まだ若かった二巨匠がおのれを世に問いたい願いをこめて書いた作品だけあって、今日の読者にも新鮮で気持のいい印象を与えずにおかないことを、確信したからである。

 永田寛定は、この文執筆の3年前、1960年に Ernesto Mr. T の地元・愛知県の南山大学文学部西語科長に就任しています。

 上記の文執筆の十年後・1973年の夏,8月2日(44年前の今日)、88歳にて永眠しました。

Nagata Hirosada murió 永田寛定歿 (1973年)