2017年11月20日月曜日

Belarmino y Apolonio (1921)


Belarmino y Apolonio (1921) marca el comienzo de la etapa de plenitud de la novela de Pérez de Ayala, novela intelectual que plantea problemas humanos de alcance universal. En ella se presenta un dualismo --Belarmino, zapatero "filósofo", Apolonio, zapatero "dramaturgo"-- que, más que una ejemplificación de dos teorías contrapuestas, supone diferentes perspectivas para interpretar el pequeño universo en el que se mueven los personajes, cuya humanidad y complejidad es contemplada por el autor con una lente crítica y a la vez humorística.



邦訳本(中山惣太 三学書房 1941年6月刊)は現在絶版状態です。幸い、Ernesto Mr. T は所持(☟下の foto)しております。



『ベラルミーノとアポローニオ』 はラモン・ペレス・デ・アヤーラが 41歳の時、つまりその闘熟円熟期初期の作品です。この小説で取扱っている素材は何等複雑なものではありません。手短かに申しますと、哲学者肌の靴屋ベラルミーノと劇詩人肌の靴屋アポローニオとの二人の間に醸された意識的無意識的な嫉妬反感による拮抗狂騒が一幅の図絵として展開されまして、この図絵の上にアヤーラは一つの恋愛物語を点綴(てんてい)しているわけです。そしてその恋愛物語の主人公たるアポローニオの息子、当時神学校生徒であったペドリートが、ベラルミーノの姪、つまり養女と駈落ちするのですが、慈愛も深いがまだ一面専横でもある保護者、ソマービャ公爵夫人のために追手を掛けられ、無理強いに女を捨てさせられてしまいます。やがて司祭になり、その後、年を経て、再び女にめぐり逢います。そしてその女が淪落の淵から救われるのです。つまり、二人の靴屋は、この小設を一つの建築に喩えるなら、二つの円柱でありまして、その二つの円柱に、この至純な恋の花かづらが絡み付いているというわけです。『哲学者と劇詩人』及び 『劇と哲学』とそれぞれ題、が付けられている、この小説の第五章及び第六章は この小説の角柱であり土台を成している部分だと言えましょう。次に、この小説の柱廊にはドン・アマラントという博識のユーモリストが位置につき、なお裏門にはフロイラン・エスコバルという万年大学生、ユマニストが位置しているわけで、この古典的な美しさを持つ小説のプロロゴとエピロゴとを構成しています。
 この小説の筋は、アヤーラの他の小説の大部分がそうであるように、 ピラーレス (オビエド) に於て展開されています。 そしてその筋の発展たるや実に緩慢、ゆっくりしたものでありますが、これはつまりアヤーラの現実観察者としての天才を証明するものでありまして、数養あり従って読者眼のある読者に作品そのものの多彩な表現美を鑑賞せしめつつ、幾つもの輻湊する小径を通じて人間精神の深さに到入せしめんがためであります。観現実観察の天才とは、つまり、現実解剖という知慧の光明でありまして、それはまた、自然及び環境的現実に於ける人間への愛なのです。最大の芸術的表現と読者の最も良き理解とを意図して、各方面より事件、事物及び人間を示そうとするアヤーラ独自の称賛すべきこの熱心さは、アヤーラ自身の本質的に対立本位な芸術から由来するもので、ここに、筋の進行における緩慢さが必然的に出てきたわけです。思想の豊富、心理の奔流もそこに加わって、この小説は一つの新しい、それ故にまた詩的な且つ同時に中正な、従ってまた諧和的な世界を残るところなく吾人に観せようとの意図を蔵しており、しかもそのことを十分に成し遂げてます。要するに、古典的な静けさと芸術的な悠然、これがこの小説の特徴なのです。
 この小説の主要人物たる2人の靴屋は、実際、並外れの人物、言い換えれば、仮託の人物で、つまり、私どもは日常の現実生活裡に於てはこのような人物に会うことはまずありません。しかしながら、この2人の類型は、理論で拵え上げ理論の衣を着せた、従って血の気も肌の温かみも無いような、実在性の無い、ただ書物の上だけでしか生きていないような、要するに現実には殆いと無いと言って良いところの類型ではありません。
「ベラルミーノもアポローニオも存在していた人物でありまして、私はこの2人を愛しました。でも、それは、2人が地球の表面に肉体を有った人間として存在していたというのではありません。私に由って且つ私のために存在していたのです」と、アヤーラがこの小説の序説に於て述べていますように、この2人は、実に、作者の人間味の深い創作欲から生れ出たもので、そこには古今に通ずる人間的生命力が躍動しています。私どもはこの2人の対立し拾抗し合う人物に於て、私ども自身の投影を明瞭に見せ付けられるわけで、また、従って、この2人の中に、思想する人(ベラルミーノ)を見、表現する人(アポローニオ)を見るだけではなくて、いわゆる《行為する人間》も見えるわけであります。形而上学的動物、すなわち、人間というものは、一面、反省の子であり、他面、嘆美の子である、ということを、ショーペンハウエルと共に理解しているアヤーラですから、この人間の二面性を2人の靴屋でそれぞれ強調しているわけです。
 ベラルミーノとアポローニオとの間の対抗は単に観念的もしくは象徴的のものではなく、どこからどこまでも人間味の著しいものとして表現されているのです。そもそもベラルミーノが靴屋であり同時に哲学者である所以は、「...で、哲学者の仕事ときたら、ただ言葉を広げるっきりのことです。まあ、私どもの言葉で言えば、言葉を靴型に入れるということになるのです。もしもどんな物でも容れられるやうなただ一つの言葉、つまり、どんな足にでも合うような1つの靴型が見付からろうものなら、それとそ哲学であり、私の悟性 の狙い所でもあるのです。」と、いうことを発見したためであります。そうしてアポローニオのその事についても同様なのです。「ねえ、何故 私は靴屋なんでしょうか。つまり劇詩人だからなのですよ。ねえ、何故 劇詩人なんでしょうか。つまり靴屋だからなのですよ。ところで、この2つの者の間には何も関係が無いように、無知な人達は思っているんです。でも、どちらも不可分の閥係にあるんですよ。」と考へるわけで、ここ彼は、劇は靴やコトウルノ(ギリシャ悲劇役者の穿いた一種の履)の問題であって、そうした履物によって人間は直立した姿勢で、言い換えれば他の動物のように四つ這いにならずに、 人同の運命が秘されてある天に向かって、昂然と、頭をそびやかしている、と考えたのです。従って対抗そのものは、単に哲学者と劇詩人のそれではなく、いろいろな社会的職業的な事件とその昂奮状態から止むを得ず生じたところの対抗でって、実に人間的興味の津々たるものをこの小説に横溢させているのです。
 『ベラルミーノとアポローニオ』はそれを読む人々に対して、現代スペイン文学作品中稀に見るところの知的並びに芸術的感化を及ぼす作品と、考えられます。もちろん作者は最初から教化を目的としているのではありませんが、この作品こそはまさに国民教育に資するするもので、作者自身に真に善き適切な且つ叉活きた教育的効果を持つ作品たることを予め期するところ無くして、しかも自ずからにしてそうなっているのです。その内容、内容の表現方法、その暗示する所の多き点から観て、まさにこれは最高度の文化的所産だと評しても、敢へて過言ではないのです。すなわち、この小説に於て描き出されたところの1つの世界は全く新しいもので、不思議な対立の人生図で、深味のある人間的感性に一杯浸されているのであり、それは吾人をして国民的且つ普遍的な現実と接触せしめ、諸思想への自由な愛を吾人の心中に生ぜしめ、感性を浄化し且つ強盛にしてくれるのです。
 ラモン・ペレス・デ・アヤーラの豊富なる思想の流は、この小設に於て、それ以前の彼の諸作品に於けるよりも、遥かに暗示的なものとなっています。その豊富さ力強さは特に著しいのですが、これまで或る作家たちが愚かにも意図したような、小説の形を借りて哲学思想を述べた論文では決してないのです。ラモン・ペレス・デ・アヤーラの描く対話は常に人間的実質を具へていますから、その描く諸人物の論説にしましても、他の作家に於て往々見られる、手品擬きに現実を作り上げるなどといったことは決してありません。その描写は凝縮されており、決して無駄がありませんし、その心理は鋭くて正鵠を得たものですし、その自然観はスペイン文学中に群を抜いています。その創造性の優秀な点に『ベラルミーノとアポローニオ』の記念碑的意義があるのだと言えましょう。

Ramón Pérez de Ayala nació ラモン・ペレス・デ・アヤラ誕生 (1888年)