2013年12月3日火曜日

Robert Louis Stevenson murió ロバート・ルイス・スティーブンソン歿 (1894年) 中島敦『光と風と夢』


Robert Louis Balfour Stevenson (Edimburgo, Escocia, 13 de noviembre de 1850 - Vailima, cerca de Apia, Samoa, 3 de diciembre de 1894) Escritor escocés. En la tumba de Stevenson, en una lejana isla de los mares del Sur a la que se retiró por motivos de salud, figura grabado el apodo que le dieron los samoanos: Tusitala, que en español significaría «el contador de historias». En efecto, la literatura de Stevenson es uno de los más claros ejemplos de la novela-narración, el «romance» por excelencia.















Hijo de un ingeniero, se licenció en derecho en la Universidad de Edimburgo, aunque nunca ejerció la abogacía. En busca de un clima favorable para sus delicados pulmones, viajó continuamente, y sus primeros libros son descripciones de algunos de estos viajes (Viaje en burro por las Cevennes).

En un desplazamiento a California conoció a Fanny Osbourne, una dama estadounidense divorciada diez años mayor que él, con quien contrajo matrimonio en 1879. Por entonces se dio a conocer como novelista con La isla del tesoro (1883). Posteriormente pasó una temporada en Suiza y en la Riviera francesa, antes de regresar al Reino Unido en 1884.

La estancia en su patria, que se prolongó hasta 1887, coincidió con la publicación de dos de sus novelas de aventuras más populares, La flecha negra y Raptado, así como su relato El extraño caso del doctor Jekyll y Mr. Hyde (1886), una obra maestra del terror fantástico.

En 1888 inició con su esposa un crucero de placer por el sur del Pacífico que los condujo hasta las islas Samoa. Y allí viviría hasta su muerte, venerado por los nativos. Entre sus últimas obras están El señor de Ballantrae, El náufrago, Cariona y la novela póstuma e inacabada El dique de Hermiston.

Su popularidad como escritor se basó fundamentalmente en los emocionantes argumentos de sus novelas fantásticas y de aventuras, en las que siempre aparecen contrapuestos el bien y el mal, a modo de alegoría moral que se sirve del misterio y la aventura. Cantor del coraje y la alegría, dejó una vasta obra llena de encanto, con títulos inolvidables.


アメリカ合州国の出版者スクリブナーズ(Ernesto Mr. T の愛する Hemingway の作品の出版で有名です)の依頼で取材した南太平洋の島々が自身の健康に優れていると思い、サモア諸島中のウポルー島に移住し、残りの生涯をそこで過ごしました。島人に「ツシタラ(語り部)」として好かれ、自らも島の争いを調停するなどの仕事をしました。島での生活中は健康に恵まれ、多くの作品を発表しました。しかし1894年の今日、12月3日に発作(¿脳梗塞?)を起こし、2時間後に死亡してしまいました。享年44歳(の¿若さ?)でした。

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以下は その晩年を物語る 中島敦『光と風と夢』です。




    一八八四年五月のある夜遅く、三十五歳のロバアト・ルウイス・スティヴンスンは、南仏イエールの客舎で、突然、ひどい喀血に襲われた。駈けつけた妻に向って、彼は紙切れにこう書いて見せた。「恐れることはない。これが死なら、楽なものだ。」血が口中を塞いで、口が利けなかったのである。
    爾来、彼は健康地を求めて転々としなければならなくなった。南英の保養地ボーンマスでの三年の後、コロラドを試みては、という医者の言葉に従って、大西洋を渡った。米国も思わしくなく、今度は南洋行きが試みられた。七十トンの縦帆船(スクーナー)は、マルケサス・パウモツ・タヒティ・ハワイ・ギルバアトを経て一年半にわたる巡航の後、一八八九年の終りにサモアのアピア港に着いた。海上の生活は快適で、島々の気候は申し分なかった。みずからの「咳と骨に過ぎない」というスティヴンスンの体も、まず小康を保つことが出来た。彼はここで住んで見る気になり、アピア市外に四百エーカーばかりの土地を買い入れた。もちろん、まだここで一生を終えようなどと考えていたわけではない。現に、翌年の二月、買い入れた土地の開墾や建築をしばらく人手に委ねて、自分はシドニーまで出かけて行った。そこで便船を待ち合わせて、一旦英国に帰るつもりだったのである。
    しかし、彼は、やがて在英の一友人にあてて次のような手紙を書かねばならなかった。
    「・・・・・・実を言えば、私は、もはや一度しか英国に帰ることはないだろうと思っている。そしてその一度とは、死ぬ時であろう。熱帯においてのみ私はわずかに健康なのだ。亜熱帯のここ(ニュー・カレドニア)でさえ、私はすぐに風邪を引く。シドニーではとうとう喀血をやってしまった。霧の深い英国へ帰るなど、今は思いも寄らぬ。・・・・・・私は悲しんでいるだろうか?英国にいる七、八人、米国にいる一人二人の友人と会えなくなること、それが辛いだけだ。それを別にすれば、むしろサモアの方が好ましい。海と島々と土人たちと、島の生活と気候とが、私を本当に幸福にしてくれるだろう。私はこの流謫を決して不幸とは考えない・・・・・・。」
    その年の十一月、彼はようやく健康を取り戻してサモアに帰った。彼の買入れ地には、土人の大工の作った仮小舎が出来ていた。本建築は白人大工でなければ出来ないのである。それが出来上るまで、スティヴンスンと妻のファニイとは仮小舎に寝起きし、みずから土人たちを監督して開墾に当った。そこはアピア市の南方三マイル、休火山ヴァニアの山腹で五つの渓流と三つの瀑布と、その他いくつかの峡谷断崖を含む・六百フィートから千三百フィートにわたる高さの台地である。土人はこの地をヴァイリマと呼んだ。五つの川の意である。欝蒼たる熱帯林や渺茫たる南太平洋の眺望をもつこうした土地に、自分の力で一つ一つ生活の礎石を築いて行くのあ、スティヴンスンにとって、子供の時の箱庭遊びに似た純粋な歓びであった。自分の生活が自分の手によって最も直接に支えられていることの意識―その敷地に自分が一杙打ち込んだ家に住み、自分が鋸をもってその製造の手伝いをした椅子に掛け、自分が鍬を入れた畠の野菜や果実をいつも喰べていること―これは、幼時始めて自力で作り上げた手工品を卓子(テーブル)の上に置いて眺めた時の・新鮮な自尊心を蘇らせてくれる。この小舎を組み立てている丸木や板も、また、日々の食物も、みんな素性の知れたものであること―つまりそれらの木はことごとく自分の山から伐り出され自分の眼の前で鉋を掛けられたものであり、それらの食物の出所も、みんなはっきり判っている(このオレンジはどの木から取った。このバナナはどこの畠のと)こと。これも、幼いころ母の作った料理でなければ安心して喰べられなかったスティヴンスンに、何か楽しい心易さを与えるのであった。
    彼は今ロビンソン・クルーソー、あるいはウォルト・ホイットマンの生活を実験しつつある。「太陽と大地と生物とを愛し、富を軽蔑し、乞う者には与え、白人文明をもって一の大なる偏見と見なし、教育なき・力溢るる人々とともに闊歩し、明るい風と光との中で、労働に汗ばんだ皮膚の下に血液の循環を快く感じ、人に嗤われまいとの懸念を忘れて、真に思うことのみを言い、真に欲することのみを行う。」これが彼の新しい生活であった。



    一八九〇年十二月×日
    五時起床。美しい鳩色の明け方。それが徐々に明るい金色に変ろうとしている。はるか北方、森と街との彼方に、鏡のような海が光る。ただし、環礁の外は相変わらず怒涛の飛沫が白く立っているらしい。耳をすませば、確かに、その音が地鳴りのように聞えて来る。
    六時少し前朝食。オレンジ一箇、卵二箇。喰べながらヴェランダの下を見るともなく見ていると、すぐ下の畑の玉蜀黍が二、三本、いやに揺れている。おやと思って見ているうちに一本の茎が倒れたと思うと、葉の茂みの中に、すうっと隠れてしまった。すぐに降りて行って畑に入ると仔豚が二匹慌てて逃げ出した。
    豚の悪戯には全く弱る。欧羅巴の豚のような・文明のために去勢されてしまったようなものとは、全然違う。実に野性的で活力的で逞しく、美しいとさえ言っていいかも知れぬ。私は今まで豚は泳げぬものと思っていたが、どうして、南洋の豚は立派に泳ぐ。大きな黒牝豚が五百ヤードも泳いだのを、私は確かに見た。彼らは怜悧で、ココナットの実を日向に乾かして割る術をも心得ている。獰猛なのになると、時に仔羊を襲って喰い殺したりする。ファニイの近ごろは、毎日豚の取締りに忙殺されているらしい。
    六時から九時まで仕事。一昨日以来の「南洋だより」の一章を書き上げる。すぐに草刈りに出る。土人の若者らが四組に分れて畑仕事と道拓きに従っている。斧の音。煙の匂い。ヘンリ・シメレの監督で、仕事は大いに捗っているようだ。ヘンリは元来サヴァイイ島の酋長の息子なのだが、欧羅巴のどこへ出しても恥ずかしくない立派な青年だ。
    生垣の中にクイクイ(あるいはツイツイ)の叢生しているところを見つけて、退治にかかる。この草こそ我々の最大の敵だ。恐ろしく敏感な植物。狡猾な知覚―風に揺れるほかの草の葉が触れた時は何も反応を示さないのに、ほんの少しでも人間がさわるとたちまち葉を閉じてしまう。縮んでは鼬のように噛みつく植物。牡蠣が岩にくっつくように、根でもって執拗に土と他の植物の根とに、からみついている。クイクイを片づけてから、野生のライムにかかる。棘と、弾力ある吸盤とに、大分素手を傷められた。
    十時半、ヴェランダから法螺貝(プウ)が響く。昼食―冷肉、木犀果(アヴオガドオ・ペア)・ビスケット・赤葡萄酒。
    食後、詩を纏めようとしたが、うまく行かぬ。銀笛(フラジオレット)を吹く。一時からまた外へ出てヴァイトリンガ河岸への径を開きにかかる。斧を手に、独りで密林にはいって行く。頭上は、重なり合う巨木、巨木。その葉の隙から時時白く、ほとんど銀の斑点のごとく光って見える空。地上にもところどころに倒れた巨木が道を拒んでいる。攀じ登り、垂れ下がり、絡みつき、輪索を作る蔦葛類の氾濫。総状に盛り上がる蘭類。毒々しい触手を伸ばした羊歯類。巨大な白星海芋。汁気の多い椎木の茎は、斧の一振りでサクリと気持よく切れるが、しなやかな古枝はなかなかうまく切れない。
    静かだ。私の振る斧の音以外には何も聞えない。豪華なこの緑の世界の、何という寂しさ!白昼の大きな沈黙の何という恐ろしさ!
    突然、遠くからある鈍い物音と、続いて、短い・疳高い笑い声とが聞えた。ゾッと悪寒が背を走った。はじめの物音は、何かの木魂でもあろうか?笑い声は鳥の声?この辺の鳥は、妙に人間に似た叫びをするのだ。日没時のヴァエア山は、子供の喚声に似た・鋭い鳥どもの鳴き声で充たされる。しかし、今の声は、それとも少し違っている。結局、音の正体は判らずじまいであった。
    帰途、ふと一つの作品の構想が浮かんだ。この密林を舞台としたメロドラマである。弾丸のようにその思いつきが(また、その中の情景の一つが)私を貫いたのだ。うまく纏まるかどうか分らないが、とにかく私はこの思いつきをしばらく頭の隅に暖めておこう。鶏が卵をかえす時のように。
    五時、夕食。ビーフシチュウ・焼きバナナ・パイナップル入りクラレット。
    食後、ヘンリに英語を教える。というよりも、サモア語との交換教授だ。ヘンリが毎日毎日、この憂欝な夕方の勉学に、どうして堪えられるか、不思議でならぬ。(今日は英語だが、明日は初等数学だ。)享楽的なポリネシア人の中でも特に陽気なのがサモア人だのに。サモア人はみずから強いることを好まない。彼らの好むのは、歌と踊りと美服(彼らは南海の伊達者(ダンデイ)だ。)と、水浴とカヴァ酒とだ。談笑と演説と、マランガ―これは、若者が大勢集まって村から村へと幾日も旅を続けて遊び廻ること。訪ねられた村では必ず彼らをカヴァ酒や踊りで歓待しなければならないことになっている。サモア人の底抜けの陽気さは、彼らの国語に「借財」あるいは「借りる」という言葉のないことだ。近ごろ使われているのはタヒティから借用した言葉だ。サモア人は元々、借りるなどという面倒なことはせずに、皆貰ってしまうのだから、したがって、借りるという言葉もないのである。買う―乞う―強請する、という言葉なら、実にたくさんある。買うものの種類によって、―魚だとか、タロ芋だとか、亀だとか、筵だとか、それによって「貰う」という言葉が幾通りにも区別されているのだ。もう一つの長閑な例―奇妙な囚人服を着せられ道路工事に使役されている土人の囚人のところへ、日曜着の綺羅を飾った囚人らの一族が飲食物携帯で遊びに行き、工事最中の道路の真中に筵を敷いて、囚人たちと一緒に一日中飲んだり歌ったりして楽しく過ごすのだ。何という、とぼけた明るさだろう!ところで、うちのヘンリ・シメレ君はこうした彼の種族一般とどこか違っている。その場限りではないもの、組織的なものを求める傾向が、この青年の中にある。ポリネシア人としては異数のことだ。彼に比べると、白人ではあるが、料理人のポールなど、はるかに知的に劣っている。家畜係のラファエレと来ては、これはまた典型的なサモア人だ。元来サモア人は体格がいいが、ラファエレも六フィート四インチぐらいはあろう。身体ばかり大きいくせに一向に意気地がなく、のろまな哀願的人物である。ヘラクレスのごとくアキレスのごとき巨漢が、甘ったれた口調で私のことを「パパ、パパ」と呼ぶのだから、やりきれない。彼は幽霊をひどく怖がっている。夕方一人でバナナ畑へ行けないのだ。(一般に、ポリネシア人が「彼は人だ」という時、それは「彼が幽霊ではなく、生きた人間である。」という意味だ。)二、三日前ラファエレが面白い話をした。彼の友人の一人が死んだ父の霊をみたというのだ。夕方、その男が、死んでから二十日ばかりになる父の墓の前に佇んでいた。ふと気がつくと、いつの間にか、一羽の雪白の鶴が珊瑚屑の塚の上に立っている。これこそは父の魂だと、そう思いながら見ているうちに、鶴の数が殖えて来て、中には黒鶴も交っていた。そのうちに、いつか彼らの姿が消え、その代りに塚の上には、今度は白猫が一匹いる。やがて、白猫の周りに、灰色、三毛、黒、とあらゆる毛色の猫どもが、幻のように音もなく、鳴き声一つ立てずに忍び寄って来た。そのうちに、それらの姿も周囲の夕闇の中へ融け去ってしまった。鶴になった父親の姿を見たとその男は堅く信じている。・・・・・・・・・・・・云々。

    十二月××日
    午前中、稜鏡羅針儀を借りて来て仕事にかかる。この器械に私は一八七一年以来触れたことがなく、また、それについて考えたこともなかったのだが、とにかく、三角形を五つ引いた。エディンバラ大学工科卒業生たるの誇りを新たにする。だが、何という怠惰な学生であったか!ブラッキイ教授やテイト教授のことを、ひょいと思い出した。
    午後はまた、植物どものあらわな生命力との無言の闘争。こうして斧や鎌を揮(ふる)って六ペンス分も働くと、私の心は自己満足でふくれ返るのに、家の中で机に向って二十ポンド稼いでも、愚かな良心は、己の怠惰と時間の空費とを悼むのだ。これは一体どうしたわけか。
    働きながら、ふと考えた。俺は幸福か?と。しかし、幸福というやつは解らぬ。それは自意識以前のものだ。が、快楽なら今でも知っている。いろいろな形の・多くの快楽を。(どれもこれも完全なものとてないが。)それらの快楽の中で、私は、「熱帯林の静寂の中でただ一人斧を揮う」この伐木作業を高い位置に置くものだ。誠に、「歌のごとく、情熱のごとく」この仕事は私を魅する。現在の生活を、私は他のいかなる環境とも取り換えたく思わない。正直なところを云えば、私は今、ある強い嫌悪の情で、絶えずゾッとしているのだ。本質的にそぐわない環境の中へ強いて身を投じた者の感じねばならない肉体的な嫌悪というやつだろうか。神経を逆撫でする荒っぽい残酷さが、いつも私の心を押しつける。うごめき、まつわるものの、いやらしさ。周囲の空寂と神秘との迷信的な不気味さ。私自身の荒廃の感じ。絶えざる殺戮の残酷さ。植物どもの生命が私の指先を通して感じられ、彼らのあがきが、私には歎願のように応える。血に塗れているような自分を感じる。

    ファニイの中耳炎。まだ痛むらしい。
    大工の馬が鶏卵十四個を踏みつぶした。昨夕は、うちの馬が脱け出して、隣(といっても随分離れているが)の農耕地に大きな穴をあけたそうだ。

    身体の調子はすこぶる良いのだが、肉体労働が少し過ぎるらしい。夜、蚊帳の下のベッドに横になると、背中が歯痛のように痛い。閉じた瞼の裏に、私は、近ごろ毎晩ハッキリと、限りない。生き生きした雑草の茂み、その一本一本を見る。つまり、私は、くたくたになって横たわったまま何時間も、昼の労働の精神的復調をやってのけるわけだ。夢の中でも、私は、強情な植物どもの蔓を引っ張り、蕁麻の刺に悩まされ、シトロンの針に突かれ、蜂には火のように螫され続ける。足もとでヌルヌルする粘土、どうしても抜けない根、恐ろしい暑さ、突然の微風、近くの森から聞える鳥の声、誰かがふざけて私の名を呼ぶ声、笑い声、口笛の合図・・・・・・・・・・・・大体、昼の生活を夢の中で、もう一ぺん、し直すのである。

    十二月××日
    昨夜仔豚三頭盗まる。
    今朝巨漢ラファエレが、おずおずと我々の目の前に現われたので、このことについて質問し、やまをかけて見る。全く子供欺しのトリック。ただし、これはファニイがやったので、私はあんまりこんなことを好まぬ。まずラファエレを坐らせ、こちらは少し離れて彼の前に立ち、両腕を伸ばし両方の人差指でラファエレの両眼を指しながら徐々に近づいて行く。こちらのもったいぶった様子にラファエレはすでに恐怖の色を浮べ、指が近づくと眼を閉じてしまう。その時、左手の人差指と親指とを拡げて彼の両眼の瞼に触れ、右手はラファエレの背後に廻して、頭や背を軽く叩く。ラファエレは、自分の両眼にさわっているのは左右の人差指と信じているのだ。ファニイは右手を引いてもろの姿勢に復り、ラファエレに眼を開かせる。ラファエレは変な顔をして、先刻頭の後にさわったのは何です、と聞く。「私に付いている魔物だよ。」とファニイが云う。「私は私の魔物を呼び起したんだよ。もう大丈夫、豚盗人は魔物がつかまえてくれるから。」
    三十分後、ラファエレはさっきの魔物の話は本当かと念を押す。「本当だよ。盗った男が今晩寝ると、魔物もそこへ寝に行くんだよ。じきにその男は病気になるだろうよ。豚を盗った酬いさ。」
    幽霊信者の巨漢はますます不安の面持になる。彼が犯人とは思わないが、犯人を知っていることだけは確かのようだ。そして、おそらく今晩あたりその仔豚の饗宴(きょうえん)にあずあkるであろうことも。ただし、ラファエレにとって、それはあまり楽しい食事ではなくなるだろう。

    この間、森の中で思いついた例の物語、どうやら頭の中で大分醗酵して来たようだ。題は、「ウルファヌアの高原林」とつけようかと思う。ウルは森。ファヌアは土地。美しいサモア語だ。これを作品中の鳥の名前に使うつもり。まだ書かない作品中のいろいろな場面が、紙芝居の絵のように次から次へと現れて来て仕方がない。非常に良い叙事詩になるかも知れぬ。実にくだらない甘ったるいメロドラマに堕する危険も多分にありそうだ。何か電気でも孕んだような工合で、今執筆中の「南洋だより」のような紀行文など、ゆっくりと書いていられなくなる。随筆や詩(もっとも、私の詩は、いきぬきのための娯楽の詩だから、話にならないが)を書いている時は、決して、こんな興奮に悩まされることはないのだが。

    夕方、巨樹の梢と、山の背後とに、壮大な夕焼け。やがて、低地と海との彼方から満月が出ると、この地には珍しい寒さが始まった。誰一人眠れない。皆起き出して、掛蒲団(かけぶとん)を探す。何時ごろだったろう。-外は昼のように明るかった。月はまさにヴェニア山巓にあった。ちょうど真西だ。鳥どもも奇妙に静まり返っている。家の裏の森も寒さに疼いているように見えた。
    六十度より降ったに違いない。



    明けて一八九一年の正月になると、旧宅、ボーンマスのスケリヴォア荘から、家財道具一切を纏めて、ロイドがやって来た。ロイドはファニイの息子で、もはや二十五歳になっていた。
    十五年前フォンテンプロオの森でスティヴンスンが初めてファニイに会った時、彼女はすでに二十歳に近い娘と九歳になる男の児との母親であった。娘はイソベル、男の児はロイドといった。ファニイは当時、戸籍の上ではまだ米国人オスボーンの妻でったけれど、久しく夫から脱れて欧州に渡り、雑誌記者などをしながら、二人の子をかかえて自活していたのである。
    それから三年の後、スティヴンスンは、その時カリフォルニアに帰っていたファニイの後を追うて、大西洋を渡った。父親からは勘当同様となり、友人たちの切なる勧告(彼らは皆スティヴンスンの身体を気遣っていた。)をも斥けて、最悪の健康状態と、それに劣らず最悪の経済状態とをともって彼は出発した。はたして加州に着いた時は、ほとんど瀕死の有様だった。しかし、とにかくどうにか頑張り通して生き延びた彼は、翌年ファニイの・前夫との離婚成立を待ってようやく結婚した。時にファニイは、スティヴンスンより十一歳年上の四十二。前年娘のイソベルがストロング夫人となって長男を挙げていたから、彼女はすでに祖母となっていたわけである。
    こうして、世の辛酸をなめつくした中老の亜米利加女と、坊ちゃん育ちで、我儘で天才的な若いスコットランド人との結婚生活が始まった。夫の病弱と妻の年齢とは、しかし、二人を、やがて、夫婦というよりもむしろ、芸術家とそのマネージャアのごときものに変えてしまった。スティヴンスンに欠けている実際家的才能を多分に備えていたファニイは、彼のマネージャアとして確かに優秀であった。が、時に、優秀すぎる憾みがないではなかった。ことに、彼女が、マネージャアの分を超えて批評家の域に入ろうとする時に。事実、スティヴンスンの原稿は、必ず一度はファニイの校閲を経なければならないのである。三晩寝ないで書き上げた「ジイキルとハイド」の初稿をストーヴの中に叩き込ませたのは、ファニイであった。結婚以前の恋愛詩を断然差し押えて出版させなかったのも彼女であった。ボーンマスにいたころ夫の身体のためとはいえ、古い友達の誰彼を、頑として一切病室に入れなかったのも、彼女であった。これはスティヴンスンの友人たちも大分気を悪くした。直情径行のW・E・ヘンレイ(カルバルジイ将軍を詩人にしたような男だ)が真先に憤慨した。何のために、あの色の浅黒い・隼のような眼をした亜米利加女がでしゃばらねばならぬのか。あの女のためにスティヴンスンはすっかり変わってしまった、と。この豪快な赤髯詩人も、自己の作品の中においてなら、友情が家庭や妻のために蒙らねばならぬ変化を充分冷静に観察できたはずだのに、今、実際眼の前で最も魅力ある友が一婦人のために奪い去られるのは、我慢ならなかったのである。スティヴンスンの方でも、確かに、ファニイの才能について幾分誤算をしていたところがあった。ちょっと利口な婦人ならば誰しも本能的に備えている男性心理への鋭い洞察や、また、そのジャアナリスティックな才能を、芸術的な批評能力と買いかぶったところが確かにあった。後になって、彼もその誤算に気づき、時として心服しかねる妻の批評(というよりも干渉といってもいいくらい、強いもの)に辟易せねばならなかった。「鋼鉄のごとく真剣に、刃のごとく剛直な妻」と、ある戯詩の中で、彼はファニイの前に兜を脱いだ。
    連れ子のロイドは義父と生活をともにしている間に、いつか自分も小説を書くことを覚え出した。この青年も母親に似て、ジャアナリスト的な才能を多く有っているようである。息子の書いたものに義父が筆を加え、それを母親が批評するという、妙な一家が出来上がった。今まで父子の合作は一つ出来ていたが、今度はヴァイリマで一緒に暮すようになってから「退潮(エップ・タイド)」なる新しい共同作品の計画が建てられた。

    四月になると、いよいよ、屋敷が出来上がった。芝生とヒビスカスの花とに囲まれた・暗緑色の木造二階建て、赤屋根の家は、ひどく土人たちの眼を驚かせた。スティヴロン氏、あるいはストレーヴン氏(彼の名前を正確に発音できる土人は少かった)あるいはツシタラ(物語の語り手を意味する土語)が、富豪であり、大酋長であることは、もはや疑いなきものと彼らには思われた。彼の豪壮(?)な邸宅の噂は、やがてカヌーに乗って、遠くフィジー、トンガ諸島あたりまで喧伝された。

    やがてスコットランドからスティヴンスンの老母が来て一緒に暮すことになった。それとともに、ロイドの姉イソベル・ストロング夫人が長男のオースティンを連れてヴァイリマに合流した。
    スティヴンスンの健康は珍しく上乗で、伐木や乗馬もさして疲れないようになった。原稿執筆は、毎朝決って五時間ぐらい。建築費に三千ポンドも使った彼は、いやでも書きまくらざるを得なかったのである。



    一八九一年五月×日
    自分の領土(及びその地続き)内の探検。ヴァイトゥリンガ流域の方は先日行って見たので、今日はヴァエア河上流を探る。
    叢林の中を大体見当をつけて東へ進む。ようやく河の縁へ出る。最初河床は乾いている。ジャック(馬)を連れて来たのだが、河床の上に樹々が低く密生して馬は通れないので、叢林の中に木を繋いでおく。乾いた川筋を上って行くうちに、谷が狭くなり、ところどころに洞があったりして、横倒しになった木の下に屈まずにくぐって歩けた。
    北へ鋭く曲る。水の音が聞えた。しばらしくて峙つ岩壁にぶつかる水がその壁面を簾のように浅く流れ下っている。その水はすぐ地下に潜って見えなくなってしまう。岩壁は攀じ登れそうにもないので、木を伝って横の堤に上る。青臭い草の匂いがむんむんして、暑い。ミモザの花。羊歯類の触手。身体中を脈拍が烈しく打つ。途端に何か音がしたように思って耳をすます。確かに、水車の廻るような音がした。それも、巨大な水車がすぐ足もとでゴーッと鳴ったような、あるいは、遠雷のような音が、二、三回。そして、その音が強くなるたび、静かな山全体が揺れるように感じた。地震だ。
    また、水路に沿って行く。今度は水が多い。恐ろしく冷たい澄んだ水。夾竹桃、枸櫞樹(シトロン)、たこの気、オレンジ。それらの樹々の円天井の下をしばらく行くと、また水がなくなる。地下の溶岩の洞穴の廊下に潜り込むのだ。私はその廊下の上を歩く。いつまで行っても、樹々に埋もれた井戸の底からなかなか抜け出られぬ。よほど行ってから、ようやく繁みが浅くなり、空が葉の間から透けて見えるようになった。
    ふと、牛の鳴き声を聞きつける。確かに私の所有する牛には違いないが、先方では所有者を見知るまいから、すこぶる危険だ。立ち停り、様子をうかがって、うまくやり過ごす。しばらく進むと、纍々たる溶岩の崖に出くわす。浅い美しい滝がかかっている。下の水溜りの中を、指ぐらいの小魚の影がすいすいと走るざりがにもいるらしい。朽ち倒れ、半ば水に浸った巨木の洞。渓流の底の一枚岩が不思議にルビイのように紅い。
    やがてまたも河床は乾き、いよいよヴェニア山の嶮しい面を上って行く。河床らしいものもなくなり、山頂に近い台地に出る。彷徨することしばし、台地が東側の大峡谷に落ち込む縁のところに、一本の素晴らしい巨樹を見つけた。榕樹(カジマル)だ。高さは二百フィートもあろう。巨幹と数知れぬその従者ども(気根)とは、地球を担うアトラスのように、怪鳥の翼を拡げたるがごとき大枝の群を支え、一方、枝々の嶺の中には、羊歯・蘭類がそれぞれまた一つの森のように叢がり茂っている。枝々の群は、一つの途方もなく大きな円盤(ドーム)だ。それは層々纍々と盛り上って、明るい西空(すでに大分夕方近くなっていた)に高く向い合い、東の方数マイルの谿から野にかけて蜿蜒と広がるその影の巨きさ!誠に、何とも豪宕な観ものであった。
    もう遅いので慌てて帰途に就く。馬を繋いでおいたところへ来て見ると、ジャックは半狂乱の態だ。独りぼっちで森の中に半日捨ておかれた恐怖のためらしい。ヴァエア山にはアイトゥ・ファフィネなる女怪が出ると土人は云うから、ジャックはそれを見たのかも知れぬ。何度もジャックに蹴られそうになりながら、ようやくのことで宥めて、連れ帰った。

    五月×日
    午後、ベル(イソベル)のピアノに合わせて銀笛(フラジオレツト)を吹く。クラックストン師来訪。「壜の魔物(ボツトル・イムブ)」をサモア語に訳して、オ・レ・サル・オ・サモア誌に載せたき由。欣んで承諾。自分の短編の中でも、ずっと昔の「ねじけジャネット」や、この寓話など、作者の最も好きなものだ。南海を舞台にした話だから、案外土人たちも喜ぶかも知れない。これでいよいよ私は彼らのツシタラ(物語の語り手)となるのだ。
    夜。寝に就いてから、雨の音。海上遠く微かな稲妻。

    五月××日
    街へ下りる。ほとんど終日為替のことでゴタゴタ。銀の騰落は、この地においてはすこぶる大問題なり。
    午後、港内に碇泊中の船々に弔旗揚がる。土人の女を妻とし、サメソニの名をもって島民に親しまれていたキャプテン・ハミルトンが死んだのだ。
    夕方、米国領事館の方へ歩いて見た。満月の美しい夜。マタウトゥの角(かど)を曲がった時、前方から賛美歌の合唱の声が聞えた。死者の家のバルコニイに女たち(土人の)がたくさんいて唱っているのだった。未亡人になったメアリイ(やはり、サモア人だが)が、家の入口の椅子に掛けていた。私と見知り越しの彼女は、私を請じ入れて自分の隣に掛けさせた。室内の卓子(テーブル)の上に、シーツに包まれて横たわっている個人の遺骸を私は見た。賛美歌が終ってから、土人の牧師が立ち上がって、話を始めた。長い話だった。燈明の光が扉や窓から外へ流れ出していた。褐色の少女たちがたくさん私の近くに坐っていた。恐ろしく蒸し暑かった。牧師の話が終ると、メアリイは私を中に案内した。故キャプテンの指は胸の上で組まれ、その死顔は穏やかだった。今にも何か口をききそうであった。これほど生き生きした・美しい蠟細工の面をまだ見たことがない。
    一礼して私は表へ出た。月が明るく、オレンジの香りがどこからか匂っていた。すでにこの世の戦いを終え、こんな美しい熱帯の夜、乙女らの唄に囲まれて静かに眠っている故人に対して、一種甘美な羨望の念を私は覚えた。

    五月××日
    「南洋だより」は、偏輯者並びに読者に不満の由。曰く、『南洋研究の資料蒐集、あるいは科学的観察ならば、また、他に人もあるべし。読者のR・L・S・氏に望むところのものは、もとより、その麗筆にかかる南海の猟奇的冒険詩にこれあり候』。冗談ではない。私があの原稿を書く時、頭に浮べていた模範(モデル)は、十八世紀風の紀行文、筆者の主観や情緒を抑えて、即物的な観察に終始した・ああいう行き方なのだ。「宝島」の作者はいつまでも海賊と埋もれた宝物のことを書いていればいいのであって、南洋の植民事情や、土着民の人口減少現象や、布教状態について考察する資格がないとでもいうのか?やりきれないことには、ファニイまでが亜米利加の偏輯者と同意見なのだ。「精確な観察よりも、華やかで面白い話を書かなければ、」と云うのだ。
    大体、私は近ごろ、従来の自分の極彩色描写がだんだん厭になって来た。最近の私の文体は、次の二つを目指しているつもりだ。一、無用の形容詞の絶滅。二、視覚的描写への宣戦。ニューヨーク・サン紙の偏輯者にもファニイにもロイドにも、いまだにこのことが解らないのだ。

    「難破船引揚業者(レッカー)」は順調に進捗しつつある。ロイドのほかにイソベルという一層叮嚀な筆記者が殖えたのは、大いに助かる。
    家畜の宰領をしているラファエレに、現在の頭数を聞いて見たら、乳牛が三頭、犢が牝牡一頭ずつ。馬八頭、(ここまでは聞かなくても知っている。)豚が三十匹余り。家鴨と鶏は随処に出没するのでほとんど無数というほかはなく、なお、別に夥しい野良猫どもが跋扈している由。野良猫は家畜なりや?

    五月××日
    街に、島巡りのサーカスが来たというので、一家総出で見に行く。真昼の大天幕の下。土人の男女の喧騒の中で、生温い風に吹かれながら、曲芸を見る。これが我々にとっての唯一の劇場だ。我々のプロスペロオは球乗りの黒熊。ミランダは馬の背に乱舞しつつ火の輪を潜る。
    夕方、帰る。何か心怡しまず。

    六月×日
    昨夜八時半ごろロイドと自室にいると、ミタイエレ(十一、二歳の少年召使)がやって来て、一緒に寝ているパータリセ(最近、戸外労働から室内給仕に昇格した十五、六歳の少年、ワリス島の者で英語は皆目判らず、サモア語も五つしか知らない。)が、急に変なことを言い出して気味が悪い、と言った。何でも、「今から森の中にいる家族の者に逢いに行く。」といって聞かないのだそうだ。「森の中に、あの子の家があるのか?」と聞くと、「あるもんですか。」とミタイエレが言う。すぐにロイドと、彼らの寝室へ行った。パータリセは睡っている者のように見えたが、何かうわ言を言っている。時々、脅かされた鼠のような声を立てる。身体にさわると冷たい。脈は速くない。呼吸のたびに腹が大きく上下する。突然、彼は起き上がり、頭を低く下げ、前へつんのめるような恰好で、扉に向って走った。(といっても、その動作はあまり速くなく、ぜんまいの弛んだ機械玩具のような奇妙なのろまさであった。)ロイドと私とが彼をつかまえてベッドに寝かしつけた。しばらくしてまた逃げ出そうとした。今度は猛烈な勢いなので、やむを得ず、みんなで彼をベッドに(シーツや縄で括りつけた。パータリセは、そうやって抑えつけられたまま時々何か呟き、時に怒った子供のように泣いた。彼の言葉は、「ファアモレモレ(どうぞ)」が繰り返されるほか、「家の者が呼んでいる」とも言っているらしい。そのうちにアリック少年とラファエレとサヴェアとがやって来た。サヴェアはパータリセと同じ島の生まれで、彼と自由に話が出来るのだ。我々は彼らに後を任せて部屋に戻った。
    突然、アリックが私を呼んだ。急いで駆けつけると、パータリセは縛をすっかり脱し、巨漢ラファエレにつかまえられている。必死の抵抗だ。五人がかりで取り抑えようとしたが、狂人は物凄力だ。ロイドと私とが片足の上に乗っていたのに、二人とも二フィートも高く跳ね飛ばされてしまった。午前一時ごろまでかかって、とうとう抑えつけ、鉄の寝台脚に手首を結びつけた。厭な気持だが、やむを得ない。その後も発作は刻一刻と烈しくなるようだ。何のことはない。まるで、ライダー・ハガードの世界だ。(ハガードといえば、今、彼の弟が土地管理委員としてアピアの町に住んでいる。)
    ラファエレが「狂人の工合は大変悪いから、自分の家の家伝の秘薬を持って来よう」と言って出て行った。それを噛んで狂少年の眼に貼りつけ、耳の中にその汁を垂らし(ハムレットの場面?)鼻孔にも詰め込んだ。二次ごろ、狂人は熟睡に陥った。それから朝まで発作がなかったらしい。今朝ラファエレに聞くと、「あの薬は使い方一つで、一家鏖殺ぐらい、わけなく出来る劇毒薬で、昨夜は少し利き過ぎなかったかを心配した。自分のほかに、もう一人、この島でこの秘法を知っている者がある。それは女で、その女はこれを悪い目的のために使ったことがある。」と。

    入港中の軍艦の医者に今朝来てもらったが、パータリセを診(み)て、異常なしという。少年は、今日は仕事をするのだと言って聞かず、朝食の時、皆のところへ来て、昨夜の謝罪のつもりだろうか、家中の者に接吻(せつぷん)した。この狂的接吻には一同少なからず辟易。しかし、土人たちは皆パータリセの譫言(うわごと)を信じているのだ。パータリセの家の死んだ一族が多勢、森の中から寝室へ来て、少年を幽冥界(ゆうめいかい)へ呼んだのだと。また、最近死んだパータリセの兄がその日の午後叢林の中で少年に会い、彼の額を打ったに違いないと。また、我々は死者の霊と、昨夜一晩戦い続け、ついに死霊どもは負けて、暗い夜(そこが彼らの住居である)へと逃げて行かねばならなかったのだと。

    六月×日
    コルヴィンのところから写真を送って来た。ファニイ(感傷的な涙とはおよそ縁の遠い)が思わず涙をこぼした。
    友人!何と今の私に、それが欠けていることか!(いろいろな意味で)対等に話すことの出来る仲間。共通の過去を有った仲間。会話の中に頭註や脚註の要らない仲間。ぞんざいな言葉は使いながらも、心の中では尊敬せずにいられぬ仲間。この快適な気候と、活動的な日日との中で、足りないものは、それだけだ。コルヴィン、バクスター、W・E・ヘンレイ、ゴス、少し遅れて、ヘンリイ・ジェイムス、思えば俺の青春は豊かな友情に恵まれていた。みんな俺より立派な奴ばかりだ。ヘンレイとの仲違いが、今、最も痛切な悔恨をもって思い出される。道理から云って、此方が間違っているとは、さらさら思わない。しかし、理屈なんか問題じゃない。巨大な・捲鬚の・赭ら顔の・片脚の・あの男と・蒼ざめた痩せっぽちの俺とが、一緒に秋のスコットランドを旅した時の、あの二十代の健やかな歓びを思っても見ろ。あの男の笑い声―「顔と横隔膜とのみの笑いではなく、頭から踵に及ぶ全身の笑い」が、今も聞えるようだ。不思議な男だった、あの男は。あの男と話していると、世の中に不可能などというものはないような気がして来る。話しているうちに、いつか此方までが、富豪で、天才で、王者で、ランプを手に入れたアラディンであるような気がして来たものだ。・・・・・・・・・・・・
    昔の懐かしい顔(オールド・ファミリア・フェイシイズ)の一つ一つが眼の前に浮かんで来て仕方がない。無用の感傷を避けるため、仕事の中に逃れる。先日からかかっているサモア紛争史、あるいは、サモアにおける白人横暴史だ。

    しかし、英国とスコットランドとを離れてからは、もうちょうど、四年になるのだ。



        ―サモアにおいては古来地方自治の制、きわめて鞏固にして、名目は王国なれども、王はほとんど政治上の実権を有せず。実際の政治はことごとく、各地方のフォノ(会議)によって決定せられたり。王は世襲にあらず。また、必ずしも常置の位にもあらず。古来この諸島には、その保持者に王者たる資格を与うべき・名誉の称号、五つあり。各地方の大酋長にして、この五つの称号を全部、もしくは過半数(人望により、あるいは功績により)得たる者、推されて王位に即くなり。面して、通常、五つの称号を一人にて兼ね有する場合はきわめて稀にして、多くは、王の他に、一つあるいは二つの称号を保持する者あるを常とす。されば、王は、絶えず、他の王位請求権保持者の存在に脅かされざるを得ず。かかる状況は必然的にその中に内乱紛争の因由を蔵するもとのいうべし。
        ―J・B・ステエア「サモア地誌」―

    一八八一年、五つの称号のうち、「マリエトア」「ナトアイテレ」「タマソアリイ」の三つを有つ大酋長ラウペパが推されて王位に即いた。「ツイアアナ」の称号を有つタマセセと、もう一つの称号「ツイアトゥア」の持主マターファとは、代る代る副王の位に即くべく定められ、まず始めにタマセセが副王となった。
    そのころからちょうど、白人の内政干渉が烈しくなって来た。以前は会議(フォノ)及びその実権者。ツツファレ(大地主)たちが王を操っていたのに、今は、アピアの街に住むごく少数の白人がこれに代ったのである。元来アピアには、英・米・独の三国がそれぞれ領事を置いている。しかし、最も権力あるのは領事たちではなくて、独逸人の経営にかかる南海拓殖商会であった。島の白人貿易商らの間にあって、この商会はまさしく小人国のガリヴァアであった。かつてはこの商会の支配人が独逸領事を兼ねたこともあり、またその後、自国の領事(この男は若い人道家で、商会の土人労働者虐待に反対したので)と衝突してこれを辞めさせたこともある。アピアの西郊ムリヌウ岬からその附近一帯の広大な土地が独逸商会の農場で、そこでコーヒー、ココア、パイナップル等を栽培していた。千に近い労働者は、主に、サモアよりもさらに未開の他の島々や、あるいは遠くアフリカから、奴隷同様にして連れて来られたものである。
    過酷な労働が強制され、白人監督に笞打たれる黒色人褐色人の悲鳴が日ごとに聞かれた。脱走者が相継ぎ、しかも彼らの多くは捕えられ、あるいは殺された。一方、はるかに久しい以前から食人の習慣を忘れているこの島に、奇怪な噂が弘まった。外来の皮膚の黒い人間が島民の子供を取って喰うと。サモア人の皮膚は浅黒、乃至、褐色だから、アフリカの黒人が恐ろしいものに見えたのであろう。
    島民の商会に対する反感が次第に昂まった。美しく整理された商会の農場は、土人の眼に公園のごとく映り、、そこへ自由に入ることを許されぬのは、遊び好きな彼らにとって不当な侮辱と思われた。せっかく苦労してたくさんのパイナップルを作り、それを自分たちで喰べもせずに、船に載せてよそへ運んでしまうに至っては、土人の大部分にとっては、全く愚にもつかぬナンセンスである。
    夜、農場へ忍び入って畑を荒すこと、これが流行になった。これはロビンフッド的な義侠行為と見なされ、島民一般の喝采を博した。もちろん、商会側も黙ってはいない。犯人を捕えるとすぐに商会内の私設監獄にぶち込んだばかりでなく、この事件を逆用し、独逸領事と結んでラウペパ王に迫り、賠償を取るのはもちろん、さらに脅迫によって勝手な税法(白人、ことに独人に有利な)に署名させるに至った。王を始め島民たちは、この圧迫に堪えられなくなった。彼らは英国に縋ろうとした。そして全く莫迦莫迦しいことに、王、副王以下各大酋長の決議で「サモア支配権を英国に委ねたい」旨を申し出そうとしたのだ。虎に代うるに狼をもってしようとするこの相談は、しかし、すぐに独逸側に洩れた。激怒した独逸商会と独逸領事とは、直ちにラウペパをムリヌウの王宮から逐い、代りに、従来の副王タマセセを立てようとした。一説には、タマセセが独逸領事と結んで、王を裏切ったのだとも云われる。とにかく英米二国は独逸の方針に反対した。紛争が続き、結局、独逸は(ビスマルク流のやり方だ)軍艦五隻をアピアに入港させ、その威嚇(いかく)の下にクー・デ・タを敢行した。タマセセは王となり、ラウペパは南方の山地深く逃れた。島民は新王に不服だったが、諸所の暴動も独逸軍艦の砲火の前に沈黙しなければならなかった。
    独兵の追跡を逃れて森から森へと身を隠していた前王ラウペパのもとに、ある夜、彼の腹心の一酋長から使いが来た。「明朝中に貴下が独逸の陣営に出頭しなければ、さらに大きな災禍がこの島に起るであろう」云々。意志の弱い男ではあったが、なお、この島の貴族にふさわしい一片の道義心を失ってはいなかたラウペパは、すぐに自己犠牲を覚悟した。その夜のうちに彼はアピアの街に出て、ひそかに前の副王候補者であったマターファに会見し、これに後事を託した。ラウペパは、ほんのしばらくの間、独艦に乗ってどこかへ連れ去らねばならぬ。ただし、艦上においては前王として出来る限り厚遇すると、独逸艦長が保証していることを、マターファは附け加えた。ラウペパは信じなかった。彼は覚悟していた。自分は二度とサモアの地を踏めまいと。彼は全サモア人への訣別の辞を認めて、マターファに渡した。二人は涙のうちに別れ、ラウペパは独逸領事館に出頭した。その午後、彼は独艦ピスマルク号に載せられ、何処へともなく立ち去った。彼の訣別の辞は悲しいものであった。
    「・・・・・・・・・・・・わが島々と、わが全サモア人への愛のために、余は独逸政府の前にみずからを投げ出す。彼らは、その欲するままに余を遇するであろう。余は、貴きサモアの血が、我ゆえに再び流されることを望まぬ。しかし、余の犯したいかなる罪が、彼ら皮膚白き者をして、(余に対し、また、余の国土に対し)かくも憤らしめたか、余にはいまだにそれが解らぬのだ。・・・・・・」最後に彼は、サモアの各地方の名前を感傷的に呼びかけている。「マノノよ、さらば、ツツイラよ。アアナよ。サファライよ・・・・・・」島民はこれを読んで皆涙を流した。
    スティヴンスンがこの島に定住するよりも三年前の出来事である。

    新王タマセセに対する島民の反感は烈しかった。衆望はマターファに集まっていた。一揆が相継いで起り、マターファは自分の知らぬ間に、自然推戴の形で、叛軍の首領になっていた。新王を擁立する独逸と、これに対立する英米(彼らは別にマターファに好意を寄せていたわけではないが、独逸に対する対抗上、ことごとに新王に楯ついた)との軋轢も次第に激化して来た。一八八八年の秋ごろから、マターファは公然兵を集めて山嶽密林帯に立て籠った。独逸の軍艦は沿岸を回航して叛軍の部落に大砲をぶち込んだ。英米がこれに抗議し、三国の関係は、かなり危ないところまで行った。マターファはたびたび王の軍を破り、ムリヌウから王を追うてアピアの東方ラウリイの地に包囲した。タマセセ王救援のために上陸した独艦の陸戦隊はファンガリイの峡谷でマターファ軍のために惨敗した。多数の独逸兵が戦死し、島民は欣んだというよりもむしろみずから驚いてしまった。今まで半神(セミ・ゴッド)のごとく見えた白人が、彼ら褐色の英雄によってたおされたのだから。タマセセ王は海上に逃亡し、独逸の支持する政府は完全に潰えた。
    憤激した独逸領事は、軍艦を用いて島全体にすこぶる過激な手段を加えようとした。再び、英米、ことに米国が正面からこれに反対し、各国はそれぞれ軍艦をアピアに急航させて、事態はさらに緊迫した。一八八九年の三月アピア湾内には、米艦二隻英艦一隻が独艦三隻と対峙し、市の背後の森林にはマターファの率いる叛軍が虎視眈々と機を窺っていた。まさに一触即発のこの時、天は絶妙なる劇作家的手腕を揮って人々を驚かせた。かの歴史的な大惨禍、一八八九年の大颶風(ハリケーン)が襲来したのである。想像を絶した大暴風雨がまる一昼夜続いた後、前日の夕方まで碇泊していた六隻の軍艦のうち、大破損を受けながらもとにかく水面に浮かんでいたのは、わずかに一隻に過ぎなかった。もはや、敵も味方もなくなり、白人も土人も一団となって復旧作業に忙しく働いた。市の背後の密林に潜んでいた叛軍の連中までが、街や海岸に出て来て、死体の収容や負傷者の看護に当った。今は独逸人も彼らを捕えようとはしなかった。この惨禍は、対立した感情の上に意外な融和をもたらした。
    この年、遠くベルリンで、サモアに関する三国の協定が成立した。その結果、サモアは依然名目上の王を戴き、英・米・独三国人から成る政務委員会がこれを扶けるという形式となった。この委員会の上に立つべき政務長官と、全サモアの司法権を握るべきチーフ・ジャスティ(裁判所長)と、この二人の最高官吏は欧州から派遣されることとなり、また、爾後、王の選出には政務委員会の賛成が絶対必要と定められた。
    同じ年(一八八九年)の暮、二年前に独艦上に姿を消して以来まるで消息の知れなかった前々王ラウペパが、ひょっこり憔悴した姿で戻って来た。サモアから豪州へ、豪州から独領西南アフリカへ、アフリカから独逸本国へ、独逸からまたミクロネシアへと、盥廻しに監禁護送されて来たのである。しかし、彼の帰って来たのは、傀儡の王として再び立てられるためであった。
    もし王の選出が必要とあれば、順序から云っても、人物や人望から云っても、当然マターファが選ばるべきだった。が、彼の剣には、ファンガリイの峡谷における独逸水兵の血潮がしぬられている。独逸人は皆マターファの選出には絶対反対であった。マターファ自身も別に強いて急ごうとしなかった。いずれ順が廻って来ると楽観的にも考えてもいたし、また、二年前涙とともに別れた・そして今やつれ果てて帰って来た老先輩への同情もあった。ラウペパの方はラウペパで、始めは、実力上の第一人者たるマターファに譲るつもりでいた。元々意志の弱い男が二年にわたる流浪の間に、絶えざる不安と恐怖とのために、すっかり覇気を失ってしまったからである。
    こうした二人の友情を無理やりに歪めてしまったのが、白人たちの策動と熱烈な島民の党派心とである。政務委員会の指図で否応なしにラウペパが即位させられてから一月も経たないうちに、(まだ仲の良かった二人が大変驚いたことに)王とマターファの間の不和の噂が伝えられ出した。二人は気まずく思い、そして、また実際、奇妙な、いたましいコースをとって、二人の間の関係は本当に気まずいものになって行ったのである。

    この島に来た最初から、スティヴンスンは、ここにいる白人たちの・土人の扱い方に、腹が立ってたまらなかった。サモアにとって禍なことに、彼ら白人はことごとく―政務長官から島巡り商人に到至るまで―金儲けのためにのみ来ているのだ。これは、英・米・独、の区別はなかった。彼らのうち誰一人として(ごく少数の牧師を除けば)この島と、島の人々とを愛するがためにここに留まっているという者がないのだ。スティヴンスンは初め呆れ、それから腹を立てた。植民地常識から考えれば、これは、呆れる方がよっぽどおかしいのかも知れないが、彼はむきになって、はるかロンドン・タイムズに寄稿し、島のこの状態を訴えた。白人の横暴、倣岸、無恥。土人の惨めさ、等々。しかし、この公開状は、冷笑をもって酬いられたに過ぎなかった。大小説家の驚くべき政治的無恥、云々。「ダウニング街の俗物ども」の軽蔑者たるスティヴンスンのこととて(かつで大宰相グラッドストーンが「宝島」の初版を求めて古本屋を漁っていると聞いた時も、彼は真実、虚栄心をくすぐられるどことでなく、何か莫迦莫迦しいような不愉快さを感じていた)政治的実際に疎いのは事実だったが、植民政策も土着の人間を愛することから始めよ、という自分の考えが間違っているとは、どうしても思えなかった。この島における白人の生活と政策に対する彼の非難は、アピアの白人たち(英国人を含めて)と彼との間に、次第に溝を作って行った。
    スティヴンスンは、故郷スコットランドの高地族(ハイランダア)の氏族(クラン)制度に愛着をもっていた。サモアの族長制度もこれに似たところがある。彼は始めてマターファに会った時、その堂々たる体軀と、威厳ある風貌ろに、真に族長らしい魅力を見出した。
    マターファはアピアの西、七マイルのマリエに住んでいる。彼は形の上の王ではなかったが、公認の王たるラウペパに比べて、より多くの人望と、より多くの部下と、より多くの王者らしさとを有っていた。彼は、白人委員会の擁立する現在の政府に対して、かつて一度も反抗的な態度を執ったことがない。白人官吏がみずから納税を怠っている時でも、彼だけはちゃんと納めたし、部下の犯罪があればいつでもおとなくし裁判所長(チーフ・ジャステイス)の召喚に応じた。にもかかわらず、いつの間にか、彼は現政府の一大敵国と見なされ、恐れられ、憚られ、憎まれるようになっていた。彼がひそかに弾薬を集めているなどと政府に密告する者も出て来た。王の改選を要求する島民の声が政府を脅かしていたことは事実だが、マターファ自身は一度も、まだ、そんな要求をしたことはない。彼は敬虔なクリスチャンであった。独身で、今は六十歳に近いが、二十年来、「主のこの世に生き給いしごとく」生きようと誓って(婦人に関することについて言っているのだ)、それを実行して来た、とみずから言っていた。夜ごと、島の各地方から来た語り手を灯の下に集めて円座を作らせ、彼らから、古い伝説や古譚詩の類を聞くのが、彼のただ一つの楽しみであった。



    一八八九一年九月×日
    近ごろ島中に怪しい噂が行われている。「ヴァイシンガノの河水が紅く染まった。」「アピア湾で、捕れた怪魚の腹に不吉な文字が書かれていた。」「顔のない蜥蜴が酋長会議の壁を走った。」「夜ごと、アポリマ水道の上空で、雲の中から物凄い喊声が聞える。ウポル島の神々と、サヴァイイ島の神々とが戦っているのだ。」…………土人たちはこれをもって、来たるべき戦争の前兆と真面目に考えている。彼らは、マターファがいつかは立ち上がって、ラウペパと、白人たちの政府(マロ)とを倒すであろうと期待しているのだ。無理もない。全く今の政府(マロ)はひどい。莫大な(少なくともポリネシアにしては)給料を貪りながら、何一つ―全く完全に何一つ―しないでノラクラしている役人どもばかりだ。裁判所長(チーフ・ジャステイス)ツェダルクランツも個人としては厭な男ではないが、役人としては全く無能だ。政務長官のフォン・ピルザッハに至っては、ことごとに島民の感情を害ってばかりいる。税ばかり取り立てて、道路一つ作らぬ。着任以来、土民に官を授けたことが一度もない。アピアの街に対しても、王に対しても、島に対しても、一文の金も出さぬ。彼らは、自分らがサモアにいること、また、サモア人というものがあり、やはり目と耳と若干の知能とを有っているのだということを忘れている。政務長官のなした唯一のこと、それは、自分のために堂々たる官邸を建てることを提案し、すでにそれに着手していることだ。しかも、ラウペパ王の住居は、その官邸のすぐ向いの、島でも中流以下の、みずぼらしい建物(小屋)なのである。
    先月の政府の人件費の内訳を見よ。

                裁判所長(チーフ・ジャステイス)の棒給………五〇〇ドル
                政務長官゛……………………………………・……………四一五ドル
                警察長官(瑞典(スウェーデン)人)゛………………………一四〇ドル
                裁判所長秘書官゛……………………………………………一〇〇ドル
                サモア王ラウペパ゛……………………………………………九五ドル

    一斑して全豹を知るべし。これが新政府下のサモアなのだ。
    植民政策について何一つ知りもせぬ文士のくせに、出しゃばって、無知な土人に安っぽい同情を寄せるR・L・S・氏は、婉然ドン・キホーテの観があるそうな。これは、アピアの一英人の言葉である。あの奇矯な擬人の博大な人間愛に比べられた光栄を、まず、感謝しよう。実際、私は政治について何も知らないし、また、知らないことを誇りともしている。植民地、あるいは、半植民地において、何が常識になっているか、をも知らぬ。たとえ、知っていたとしても、私は文学者だから、心から納得が行かない限り、そんな常識をもって行為の基準とするわけには行かない。
    本当に、直接に、心に沁みて感じられるもの、それのみが私を、(あるいは芸術家を)行為まで動かし得るのだ。ところで、今の私にとって、その「直接に感じられるもの」とは何か、といえば、それは、「私がもはや一旅行者の好奇の眼をもってでなく、一居住者の愛着をもって、この島と、島の人々とを愛し始めた」ということである。
    とにかく、目前の危機の感じられる内乱と、また、それを誘発すべき白人との圧迫とを、何とかして防がねばならぬ。しかも、こうした事柄における私の無力さ!私は、まだ選挙権さえ有っていない。アピアの要人たちと会って話して見るのだが、彼らは私を真面目に扱っていないように思われる。辛抱して私の話を聞いてくれるも、実は、文学者としての私の名声に対してのことに過ぎない。私が立ち去ったあとでは、きっと舌でも出しているに相違ない。
    自分の無力感が、いたく私を噛む。この愚劣と不正と貪欲とが日一日と烈しくなって行くのを見ながら、それに対して何事をもなし得ないとは!

    九月××日
    マノノでまた新しい事件が起った。全く、こんなに騒動ばかり起す島はない。小さな島のくせに、全サモアの紛争の七割は、ここから発生する。マノノのマターファ側の青年どもが、ラウペパ側の者の家を襲って焼き払ったのだ。島は大混乱に陥った。ちょうど、裁判所長(チーフ・ジャステイス)が官費でフィジーに大名旅行中だったので、長官のピルザッハがみずからマノノへ赴き、独りで上陸して(この男も感心に勇気だけはあると見える)暴徒に説いた。そして犯人らにみずからアピアに出頭するよう命じた。犯人たちは男らしくみずからアピアへ出て来た。彼らは六ヶ月禁錮の宣告を受け、すぐ牢に繫がれることになった。彼らに附き添って一緒に来た、他の剽悍なマノノ人らは、犯人たちが街を通って牢へ連れて行かれる途中で、大声に呼びかけた。「いずれ助け出してやるぞ!」実弾の銃を担った三十人の兵に囲まれて進んで行く囚人らは、「それには及ばぬ。大丈夫だ。」と答えた。それで話は終ったわけだが、一般には、近いうちに救助破獄が行われるだろうと固く信じられている。監獄では厳重な警戒が張られた。日夜の心配に堪えられなくなった守衛長(若い瑞典人)は、ついに、乱暴極まる措置を思いついた。ダイナマイトを牢の下に仕掛け、襲撃を受けた場合、暴徒も囚人もどもに爆破してしまったらどうだろうと。彼は政務長官にこれを話して賛成を得た。それで碇泊中のアメリカ軍艦へ行ってダイナマイトを貰おうとしたが拒絶され、やっと、難破船引揚業者(前々年の大颶風(ハリケーン)で湾内に沈没したままになっている軍艦二隻をアメリカがサモア政府に寄贈することになったので、その引揚作業のために目下アピアに来ている。)から、それを手に入れたらしい。このことが一般に洩れ、この二、三週間、流言がしきりに飛んでいる。あまり大騒ぎになりそうなので、怖くなった政府では、最近、突如囚人たちをカッターに乗せてトケラウス島へ移してしまった。おとなしく服罪している者を爆破しようというのはもちろん言語道断だが、勝手に禁錮を流罪に変更するというのも随分めちゃな話だ。こうした卑劣と臆病と破廉恥とが、野蛮に臨む文明の典型的な姿態である。白人は皆こんなことに賛成なのだ、と、土人らに思わせてはならない。
    この件についての質問書を、早速、長官あてに出したが、いまだに返事がない。

    十月×日
    長官よりの返書、ようやく来る。子供っぽい傲慢と、狡猾な言抜け。要領を得ず。直ちに、再質問書を送る。こんないざこざは大嫌いだが、土人たちがダイナマイトで吹き飛ばされるのを黙って見ているわけには行かない。
    島民はまだ静かにしている。これがいつまで続くか、私は知らぬ。白人の不人気は日ごとにに昂まるようだ。穏和な、わがヘンリ・シメレも今日、「浜(アピア)の白人は厭だ。むやみに威張ってるから。」と云った。一人の威張りくさった白人の酔漢がヘンリに向い山刀を振り上げて、「貴様の首をぶった切るぞ」と嚇しつけたのだそうだ。これが文明人のやることか?サモア人は概して慇懃で、(常に上品とはいえないにしても)穏和で、(盗癖を別として)彼ら自身の名誉観を有っており、そして、少なくともダイナマイト長官ぐらいには開化している。
    スクリプナー誌連載中の「難破船引揚業者(レッカー)」第二十三章書上げ。

    十一月××日
    東奔西走、すっかり政治屋になり果てた。喜劇?秘密会、密封書、暗夜の急ぎ路。この島の森の中を暗夜に通ると、青白い燐光が点々と地上一面に散り敷かれていて美しい。一種の菌類が発光するのだという。
    長官への質問書が署名人の一人に拒まる。その家へ出かけて行って説得、成功。俺の神経も、何と鈍く、頑強になったものだ!
    昨日、ラウペパ王を訪問す。低い、惨めな家。地方の寒村にだってこのくらいの家はいくらでもある。ちょうど向い側に、ほとんど竣工の成った政務長官官邸が聳え、王は日ごとにこの建物を仰いでおらねばならぬ。彼は白人官吏への気兼ねから、我々に会うことをあまり望まぬようだ。乏しい会談。しかし、この老人のサモア語の発音―ことに、その重母音の発音は美しい。非常に。

    十一月××日
    「難破船引揚業者(レッカー)」ようやく完成。「サモア史脚註」も進行中。現代史を書くことのむずかしさ。ことに、登場人物がことごとく自己の知人なる時、その困難は倍加す。
    先日のラウペパ王訪問は、果然、大騒ぎを惹き起す。新しい布告が出る。何人も領事の許可なくして、また、許されたる通訳者なしには、王と会見すべからず、と。聖なる傀儡(かいらい)。
    長官より会談の申し込みあり。懐柔せんとなるべし。断る。
    かくて余は公然独逸帝国に対する敵となり終れるもののごとし。いつもうちに遊びに来ていた独逸士官たちも、出帆の挨拶に来られぬ旨を言いよこした。
    政府が街の白人たちに不人気なのは面白い。いたずらに島民の感情を刺戟して、白人の生命財産を危険に曝すからだ。白人は土人より税を納めない。
    インフルエンザ猖獗。街のダンス場も閉じた。ヴァイレレ農場では七十人の人夫一時に斃る。

    十二月××日
    一昨日の午前、ココアの種子千五百、続いて午後に七百、届く。一昨日の正午から昨日の夕刻までうち中総出で、この植えつけにかかりっきり。みんな泥(どろ)まみれになり、ヴェランダは愛蘭土(アイルランド)泥炭(でいたん)沼のごとし。ココアは始めココア樹の葉で編んだ籠に蒔く。十人の土人が裏の森の小舎でこの籠を編む。四人の少年が土を掘って箱に入れヴェランダへ運ぶ。ロイドとベル(イソベル)と私とが、石や粘土塊をふるって土を籠に入れる。オースティン少年と下婢(かひ)のファアウマとがその籠に一つの種子を埋め、それをヴェランダに並べる。一同綿のごとく疲れてしまった。今朝もまだ疲れが抜けないが、郵船日も近いので、急いで「サモア史脚註」第五章を書き上げる。これは芸術品ではない。ただ、急いで書き上げて急いで読んでもらうべきもの。さもなければ無意味だ。
    政務長官辞任の噂あり。あてにはならぬ。領事連との衝突がこの噂を生んだのだろう。

    一八九二年一月×日
    雨。暴風の気味あり。戸をしめランプを点ける。感冒がなかなか抜けぬ。リュウマチも起って来た。ある老人の言葉を思い出す。「あらゆるイズムの中で最悪なのは、リュウマティズムだ。」
    この間から休養をとる意味で、曽祖父のころからのスティヴンスン家の歴史を書き始めた。大変楽しい。曽祖父と祖父と、その三人の息子(私の父も含めて)とが、相次いで、黙々と、霧深き北スコットランドの海に燈台を築き続けたその貴い姿を思う時、今さらながら私は誇りに充たされる。題は何としよう?「スティヴンスン家の人々」「スコットランド人の家」「エンジニーアの一家」「北方の燈台」「家族史」「燈台技師の家」?
    祖父が、およそ想像に絶する困難と闘ってベル・ロック暗礁岬の燈台を建てた時の詳しい記録が残っている。それを読んでいるうちに、何だか自分が(あるいは未生の我が)本当にそんな経験をしたかのような気がして来る。自分は自分が思っているほど自分ではなく、今から八十五年前北海の風波や海霧(ガス)に苦しみながら、干潮の時だけ姿を見せる・この魔の岬と、実際に戦ったことがあるのだ、と、確かにそう思えて来る。風の激しさ。水の冷たさ。艀の揺れ。海鳥の叫び。そういうものまでがありありと感じられるのだ。突然胸を灼かれるような気がした。磽确たるスコットランドの山々、ヒースの茂み。湖。朝夕聞き慣れたエディンバラ城の喇叭。ペントランド、バラヘッド、カークウォール、ラス岬、嗚呼!
    私の今いるところは、南緯三十度、西経百七十一度。スコットランドとはちょうど地球の反対側なのだ。



    「燈台技師の家」の材料をいじっているうちに、いつかスティヴンスンは、一万マイル彼方のエディンバラの美しい街を憶い出していた。朝夕の霧の中から浮かび上る丘々や、その上に屹然として聳える古城郭から、はるか聖ジャイルス教会の鐘楼にかけて崎嶇たるシルウェットが、ありありと眼の前に浮かんで来た。

    幼いころからひどく気管の弱かった少年スティヴンスンは、冬の暁ごとにいつも烈しい咳の発作に襲われて、寝ていられなかった。起き上がり、乳母のカミイに扶けられ、毛布にくるまって窓際の椅子に腰掛ける。カミイも少年と並んで掛け、咳の静まるまで、互いに黙って、じっと外を見ている。硝子戸越しに見るヘリオット通り(ロウ)はまだ夜のままで、ところどころに街燈がぼうっと滲んで見える。やがて車の軋る音がし、窓の前をすれすれに、市場行きの野菜車の馬が、白い息を吐き吐き通って行く。・・・・・・・・・・・・これがスティヴンスンの記憶に残る最初のこの都の印象だった。
    エディンバラのスティヴンスン家は、代々燈台技師として聞えていた。、小説家の曽祖父に当るトマス・スミス・スティヴンスンは北英燈台局の技師長であり、その子ロバアトもまたその職を継いで、有名なベル・ロックの燈台を建設した。ロバアトの三人の息子、アラン、デイヴィッド、トマス、もそれぞれ次々にこの職を襲った。小説家の父、トマスは、廻転燈、総光反射鏡の完成者として、当時、燈台光学の泰斗であった。彼はその兄弟と協力して、スケリヴォア、チックンスを始め、いくつかの燈台を築き、多くの港湾を修理した。彼は有能な実際的科学者で忠実な大英国の技術官で、敬虔なスコットランド教会の信徒で、かの基督教のキケロといわれるラクタンティウスの愛読者で、また、骨董と向日葵との愛好者だった。彼の息子の記すところによれば、トマス・スティヴンスンは、常に、自分の価値についてはなはだしく否定的な考えを抱き、ケルト的な憂欝をもって、絶えず死を思い無常を観じていたという。
    高貴な古都と、そこに住む宗教的な人々(彼の家族をも含めて)とを、青年期のロバアト・ルウイス・スティヴンスンは激しく嫌悪した。プレスビテリアンの中心たるこの都が、彼にはことごとく偽善の附と見えたのである。十八世紀の後半、この都にディーコン・ブロディなる男がいた。昼間は指物師をやり市会議員を勤めていたが、夜になると一変して賭博者となり、兇悪な強盗となって活躍した。大分久しい後にようやく顕われて処刑されたが、この男こそエディンバラ上流人士の象徴だと、二十歳のスティヴンスンは考えた。彼は通い慣れた教会の代りに、下町の酒場へ通い出した。息子の文学者志望宣言(父は初め息子をもエンジニーアに仕立てようと考えていたのだが)は、どうにかこれを認め得た父親も、その背教だけは許せなかった。父親の絶望と、母親の涙と、息子の憤激のうちに、親子の衝突がしばしば繰り返された。自分が破滅の淵に陥っていることを悟れないほど、まだ子供であり、しかも、父の救いの言葉を受けつけようとしないほど、成人になっている息子を見て、父親は絶望した。この絶望は、あまりに内省的な彼の上に奇妙な形となって顕われた。幾回かの争いの後、彼はもはや息子を責めようとせず、ひらすたわが身を責めた。彼は独り跪き、泣いて祈り、己の至らざるゆえに伜を神の悪人としたことをみずから激しく責め、かつ神に詫びた。息子の方では、科学者たる父がなぜこんな愚かしい所行を演ずるのか、どうしても理解できなかった。
    それに、彼は、父と論争したあとではいつも、「どうして親の前に出るとこんな子供っぽい議論しか出来なくなるのだろうか」と、自分でいやになってしまうのである。友人と話し合っている時ならば、颯爽とした(少なくとも成人の)議論の立派に出来る自分なのに、これは一体どうしたわけだろう?最も原始的なカテキズム、幼稚な奇蹟反駁論、最も子供欺しの拙劣な例をもって証明されねばならない無神論。自分の思想はこんな幼稚なものであるはずはないのに、と思うのだが、父親と向い合うと、いつも結局は、こんなことになってしまう。父親の論法が優れていて此方が負ける、というのでは毛頭ない。教義についての細緻な思索などをしたことのない父親を論破するのはきわめて容易だのに、その容易なことをやっているうちに、いつの間にか、自分の態度が我ながら厭になるほど、子供っぽいヒステリックな拗ねたものとなり、議論の内容そのものまでが、可嗤(リデイキュラス)なものになっているのだ。父に対する甘えがまだ自分の残っており、(ということは、自分がまだ本当に成人でなく)それが、「父が自分をまだ子供と視ていること」と相俟って、こうした結果をもたらすのだろうか?それとも、自分の思想が元来くだらない未熟な借物であって、それが、父の素朴な信仰と対置されてその末梢的な装飾部分を剥ぎ去られる時、その本当の姿を現わすのだろうか?そのころスティヴンスンは、父と衝突したあとで、いつも決って、この不快な疑問を有たねばならなかった。

    スティヴンスンがファニイと結婚する意志を明らかにした時、父子の間は再び嶮しいものとなった。トマス・スティヴンスン氏にとっては、ファニイが米国人であり、子持ちであり、年上であることよりも、実際はどうあろうととにかく彼女が戸籍の上で現在オスボーン夫人であることが第一の難点だったのである。我儘な一人息子は、年歯三十にして初めて自活―それもファニイとその子供まで養う決心をして、英国を飛び出した。父子の間は音信不通となった。一年の後、何千マイル隔てた海と陸の彼方で、息子が五十セントの昼食にも事欠きながら病と闘っていることを人伝てに聞いたトマス・スティヴンスン氏は、さすがに堪えられなくなって、救いの手を差しのべた。ファニイは米国から未見の舅に自分の写真を送り、書き添えて言った。「実物よりもずっとよく撮れておりますゆえ、決してこの通りとお思い下さいませぬよう。」
    スティヴンスンは妻と義子を連れて英国に帰って来た。意外なことに、トマス・スティヴンスン氏は伜の才能は明かに認めながらも、どこか伜の中に、通俗的な意味で安心の出来ないところがあるのを感じていた。この不安は伜がいくら年齢を加えても決して消えなかった。それが、今、ファニイによって、(初めは反対した結婚ではあったが)息子のために実務的な確実な支柱を得たような気がした。美しく・脆い・花のような精神を支えるべき、生気に充ちた強靭な支柱を。

    長い不和の後、一家―両親、妻、ロイドと揃ってブレイマの山荘に過した一八八一年の夏を、スティヴンスンは今でも快く思い起すことが出来る。それは、アバディーン地方特有の東北風が連日、雨と雹を伴って吹き荒む沈欝な八月であった。スティヴンスンの身体は例によって悪かった。ある日、エドモンド・ゴスが訪ねて来た。スティヴンスンより一つ年上の・この博識温厚な青年は、父のスティヴンスン氏ともよく話が合った。毎朝ゴスは朝食を済ますと、二階の病室に上って行く。スティヴンスンは寝床の上に起き上って待っている。将棋(チェス)をするのだ。「病人は午前中は、しゃべってはいけない」と医者に禁じられているので、無言の将棋である。そのうちに疲れて来ると、スティヴンスンが盤の縁を叩いて合図する。すると、ゴスなり、ファニイなりが彼を寝かせ、そして、いつでも書きたい時に寝たなりで書けるように、布団の位置をうまく、しつらえる。ディナーの時間までスティヴンスンは独りで寝たまま、休んでは書き、書いては休みする。ロイド少年の画いていたある地図から思いついた海賊冒険譚を彼は書き続けていた。ディナーの時になると、スティヴンスンは階下に下りて来る。午前中の禁が解かれているので、今度は饒舌である。夜になると、彼はその日、書き溜めた分を、みんなに読んで聞かせる。外では雨風の音が烈しく、隙間風に燭台の灯がちらちらと揺れる。一同は思い思いの姿勢で、熱心に聞きとれている。読み終ると、てんでにいろいろな註文や批評を持ち出す。一晩ごとに興味を増して来て、父親までが、「ビリー・ボーンズの箱の中の品目作製を受け持とう」と言い出した。ゴスはゴスで、また、別のことを考えながら、暗然たる気持でこの幸福そうな団欒を眺めていた。「この華やかな俊才の蝕まれた肉体は、はたしていつまでもつだろうか?今幸福そうに見えるこの父親は、一人息子に先立たれる不幸を見ないで済むだろうか。」と

    しかし、トマス・スティヴンスン氏はその不幸を見ないで済んだ。息子が最後に英国を離れる三月前に、彼はエディンバラで死んだ。



    一八九二年四月×日
    思いがけなくラウペパ王が護衛を連れて訪ねて来た。うちで昼食。老人、今日はなかなか愛想がいい。なぜ自分を訪ねてくれないんだ?などと云う。王との会見には領事連の諒解が必要だから、と私がいうと、そんなことは構わぬ、といい、また昼食をともにしたいから日時を指定せよと言う。この木曜に会食しようと約束する。
    王が帰ると間もなく、巡査の徽章のようなものを佩けた男が訪ねて来た。アピア市の巡査ではない。いわるゆ叛乱者側(マターファ側の者をアピア政府の官吏は、そう呼ぶ。)の者だ。マリエからずっと歩き通して来たのだという。マターファの手紙を持って来たのだ。私も今ではサモア語が読める。(話す方は駄目だが、)彼の自重を望んだ先日の私の書簡に対する返辞のようなもので、会いたいから来週の月曜にマリエへ来てくれという。土語の聖書を唯一の参考にして(「我誠に汝らに告ぐ」式の手紙だから、先方も驚くだろう。)承知の旨をたどたどしいサモア語でしたためる。一週間のうちに、王と、その対立者と会うわけだ。斡旋の実が挙がれば良いと思う。

    四月×日
    身体の工合あまり良からず。
    約束ゆえ、ムリヌウの、みすぼらしき王宮へ御馳走(ごちそう)になりに行く。いつもながら、すぐ向いの政務長官官邸が眼障(めざわ)りでならぬ。今日のラウペパの話は面白かった。五年前悲壮な決意をもって独逸の陣営に身を投じ、軍艦に載せられて見知らぬ土地に連れて行かれた時の話である。素朴な表現が心を打った。
    「・・・・・・・・・昼はいけないが、夜だけは甲板に上ってもいいと言われた。長い航海の後、一つの港に着いた。上陸すると、恐ろしく暑い土地で、足首を二人ずつ鉄の鎖で繋がれた囚人らが働いていた。そこには浜の真砂のように数多くの黒人がいた。・・・・・・・・・それからまた大分船に乗り、独逸も近いと言われたころ、不思議な海岸を見た。見渡す限り真白な崖が陽に輝いているのだ。三時間も経つと、それが天に消えてしまったので、さらに驚いた。・・・・・・・・・独逸に上陸してから、中に汽車というもののたくさんはいっている硝子屋根の巨きな建物の中を歩いた。それから、家みたいに窓とデッキとのある馬車に乗り、五百も部屋のある家に泊った。・・・・・・・・・独逸を離れて大分航海してから、川のような狭い海を船がゆっくり進んだ。聖書の中で聞いていた紅海だと教えられ、欣ばしい好奇心で眺めた。それから、海の上を夕陽の色が眩しく赤々と流れる時刻に、別の軍艦に乗り移らせられた。・・・・・・・・・」
    古い、美しいサモア語の発音で、ゆっくりゆっくり語られるこの話は、大変面白かった。
    王は、私がマターファの名を出す事を懼れているらしい。話好きな、人の善い老人だ。ただ、現在の自分の位置について自覚がないのである。明後日、また、是非訪ねてくれという。マターファとの会見も迫っているし、身体の工合も良くないが、とにかく承知しておく。以後、通訳は、牧師のホイットミイ氏に頼もうと思う。同氏の宅で明後日、王と落ち合うことに決める。

    四月×日
    早朝馬で街へ下り、八時ごろホイットミイ氏の家へ行く。王と約束の会見のためなり。十時まで待ったが、王は来たらず。使いが来て、王は今、政務長官と用談中にて来られぬとのこと。夜七時ごろなら来られるという。一旦家に戻り、夕刻またホイットミイ氏の家に来て、八時ごろまで待ったが、ついに来ない。無駄骨折って疲労はなはだし。長官の監視を逃れて、こっそりやって来ることさえ、弱気なラウペパ王には出来ないのだ。

    五月×日
    午前五時半出発、ファニイ、ベル、同道。通訳兼漕ぎ手として、料理人のタロロを連れて行く。七時に礁湖を漕ぎ出す。気分まだすぐれず。マリエに着き、マターファから大歓迎を受く。ただし、ファニイ、ベル、ともに余が妻と思われたらしい。タロロは通訳としては、まるでなっていない。マターファが長々としゃべるのに、この通訳は、ただ、「私は大いに驚いた。」としか訳せない。何を言っても「驚いた」の一点張り。余の言葉を先方に伝えることも同然らしい。用談進捗せず。
    カヴァ酒を飲み、アロウ・ルウトの料理を喰う。食後、マターファと散歩。余の貧弱なるサモア語の許す範囲で語り合った。婦人連のために、家の前で舞踏が行われた。
    暮れてから帰途に就く。このあたり、礁湖すこぶる浅く、ボートの底が方々にぶつかる。繊月光淡し。大分沖へ出たこと、サヴァイから帰る数隻の捕鯨ボートに追い越される。灯をつけた・十二丁櫓・四十人乗りの大型ボート。どの船でも皆漕ぎながら合唱していた。
    遅いのでうちへは帰れず。アピアのホテルに泊る。

    五月××日
    朝、雨中を馬でアピアへ。今日の通訳サレ・テーラーと待ち合わせ。午後から、またマリエへ行く。今日は陸路。七マイルずっと土砂降り。泥濘。馬の頸に達する雑草。豚小舎の柵も八ヵ所ほど飛び越す。マリエに着いた時はすでに薄暮。マリエの村には相当立派な民家がかなりある。高いドーム型の茅屋根をもち、床に小石を敷いた・四方の壁の明けっぱなしの建物だ。マターファの家もさすがに立派だ。家の中はすでに暗く、椰子殻の灯が中央に灯っていた。四人の召使が出て来て、マターファは今、礼拝堂にいるという。その方向から歌声が洩れて来た。
    やがて、主人がはいって来、我々が濡れた着物を換えてから、正式の挨拶あり。カヴァ酒が出る。列座の諸酋長に向って、マターファが余を紹介する。「アピア政府の反対を冒して、余(マターファ)を助けんがために、雨中を馳せ来たりし人物なれば、卿らは以後ツシタラと親しみ、いかなる場合にもこれに援助を惜しむべからず。」と。
    ディナー、政談、歓笑、カヴァ、―夜半まで続く。肉体的に堪えられなくなった余のために、家の一隅が囲われ、そこにベッドが作られた。五十枚の極上のマットを並べた上で独り眠る。武装した護衛兵と、他に幾人かの夜警が、徹宵家の周囲に就いている。日没から日の出まで彼らは無交代である。
    暁方の四時ごろ、眼が覚めた。細々と、柔らかに、笛の音が外の闇から響いて来る。快い音色だ。和やかに、甘く、消え入りそうな・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・。
    あとで聞くと、この笛は、毎朝きまってこの時刻に吹かれることになっているのだそうだ。家の中に眠れる者に良き夢を送らんがために。何たる優雅な贅沢!マターファの父は、「小鳥の王」といわれたくらい、小禽どもの声を愛していたそうだが、その血が彼にも伝わっているのだ。
    朝食後テーラーとともに馬を走らせて帰途に就く。乗馬靴が濡れてはけないので跣足。朝は美しく晴れたが、道は依然どろんこ。草のために腰まで濡れる。あまり駈けさせたので、テーラーは豚柵のところで二度も馬から投げ出された。黒い沼。緑のマングロオヴ。赤い蟹、蟹、蟹。街に入ると、パテ(木の小太鼓)が響き、華やかな服を着けた土人の娘たちが教会へはいって行く。今日は日曜だった。街で食事を摂ってから、帰宅。
    十六の柵を跳び越えて二十マイルの騎行(しかもその前半は豪雨の中)。六時間の政論。スケリヴォアで、ビスケットの中の穀象虫のようにちぢんでいたかつての私とは、何という相違だろう!
    マターファは美しい見事な老人だ。我々は昨夜、完全な感情の一致を見たと思う。

    五月××日
    雨、雨、雨、前の雨季の不足を補うかのように振り続く。ココアの芽も充分に水を吸っていよう。雨の屋根を叩く音が止むと、急流の水音が聞えて来る。
    「サモア史脚註」完成。もちろん、文学ではないが、公正かつ明確なる記録たることを疑わず。
    アピアでは白人たちが納税を拒んだ。政府の会計報告がはっきりしないからだ。委員会も彼らを召喚する能わず。
    最近、わが家の巨漢ラファエレが女房のファアウマに逃げられた。がっかりして、朋輩の誰彼に一々共謀の疑いをかけていたようだが、今はあきらめて新しい妻を見つけにかかっている。
    「サモア史」の完結で、いよいよ「デイヴィッド・バルフォア」に専念できる。「誘拐(キツドナツプト)」の続編だ。何度か書き出しては、途中で放棄していたが、今度こそ最後まで続け得る見込みがある。「難破船引揚業者(レッカー)」はあまりにも低調だった。(もっとも、割によく読まれているというから、不思議だが)「デイヴィッド・バルフォア」こそは「マアスタア・オヴ・パラントレエ」以来の作品となり得よう。デイヴィ青年に対する作者の愛情は、ちょっと他人には解るまい。

    五月××日
    C・J(チーフ・ジャステイス)・ツェダルクランツが訪ねて来た。どうした風の吹廻しやら。うちの者と何気ない世間話をして帰って行った。彼は、最近のタイムスの私の公開状(その中で彼をこっぴどくやっつけた)を読んでいるはず。どういう量見で来たのだろう?

    六月×日
    マターファの大饗宴に招かれているので、朝早く出発。同行者―母、ベル、タウイロ(うち料理番の母で、近在の部落の酋長夫人。母と私とベルと、三人合わせたより、もう一周り大きい・物凄い体軀をもっている。)通訳の混血児サレ・テーラー、ほか、少年二人。
    カヌーとボートとに分乗。途中でボートの方が、遠浅の礁湖の中で動かなくなってしまう。仕方がない。跣足になって岸まで歩く。約一マイル。干潟の徒歩。上からはかんかん照りつけるし、下は泥でぬるぬる滑る。シドニイから届いたばかりの私の服も、イソベルの・白い・縁とりのドレスも、さんざんの目に逢う。午過ぎ、泥だらけになって、やっとマリエに着く。母たちのカヌー組はすでに着いていた。もはや、戦闘舞踊は終り、我々は、食物献納式の途中から(といっても、たっぷり二時間はかかったが)見ることが出来ただけだった。
    家の前面の緑地の周囲に、椰子の葉や、荒布で囲われた仮小舎が並び、大きな矩形の三方に土人たちが部落別に集まっている。実にとりどりな色彩の服装だ。タパを纏った者、パッチ・ワークを纏った者、粉をふった白檀を頭につけた者、紫の花弁を頭一杯に飾った者・・・・・・・・・・・・
    中央の空地には、食物の山が次第に大きさを増して行く(白人に立てられた傀儡ではない)彼らの心から推服する真の王者へと贈られた・大小酋長からの献上品だ。役人や人夫が列をなして歌を唱いながら贈り物を次々に運び入れる。それらは一々高く振り上げて衆に示され、接収役が鄭重な儀礼的誇張をもって、品名と贈呈者とを呼び上げる。この役員は頑丈な体格の男で、全身によく油が塗り込んであるらしく、てらてらと光っている。豚の丸焼きを頭上に振り廻しながら、滝のような汗を流して叫んでいる有様は、壮観である。我々の持参したビスケットの罐とともに「アリイ・ツシタラ・オ・レ・アリイ・オ・マロ・テテレ」(物語作者酋長・大政府の酋長)と紹介される声を私は聞いた。
    我々のために特に設けられた席の間に、一人の老いたる男が、緑の葉を頭に載せて坐っている。少し暗い・けんのあるその横顔は、ダンテそっくりだ。彼は、この島特有の職業的説話者の一人、しかもその最高権威で、名をポポという。彼の傍には、息子や、同僚たちが坐っている。我々の右手、かなり離れて、マターファが坐っており、時々彼の唇が動き、手頸の数珠玉の揺れるのが見える。
    一同はカヴァを飲んだ。王が一口飲んだ時、全く驚かされたことに、ポポ父子がとてつもなく奇妙な吠え声を立てて、これを祝福した。こんな不思議な声は、まだ聞いたことがない。狼の吠え声のようだが、「ツイアトゥア万歳」の意味だそうだ。やがて食事になった。マターファが喰べ終ると、またしても奇妙な吠え声が響いた。この非公認の王の面上に、一瞬、若々しい誇りと野心の色が生動し、すぐまた消え去るのを、私は見た。ラウペパとの分離以来、始めて、ポポ父子がマターファのもとに来てツイアトゥアの名を讃(たた)えたからであろう。
    すでに食物搬入は済んだ。贈り物は順々に注意深く数えられ、記帳された。ふざけた説話者が、品名や数量を一々変な節廻しで呼び上げては、聴衆を笑わせている。「タロ芋六千箇」「焼豚三百十九頭」「大海亀三匹」・・・・・・・・・・・・
    それから、まだ見たこともない不思議な情景が現れた。突然、ポポ父子が立ち上り、長い棒を手に、食物の堆く積まれた庭へ飛び出して、奇妙な踊りを始めた。父親は腕を伸ばし棒を廻しながら舞い、息子は地に蹲まり、そのまま何ともいえない恰好で飛び跳ね、この踊りの画く円は次第に大きくなって行った。彼らのとび越えただけのものは、彼らの所有にあるのだ。中世のダンテが忽然として怪しげな情けないものに変った。この古式の(また、地方的な)儀礼は、さすがにサモア人の間にさえ笑い声を呼び起した。私の贈ったビスケットも、生きた一頭の犢も、ポポにとび越えられてしまった。が、大部分の食物は、一度己のものとなることを宣した上で、再びマターファに献上された。
    さて物語作者酋長(ル・アリイ・ツシタラ)の番が来た。彼は踊らなかったが、五羽の生きた鶏、油入り瓢箪四箇、筵四枚、タロ芋百箇、焼豚二頭、鱶一尾、及び大海亀一匹を贈られた。これは「王より大酋長への贈り物」である。これらは、合図の下に、ラヴァラヴァを褌ほども短く着けた数人の若者によって、食物群中から運び出される。彼らが食物の山の上に屈み込んだかと思うと、たちまち、あやまりなき速さをもって、命じられた品と数量とを拾い上げ、サッと、それをまた、別の離れた場所へ綺麗に積み上げる。その巧みさ!麦畑にあさる鳥の群を見るごとし。
    突然、紫の腰布を着けた壮漢が九十人ばかり現れて、我々の前に立ち停まった。と思うと、彼らの手から、それぞれ空中高く、生きた稚鶏が力一杯投げ上げられた。百羽に近い鶏が羽をばたつかせながら落ちて来ると、それを受け取って、また、空へ投げ返す。それが、幾度も繰り返される。騒音、歓声、鶏の悲鳴。振り廻し、振り上げられる逞しい銅色の腕、腕、腕、・・・・・・・・・・・・観ものとしてはいかにも面白いが、しかし一体何羽の鶏が死んだことだろう!
    家の中でマターファと用談を済ませてから、水辺へ下りて行くと、すでに貰い物の食物は舟に積み込まれてあった。乗ろうとすると、スコール襲来、再び家に戻り、半時間休んでから、五時出発、またボートとカヌーとに分乗。水の上に夜が落ち、岸の灯が美しい。みんな唱い出す。小山のごとく尨大なタウイロ夫人が素晴らしく良い声なのだ
    一驚する。その途中、またスコール。母もベルもタウイロも私も海亀も豚もタロ芋も鱶も瓢箪もみんなびしょ濡れ。ボートの底に溜った生ぬるい水に漬りながら、九時近く、やっとアピアに着く。ホテル泊り。

六月××日

    召使たちが、裏山の藪の中で骸骨を見つけたと言って騒ぐので、みんなを連れて行って見る。なるほど、骸骨には違いないが、大分、時の経ったものだ。この島の成人としては、どうも小さ過ぎるようだ。藪の・ずうっと奥の・薄暗く湿った辺なので、今まで人目につかなかったのだろう。そこらを掻き廻しているうちに、また、別の頭蓋骨(今度は頭だけ)が見つかった。私の親指二本はいるくらいの弾丸の穴があいている。二つの頭蓋骨を並べた時、召使たちは、ちょっとロマンティックな説明を見つけた。この気の毒な勇士は戦場で敵の首を取った(サモア戦士の最高の栄誉)のだが、みずからも重傷を負うていたので、味方にそれを見せることが出来ず、ここまで這っては来たが、空しく敵の首を抱いたまま死んでしまったのだろうと。(とすれば、十五年前の・ラウペパとタラヴォワとの戦いの時のことか?)ラファエレたちがすぐに骨を埋めにかかった。

    夕方六時ごろ、馬で裏の丘を下りようとした時、前面の森の上に大きな雲を見た。それは甲虫(かぶとむし)のごとき額をした・鼻の長い男の横顔をはっきり現わしていた。顔の肉に当る部分は絶妙の桃色で、帽子(大きなカラマク人の帽子)髭(ひげ)、眉毛(まゆげ)は青がかかった灰色。子供じみたこの図柄と、色の鮮明さと、そのスケールの大きさ(全く途方もない大きさ)とが、私を茫然とさせた。見ているうちに表情が変った。たしかに片眼を閉じ、顎を引く様子である。突然、鉛色の肩が前にせり出して、顔を消してしまった。
    私は他の雲々を見た。はっと思わず息をのむばかりの・壮大な・明るい・雲の巨柱の林立。そらの脚は水平線から立ち上がり、その頂きは天頂距離三十度以内にあった。何という崇高さだったろう!下の方は氷河の陰翳のごとく、上に行くにつれ、暗い藍(インデイゴオ)から曇った乳白に至るまでの微妙な色彩変化のあらゆる段階を見せている。背後の空は、すでに迫る夜のために豊かにされまた暗くされた青一色。その底に動く藍紫色の・なまめかしいばかりに深々とした艶と翳。丘は、はや日没の影を漂わせているのに、巨大な雲の頂上は、白日のごとき光に映え、火のごとく、宝石のごとき、最も華やかなやわらかい明るさをもって、世界を明るくしている。それは、想像され得るいかなる高さよりも高いところにある。下界の夜から眺める・その清浄無垢な華やかさ壮厳さは、驚異以上である。
    雲に近く、細い上弦の月が上っている。月の西の尖りのすぐ上に、月とほとんど同じ明るさに光る星を見た。黒み行く下界の森では、鳥どもの疳高い夕べの合唱。

    八時ごろ見たら、月は先刻よりも大分明るく、星は今度は月の下に廻っていた。明るさは依然同じくらい。

    七月××日
    「デイヴィッド・バルドア」ようやく快調。
    キューラソー号入港、艦長ギブソン氏と会食。
    巷間の噂によれば、R・L・S・は本島より追放さるべしと。英国領事がダウニング街に訓令を請いたる由。余の存在は島内の治安に害ありとや?余もまた偉大なる政治的人物にあらずや。

    八月××日
    昨日また、マターファの招きにより、マリエに赴く。
    通訳はヘンリ(シメレ)。会談中マターファが私をアフィオガと呼んで、ヘンリを仰天させた。今まで私はススガ(閣下に当ろうか?)と呼ばれていたのだが、アフィオガは王族の称呼である。マターファの家に一泊。
    今朝、朝食後、大灌奠式(ローヤル・カヴア)を見る。王位を象徴する古い石塊にカヴァ酒を灌ぐのだ。この島においてさえ半ば忘れられた楔形文字的典礼。老人の白髯を集めて作った兜の飾り毛を靡かせ、獣歯の頸掛をつけた・身長六フィート五インチの筋骨隆々たる赤銅色の戦士たちの正装姿は、全く圧倒的である。

    九月×日
    アピア市婦人会主催の舞踏会に出席。ファニイ、ベル、ロイド、及びハガード(例のライダー・ハガードの弟。快男児なり、)も同行。会半ばにして裁判所長(チーフジヤステイス)ツェダルクランツ現わる。数カ月前不得要領な訪問を受けて以来の対面なり。小憩後、彼と組になってカドリルを踊る。珍妙にして恐るべきカドリルよ!ハガード曰く、「奔馬の跳躍にもさも似たり」と。我ら二人の公敵が、それぞれ、尨大にして尊敬すべき二人の婦人に抱きかかえられつつ、手を組み足を蹴上げて跳ね廻る時、大法官も大作家もともに、威厳を失墜すること夥し。
    一週間前、チーフ・ジャスティスは混血児の通訳をそそのかして、私に不利な証拠を摑ませようとあせっていたし、私は私で今朝も、この男を猛烈に攻撃した第七回目の公開状をタイムスへ書いていた。
    我々は、今微笑を交しつつ、奔馬の跳躍に余念がない!

    九月××日
    「デイヴィッド・バルフォア」ようやく仕上。と同時に、作者もぐったりしてしまった。医者に診てもらうと、決って、この熱帯の気候の「温帯人を傷める」性質についての説明を聞かされる。どうも信じられない。この一年間、煩わしい政治騒ぎの中で持続的にやって来た労作のようなものは、まさか、ノルウェーでは出来まいに。とにかく、身体は疲労の極に達している。「デイヴィッド・バルフォア」については、大体満足。
    昨日の午後街へ使いにやったアリック少年が、昨夜遅く繃帯をし眼を輝かして帰って来た。マライタ部族の少年らと決闘、三、四人を傷つけて来たと。今朝、彼はうち中の英雄となっていた。彼は一本糸の胡弓を作り、みずから勝利の唄を奏で、かつ踊った。興奮している時の彼はなかなか美少年である。ニュウ・ヘブリディスから来た当座は、うちの食事が旨いとてむやみに食べ過ぎ、腹が凄くふくらんでしまって苦しんだことがあったが。

    十月×日
    朝来、胃痛劇し。阿片丁幾(チンキ)十五滴服用。この二、三日は仕事をせず。わが精神は所有者未定(アベイヤンス)の状態にあり。

    かつて私は華やかな青年だったらしい。というのは、そのころ、友人の誰もが、私の作品よりも私の性格と談話の絢爛さを買っていたようだったから。しかし、人はいつまでもエアリエルやパックでばかりはいられない。「ヴァージニバス・ピュエリスク」の思想も文体も、今では最も厭わしいものになってしまった。実際、イエールでの喀血後、すべてのものに底が見えて来たように感じた。私はもはや何事にも希望を抱かぬ。死蛙のごとくに。私は、すべてのことに、落ち着いた絶望をもってはいって行く。あたかも、海へ行く場合、私がいつも溺れることを確信して行くのと同様に。ということは、何も、自暴自棄になっているのではない。それどころか、私は、死ぬまで快活さを失わぬであろう。この確信ある絶望は、一種の愉悦でさえある。それは、意識せる・勇気ある・楽しさをもって、以後の生を支えて行くに足るもの―信念に幾いものだ。快楽も要らぬ。インスピレーションも要らぬ。義務感だけで充分やって行ける自信がある。蟻の心構えをもって、蝉の唄を歌い続け得る自信が。

                市場(いち)に  街(まち)に
                私は太鼓をとどろと鳴らす
                紅い上衣(コート)を着ていくところ
                頭上にリボンは翩翻と靡く

                新しい戦士を求めて
                私は太鼓をとどろと鳴らす
                わが伴侶(とも)は私に約束する
                生きる希望と 死ぬ勇気とを。



    満十五歳以後、書くことが彼の生活の中心であった。自分は作家となるべく生まれついている。という信念は、いつ、また、どこから生じたものか、自分では解らなかったが、とにかく十五、六歳ごろになると、すでに、それ以外の職業に従っている将来の自分を想像して見ることが不可能なまでになっていた。
    そのころから、彼は外出の時いつも一冊のノートをポケットに持ち、路上で見るもの、聞くもの、考えついたことのすべてを、すぐその場で文字に換えて見ることを練習した。そのノートにはまた彼の読んだ書物の中で「適切な表現」と思われたものがことごとく書き抜いてあった。諸家のスタイルを習得する稽古も熱心に行われた。一つの文章を読むと、それと同じ主題を種々違った作家の―あるいはハズリットの、あるいはラスキンの、あるいはサア・トマス・ブラウンの―文体でもって幾通りにも作り直して見た。こうした習練は、少年時代の数年にわたって倦まずに繰り返された。少年期をわずかに脱したこと、まだ一つの小説をも、ものしない前に、彼は、将棋の名人が将棋において有つような自信を、表現術の上に有っていた。エンジニーアの血を享けた彼は、自己の途において技術家としての誇りを早くから抱いていた。
    彼はほとんど本能的に「自分が自分が思っているほど、自分ではないこと」を知っていた。それから、「頭は間違うことはあっても、血は間違わないものであること。たとえ一見して間違ったように見えても、結局は、それが真の自己にとって最も忠実かつ賢明なコースをとらせているのであること。」「我々の中にある我々の知らないものは、我々以上に賢いのだということ」を知っていた。そうして、みずから生活の設計に際しては、その唯一の道―我々よりも賢いものの導いてくれるその唯一の途を、最も忠実、勤勉に歩むことにのみ全力を払い、他の一切はこれを棄てて顧みなかった。俗衆の嘲罵や父母の悲嘆はよそに、彼はこの生き方を、少年時代から死の瞬間に至るまで続けた。「うすっぺら」で、「不誠実で」、「好色漢」で、「自惚れや」で、「がりがりの利己主義者」で、「鼻持ちならぬ気取りや」の彼が、この書くという一筋の道においてのみは、終始一貫、修道僧のごとき敬虔な精進を怠らなかった。彼はほとんど一日としてものを書かずには過せなかった。それはもはや肉体的な習慣の一部だった。絶え間なく二十年にわかって彼の肉体をさいなんだ肺結核、神経痛、胃痛も、この習慣を改めさせることは出来なかった。肺炎と坐骨神経痛と風眼とが同時に起った時、彼は、眼に繃帯を当て、絶対安静の仰臥のまま、囁き声で「ダイナマイト党員」を口述して妻に筆記させた。
    彼は、死とあまりに近いところに常に住んでいた。咳き込んだ口を抑える手巾(ハンカチ)の中に紅いものを見出さないことは稀だったのである。死に対する覚悟についてだけは、この未熟で気障な青年も、大悟徹底した高僧と似通ったものを有っていた。平生、彼は自分の墓碑銘とすべき詩句をポケットにしのばせていた。「星影繁き空の下、静かに我を眠らしめ。楽しき生きし我ならば、楽しく今は死に行かむ。」云々。彼は、自分の死よりも、友人の死の方を、むしろ恐れた。みずからの死については、彼はこれに馴れた。というよりも、一歩進んで、死と戯れ、死と賭けをするような気持を有っていた。死の冷たい手が彼をとらえる前に、どれだけの美しい「空想と言葉との織物」を織りなすことが出来るか?これは大変豪奢な賭けのように思われた。出発時間の迫った旅人のような気持に追い立てられて、彼はひたすら書いた。そうして、実際、いくつかの美しい「空想と言葉の織物」を残した。「オララ」のごとき、「スロオン・ジャネット」のごとき、「マスタア・オヴ・バラントレエ」のごとき。「なるほど、それらの作品は美しく、魅力に富んではいるが、要するに、深味のないお話だ。スティヴンスンなんて結局通俗作家さ。」と、多くの人がそう言う。しかし、スティヴンスンの愛読者は、決して、それに答える言葉に窮しはしない。「賢明なスティヴンスンの守護天使(ジーニアス)(その導きによって彼が、作家たる彼の運命をたどったのだが)が、彼の寿命の短いであろうことを知って、(何人にとっても四十歳以前にその傑作を生むことがおそらくは不可能であろうところの・)人間剔抉の近代小説道を捨てさせ、その代わりに、この上なく魅力に富んだ怪奇な物語の構成と、その巧みな話法との習練に(これならばたとえ早世しても、少なくともいくつかの良き美しきものは残せよう)向わせたのである」と。「そして、これこそ、一年の大部分が冬である北国の植物も、ごく短い春と夏の間に大急ぎで花を咲かせ実を結ばせる・あの自然の巧みな按排の一つなのだ」と。人、あるいは云うであろう。ロシア及びフランスの、それぞれ最も卓れた最も深い短篇作家も、ともに、スティヴンスンと同年、あるいは、より若く死んでいるではないか、と。しかし彼らは、スティヴンスンがそうであったように、絶えざる病苦によって短命の予覚に脅かされ通しではなかったのである。
    小説(ロマンス)とはcircumstanceの誌だと、彼は言った。事件(インシデント)よりも、それによって生ずるいくつかの場面の効果を、彼は喜んだのである。ロマンス作家をもって任じていた彼は、(みずから意識すると、せぬとにかかわらず)自分の一生をもって、自己の作品中最大のロマンスたらしめようとしていた。(そして、実際、それはある程度まで成功したかに見える。)したがってその主人公(ヒーロー)たる自己の住む雰囲気は、常に、彼の小説における要求と同じく、詩をもったもの、ロマンス的効果に富んだものでなければならなかった。雰囲気描写の大家たる彼は、実生活において自分の行動する場面場面が、常に、彼の霊妙な描写の筆に値するほどのものでなければ我慢ならなかったのである。傍人の眼に苦々しく映ったに違いない・彼の無用の気取り(あるいはダンディズム)の正体は、まさにくここにあった。何のために酔狂にも驢馬(ろば)なんか連れて、南仏蘭西の山の中をうろつかねばならぬか?何のために、良家の息子が、よれよれの襟飾(ネクタイ)をつけ、長い赤リボンのついた古帽子をかぶって放浪者気取りする必要があるか?何だってまた、歯の浮くような・やにさがった調子で「人形は美しい玩具だが、中味は鋸屑だ」などという婦人論を弁じなければ気が済まぬのか?二十歳のスティヴンスンは、気障のかたまり、厭味な無頼漢、エディンバラ上流人士の爪弾き者だった。厳しい宗教的雰囲気の中に育てられた白面病弱の坊ちゃんが、急に、みずからの純潔を恥じ、半夜、父の邸を抜け出して紅燈の巷をさまよい歩いた。ヴィヨンを気取り、カサノヴァを気取るこの軽薄児も、しかし、ただ一筋の道を選んで、これに己の弱い身体と、短いであろう生命とを賭ける以外に、救いのないことを、よく知っていた。緑酒と脂粉の席の間からも、その道が、常に耿々と、ヤコブの沙漠で夢見た光の梯子のように高く星空まで届いているのを、彼は見た。



    一八九二年十一月××日
    郵船日とてベルとロイドから昨日から街へ行ってしまったあと、イオプは脚が痛くなり、ファアウマ(巨漢の妻は再びケロリとして夫のもとに戻って来た。)は肩に腫物が出来、ファニイは皮膚に黄斑が出来始めた。ファウマのは丹毒の懼れがあるから素人療法では駄目らしい。夕食後騎馬で医者のところへ行く。朧月夜。無風。山の方で雷鳴。森の中を急ぐと、例の茸の蒼い灯が地上に点々と光る。医者のところで明日の来診を頼んだ後、九時までビールを飲み、独逸文学を談ず。
    昨日から新しい作品の構想を立て始める。時代は一八一二年ごろ。場所はラムマムーアのハーミストン附近及びエディンバラ。題は未定。「ブラックスフィールド」?「ウィア・オヴ・ハーミストン」?

    十二月××日
    増築完成。
    本年度のyear billが廻って来る。約四千ポンド。今年はどうやら収支償えるかも知れぬ。
    夜、砲声を聞く。英艦入港せりと。街の噂では、私が近いうちに逮捕護送されることになっているらしい。
    カッスル社から「壜の悪魔」と「ファレサの浜辺」とを合わせ、「島の夜話」として出そうと言って来る。この二つはあまりに味が違い過ぎて、おかしくはないか?「声の島」と「放浪の女」とを加えてはどうかと思う。「放浪の女」を入れることには、ファニイが不服だという。

    一八九三年一月×日
    引き続いて微熱去らず。胃弱もひどい。
    「デイヴィッド・バルフォア」の校正刷、いまだに送って来ない。どうしたわけか?もう少なくとも半分は出ていなければならないはず。
    天候はひどく悪い。雨。飛沫。霧。寒さ。
    払えると思っていた増築費、半分しか払えない。どうして、うちはこんなに金がかかるのか?格別贅沢をしているとも思えないのに。ロイドと毎月頭を絞るのだが、一つ穴を埋めれば、ほかに無理が出て来る。やっとうまく行きそうな月には、英国軍艦が入港して士官らの招宴を張らねばならぬようになる。召使が多過ぎる、という人もある。傭ってある者は、そう大した人数ではないが、彼らの親類や友人が始終ごろごろしているので、正確な数は判らない。(それでも百人を多くは越さないだろう。)だが、これは仕方がない。私は族長だ、ヴァイリマ部落の酋長なのだ。大酋長は、そんな小さなことにかれこれ云うべきではない。それに実際、土人が何ほどいてもその食費は知れたものなのだから。うちの女中たちが島民の標準よりはいくらか顔立ちが良いとかで、ヴァイリマをサルタンの後宮に比べた莫迦がいる。だから金がかかるだろうと。明かに中傷の目的で言ったには違いないが、冗談も良い加減にするがいい。このサルタンは精力絶倫どころか、辛うじて生きながらえている痩せ男だ。ドン・キホーテに比べたり、ハルン・アル・ラシッドにしたり、いろんなことをいう奴らだ。今に、聖パオロになったり、カリグラになったりするかもしれぬ。また、誕生日に百人以上の客を招ぶのは贅沢だという人もある。私はそんなにたくさんの客を招んだ覚えはない。向うで勝手に来るのだ。私に、(あるいは、少なくとも私のうちの食事に)好意をもって来てくれる以上、これも仕方がないではないか。祝宴等の際に土人をも招ぶからいけない、などと言うに至っては言語道断。白人を断っても彼らを招んでやりたいぐらいだ。それらすべての費用を初めから計算に入れて、なお、結構やって行けるつもりだったのだ。何しろこんな島のこととて、贅沢はしようにも出来ないのだから。とにかく、私は昨年中に四千ポンド以上は書きまくった。それでもなお足りないのだ。サー・ウォルター・スコットを思う。突然破産し・次いで妻を失い・絶えず債鬼に責められて機械的に駄作を書き飛ばさねばならなかった・晩年のスコットを。彼には、墓場のほかに休息はなかった。
    またも戦争の噂。実に煮えきらないポリネシア的な紛争だ。燃えそうでいて燃えず、消えかかっていて、なお、くすぶっている。今度も、ツツイラの西部で酋長らの間に小競合いがあったばかりだから、大したことはなかろう。

    一月××日
    インフルエンザ流行。うち中ほとんどやられる。私の場合はよけいな喀血まで伴って。
    ヘンリ(シメレ)が実によく働いてくれる。元来サモア人はごく賤しい者でも汚物を運ぶことを嫌うのに、小酋長たるヘンリが毎日敢然と汚物のバケツを提げては蚊帳をくぐって捨てに行った。みんなが大抵良くなった今、最後に彼に感染したらしく、熱を出している。近ごろ彼のことを戯れにデイヴィ(バルフォア)と呼ぶことにしている。
    病中、また新しい作品を始めた。ベルに書き取らせる。英国に捕虜となった一仏蘭西貴族の経験を書くのだ。主人公の名がアンヌ・ド・サント・イーヴ。それを英語読みにして「セント・アイヴス」と題しようと思う。ローランドソンの「文章法」と、一八一〇年代の仏蘭西及びスコットランドの風俗習慣、ことに監獄状態についての参考書を送ってくれるよう、バクスタアとコルヴィンとに頼んでやる。「ウィア・オヴ・ハーミストン」にも「セント・アイヴス」にも、両方に必要だから。図書館のないこと。本屋との交渉に手間どること。この二つには全く閉口する。記者に追いかけられる煩わしさのさいのは良いが。

    政務長官も、裁判所長(チーフ・ジャステイス)も辞職説を伝えられながら、アピア政府の無理な政策は依然変らない。彼らは、税を無理に取り立てるために、軍隊を増強してマターファを追い払おうとしているようだ。成功するにしても、しないにしても、白人の不人気、人心の不安、この島の経済的疲弊は加わる一方である。
    政治的なことに立ち入るのは煩わしい。この方面における成功は、人格毀損以外のいかなる結果をももたらさない、とさえ思う。・・・・・・・・・・・・私の政治的関心(この島における)が減ったわけではない。ただ、長く病臥し喀血などすると、自然、政策に割く時間が制限されるので、この上にも貴重な時間をとる政治問題が少々うるさくなることがあるのだ。しかし、気の毒なマターファのことを考えると、じっとしていられないような気がする。精神的援助しか与えることの出来ない腑甲斐なさ!だが、お前に政治的権力があるとすれば、一体どうしてやりたいのだ?マターファを王にする?よろしい。そうなればサモアは立派に存続できると思っているのか?哀れな文学者よ。お前は本当にそう信じているのか?それとも、近い将来におけるサモアの衰亡を予想しながら、ただ感傷的な同情をマターファに注いでいるに過ぎないのか?最も白人的同情を。
    コルヴィンからの手紙の中に、私の書信があまりにいつも「君の黒色人及び褐色人(ブラツクス・アンド・チョコレーツ)」のことを書き過ぎる、と言って来ている。ブラックス・アンド・チョコレーツに対する関心が私の製作時間を奪い過ぎては困るという・彼の気持は解らぬことはない。しかし結局、彼(並びに他の在英の友人たち)には、私が私のブラックス・アンド・チョコレールに対して、いかに親身な気持を有っているかが本当に解っていないのだ。このことばかりでなく、他の一般についても、四年間も会わないで全然違った環境に身を置いているうちに、彼らと私との間に、越えがたい溝が出来ているのではないか?この考えは恐ろしい。親しい者が長く離れているのは良くないことだ。泣きたいほど会いたく思いながら、会った途端に、案外、双方ともあじきなくこの溝を意識しなければならぬのではないか?恐ろしいが、これは本当かも知れぬ。人は変る。刻々に。我々は何たる怪物であるか!

    二月××日                                     シドニイにて
    自分で自分に休暇を与え、五週間ぐらいの予定でオークランドからシドニイへ遊びに来たのだが、同行のイソベルは歯痛、ファニイは感冒、自分は感冒から肋膜炎。何のために来たのだが解らぬ。それでも当市では、プレスビテリアン教会総会と芸術倶楽部と、都合二回講演をした。写真を撮られ、像牌(メダリヨン)を作られ、街の通りを歩けば人々が振り返って私を指さし私の名をささやく。名声?変なものだ。かつて自分がそれに成り上がることを卑しんだ名士に、いつしか成り上がっているのか?滑稽な話だ。サモアでは、土人の眼からは、大邸宅に住む白人酋長。アピアの白人連にとっては、政策上の敵か味方か、いずれかだ。その方がはるかに健全な状態だ。この温帯地の・色彩褪せた幽霊然たる風景と比べる時、わがヴァイリマの森の、何という美しさ!わが・風吹く家の、何たる輝かしさ!
    この地に引退している、ニュージーランドの父、サー・ジョージ・グレイに会った。政治家嫌いの私が彼に面会を求めたのは、彼が人間であることを―マオリ族に最も博大な人間愛を注いだ人物であることを信じたからだ。会って見ると、はたして立派な老人だった。彼は実によく土人を―その微妙な生活感情に至るまで、知っている。彼は真にマオリ人の身になって、彼らのことを考えてやった。植民地総督として全く異例のことだ。彼は、マオリ人と英人との同等の政治上の権力を与え、土人代議士の選出を認めた。そのため白人移民に欣ばれず、職を辞したのである。しかし、彼のこうした努力のお陰で、ニュージーランドは今最も理想的な植民地になっているのだ。私は彼に、サモアで自分のしたこと、しようと欲したこと、その政治的自由については自分の力の及ぶところでないとするもとにかく、土人の将来の生活、その幸福のために今後も尽くそうとしていること等を語った。老人は一々共鳴し、激励してくれた。曰く、「決して絶望するものではない。私は、いかなる場合にも絶望が無用であることを真に悟るまで長生きした少数者の一人なのだ。」と。自分も大分元気になった。俗悪を知り尽くして、なお、高きものを失わない人間は、貴ばれねばらなぬ。

    木の葉一枚をとって見ても、サモアの脂ぎった盛り上がるような強い緑色と違って、ここのは、まるで生気のない・薄れかかったような色に見える。肋膜が治り次第、早く、あの・空中にいつも緑金の微粒子が光震えているような・輝かしい島へ帰りたい。文明世界の大都市の中では窒息しそうだ。騒音の煩わしさ!金属のぶつかり合う硬い機械の音の、いらだたしさ!

    四月×日
    豪州行き以来の私とファニイとの病気もようやく治った。
    この朝の快さ。空の色の美しさ、深さ、新しさ。今、大いなる沈黙は、ただ遠く太平洋の呟きによって破られるのみ。
    小旅行と引き続いて病気をしている間に、島の政治情勢はひどく急迫して来ている。政府側のマターファあるいは叛乱者側に対する挑戦的態度が目立って来た。土人の所有せる武器をすべて取り上げることになるだろうという。今や政府側の軍備が充実したに違いない。一年前と比べて、情勢はマターファに著しく不利だ。役人たち・酋長たちに会って見ても、戦争を避けようと真面目に考えている者がないのに驚かされる。白人官吏はこれを利用して自分らの支配権の拡充を考えるだけだし、土人、ことに青年どもは戦争と聞いただけで、ただもう興奮してしまう。マターファは案外落ち着いている。彼は形勢の不利を自覚していないのだ。彼も、彼の部下も、戦争を、自分らの意志を離れた一つの自然現象と考えているようだ。

ラウペパ王は、彼とマターファとの間に立とうとする私の調停を斥けた。面と向かっている時はきわめて愛想の良い男だのに、会わないでいると、すぐこうだ。彼自身の意志でないことは明らかだが。

    ポリネシア式の優柔不断が戦争を容易に起させないであろうことを唯一の頼みとして、拱手傍観しているほかはないのか?権力を有つのは善いことだ。もし、それが、それを濫用しない理性の下にある時は。

    ロイドに手伝わせながら、「退潮(エツプ・タイド」遅々として進行中。

    五月×日
    「退潮(エツプ・タイド)」に苦吟。三週間かかって、やっと二十四頁(ページ)。それも全部にわたって、もう一度書直しを要するのだ。(スコットの恐るべき速さを考えると厭になる。)第一、これは作品としてくだらぬものだ。昔は、前日書いた分を読み返して見るのが楽しかったのに。

    マターファ側の代表者が政府と交渉のため、毎日マリエからアピアに通っていると聞いて、彼らをうちへ引き取って、ここから通わせることにした。毎日往復十四マイルでは大変だから。ただし、このことによって、私は今や公然と叛乱者側の一員と認められるようになった。私への書簡は一々チーフ・ジャスティスの検閲を受けねばならぬ。
    夜、ルナンの「基督教の起源」を読む。素晴らしく面白い。

    五月××日
    郵船日だというのに、やっと十五頁分(「退潮(エツプ・タイド)」)しか送れない。もうこの仕事は厭になった。スティヴンスン家の歴史でもまた続けようか?それとも「ウィア・オヴ・ハーミストン」?「退潮(エツプ・タイド)」には全く不満だ。文章について云っても、言葉のヴェイルがあり過ぎる。もっと裸の筆が欲しい。
    収税吏に新宅の税を督促さる。郵便局へ行き、「島の夜話」六部を受け取る。挿絵を見て驚いた。挿絵画家は南洋を見たことがないのだ。

    六月××日
    消化不良と喫煙過多と、金にならぬ過労とで、全く死にそうだ。「退潮」百一頁までようやくたどりつく。一人の人物の性格がはっきり摑めない。それに近ごろは文章にまで苦労するんだから、話にならぬ。一つの文句に半時間かかる。いろいろな類似の文句をむやみに並べて見ても、なかなか気に入るのが見つからない。こんな莫迦げた苦労は、何ものをも産みはせぬ。くだらぬ蒸留だ。
    今日は朝から西風、雨、飛沫。冷え冷えした気温。ヴェランダに立っていたら、ふと、ある異常な(一見根拠のない)感情が私を通って流れた。私は文字通り、よろめいた。それから、やっと説明がついた。私は、スコットランド的な雰囲気とスコットランド的な精神や肉体の状態を見出したからだと悟った。平生のサモアとは似てもつかない・この冷え冷えした・湿っぽい・鉛色の風景が、私をいつしか、そんな状態に変えていたのだ。ハイランドの小舎。泥炭の煙。濡れた着物。ウイスキイ。鱒の躍る渦巻く小川。今ここから聞えるヴァイトゥリンガの水音までが、ハイランドの急流のそれのような気がして来る。自分は何のために故郷を飛び出して、こんなところまで流れて来たのか?胸を締めつけられるような思慕をもって遠くからそれを思いだすために、か?ひょいと、何の関係もない・妙な疑念が湧いた。自分は今まで何か良き仕事をこの地上に残したか?と。これは怪しいものだ。なぜまた私は、そんなことを知りたいと望むのか?ほんのわずかの時が経てば、私も、英国も、英語も、わが子孫の骨も、みんな記憶から消えてしまうだろうに。しかも―それでも仁言は、ほんのしばしの間でも人々の心に自分の姿を留めておきたいと考える。くだらぬ慰みだ。・・・・・・・・・・・・
    こんな暗い気持にとりつかれるのも過労と、「退潮(エツプ・タイド)」の苦しみとの結果だ。

    六月××日
    「退潮(エツプ・タイド)」は一時暗礁に乗り上げたままにしておいて、「エンジニーアの家」の祖父の章を書き上げた。
    「退潮(エツプ・タイド)」は最悪の作品にあらざるか?
    小説という文学の形式―少なくとも私の形式―が厭になって来た。
    医者に診(み)てもらうと、少し休養をとれ、と云う。執筆を止めて軽い戸外運動だけにすることだと。

十一

    医者というものを、彼は信用しなかった。医者はただ、一時的の苦痛を鎮めてくれるだけだ。医者は、患者の肉体の故障(一般人間の普通の生理状態と比較しての異常)を見出しはするが、その肉体の障害と、その患者自身の精神生活との関連とか、また、その肉体の故障が、その患者の一生の大計算の中において、どの程度の重要さに見積らるべきか、などについては、何事も知らぬのである。医者の言にのみ基いて一生の計画を変更したりするごときは、何と唾棄すべき物質主義・肉体万能主義であるか!「何はともあれ、汝の制作を始めよ。たとえ、医者が汝に一年の、あるいは一月の余生すら保証せずとも、怯れずして仕事に向い、面して、一週間になされ得る成果を見よ。我々が意義ある労作を讃うべきは完成されたる仕事においてのみではない。」
    しかし、少しの過労がすぐに応えて、倒れたり喀血したりするのには、彼も閉口した。いかに彼が医者の言を無視しようとも、こればかりはどうにもならぬ現実である。(けれども、おかしいことに、それが彼の制作を妨げるという実際的な不便を除いては、彼は、自分の病弱を、あまり不幸と感じていないらしく見えた。喀血の中にすら彼はみずから、R・L・S・式なものを見出して、いささかの満足(?)を覚えていたのである。これが、顔の醜くむくんで来る腎臓炎だったら、どんなに彼は厭がったことであろう。)
    かくて若くして自分の寿命の短いであろうことを覚悟させられた時、当然、一つの安易な将来の途が思い浮かべられた。ディレッタントをして生きること。骨身を削る制作から退いて、何か楽な生業に就き、(彼の父は相当に富裕だったのだから)知能や教養はすべて鑑賞と享受に用いること。何と美しく楽しい生き方であろう!事実、彼は鑑賞家としても第二流には堕ちない自信があった。しかし、結局、あるのっぴきならぬものが、彼をその楽しい途から、さらって行ってしまった。まさしく、彼でないあるものが。そのものが彼に宿る時、彼は、ブランコで大きく揺り上げられる子供のように、恍惚としてその勢いに身を任せるほかはない。彼は、満身に電気を孕んだような状態になり、ただ、書きに書いた。それが生命をすり減らすであろうとの懸念はどこかへ置き忘れられた。養生したとて、どれほど長く生きられようぞ。たとえ長生きしたとて、この道に生きるにあらずして、何の良きことがあろうぞ!
    さて、こうしてここに二十年。医者が、それまでは生きられまいと云った四十の歳をもはや三年も生き延びたのである。
    スティヴンスンは彼の従兄のボッブのことをいつも考える。三歳年上のこの従兄は、二十歳前後のスティヴンスンにとって、思想上趣味上の直接の教師であった。絢爛たる才気と洗練された趣味と該博な知識とを有った・端倪すべからざる才人だった。しかも彼は何をなしたか?何事をもしなかった。彼は今パリでm二十年前と同じく、依然、あらゆることを理解して、しかも何事をもなさぬ・一介のディレッタントである。名声の挙がらぬことをいうのではない。彼の精神がそこから成長せぬことをいうのだ。
    二十年前、スティヴンスンをディレッタンティズムぁら救ったデエモンは讃えられるべきでった。

    子供の時の最も親しい遊び道具だった「一ペニイなら無彩色、二ペンスなら色つき」の紙芝居(それを玩具屋で買って来て家で組み立て「アラディン」や「ロビン・フッド」や「三本指のジャック」をみずから演出して遊ぶのだが)の影響であろうか、スティヴンスンの創作はいつでも一つ一つの情景の想起から始まる。初め、一つの情景が浮かび、その雰囲気にふさわしい事件や性格が、次に浮かび上って来る。次々に何十という紙芝居の舞台面が、それらを繋ぐ物語を伴って頭の中に現われ、目前にありありと見えるそれらの一つ一つを順々に描写し続けることによって、彼の物語は誠に楽しく出来上がるのだ。薄っぺらで、無性格なR・L・S・の通俗小説と批評家のいうところのものが。他の制作方法―例えば、一つの哲学的観念を例証せんと目的の下に全体の構想を立てるとか、一つの性格の説明のために、事件を作り上げるとか、―は、彼には全然考えることも出来なかった。

    スティヴンスンにとって、路傍に見る一つの情景は、まだ何人によっても記録されざる一つの物語を語るごとくに思われた。一つの顔、一つの素振りも、同様に、知られざる物語の発掘と見えた。真夏の夜の夢の文句ではないが、それら、名と所とを有たぬものに、明確な表現を与えるのが詩人―作家だとすれば、スティヴンスンは確かに生まれながらの物語作家に違いない。一つの風景を見て、それにふさわしい事件を頭の中に組み立てることは、彼にとって、子供の時から、食欲と同じくらい強い本能だった。コリントンの(母方)の祖父のところへ行く時は、いつもその辺の森や川や水車に合いそうな物語を拵えて、ウェイヴァリ・ノヴェルス中の諸人物を縦横に活躍させたものだ。ガイ・マナリングやロブ・ロイやアンドルウ・フェアサーヴィスなどを。蒼白い、ひよわな少年のころのその癖がいまだに抜けきらない。というよりも、哀れな大小説家R・L・S・氏はこうした幼稚な空想以外に創作衝動を知らないのである。雲のように湧き起る空想的情景。万華鏡のごとき影像の乱舞。それを診たままに写し出す。(だから、あとは技巧だけの問題だ。しかもその技巧には充分自信があった。)これが、彼の・唯一無二の・この上なく楽しい制作方法であった。これには、良いも悪いもない。他に方法を知らないのだから。「何と云われようとも、俺は俺の行き方を固執して俺の物語を書くだけのことだ。人生は短い。人間は所詮 Pulvis et Umbra じゃ。何を苦しんで、牡蠣や蝙蝠どもの気に入るために、面白くもない深刻な借物の作品を書くことがあろう。俺は俺のために書く。たとえ、一人の読者がなくなろうとも、俺という最大の愛読者がある限りは。愛すべきR・L・S・氏の独断を見よ!」
    事実、作品を書き終えるや否や、彼は作者たることを止めて、その作品の愛読者になった。誰よりも熱心な愛読者に。彼は、まるで、それが他の誰か(最も好きな作家)の作品であるかのように、そして、その作品のプロットも帰結も何も知らない一人の読者として、心から楽しく読み耽るのである。それが、今度の「退潮(エツプ・タイド)」に限って、我慢にも読みつづけられなかった。才能の涸渇だろうか?肉体の衰弱による自信の減退だろうか?喘ぎながら、彼は、ほとんど習慣の力だけで、とぼとぼと稿を続けて行った。

十二

    一八九三年六月二十四日
    戦争近かるべし
    昨夜、わが家の前の道を、ラウペパ負うが面を覆み、騎乗して何用のためか、あわただしく走り過ぎた。料理人が確かにそれを見たという。
    一方、マターファはマターファで、毎朝眼を覚ますと、必ず、昨夜まではなかった新しい白人の箱(弾薬箱のこと)に取り囲まれているのを見出すという。どこから集まって来るのか、彼にも分らないのだ。
    武装兵の行進、諸酋長の来往、ようやく繁し。

    六月二十七日
    街へ下りてニュウスを聞く。流説粉々。昨夜遅く太鼓が響き、人々は武器を取ってムリヌウに馳せつけたが、何事もなかったと。今のところ、アピア市には、事なし。市参事官に尋ねたが、情報なしという。
    街から西の渡し場まで行って、マターファ側の村々の様子を見ようと、馬に騎る。ヴァイムスまで行くと、路傍の家々に人々がごたごた立ち騒いでいたが、武装はしていない。川を渡る。三百ヤードでまた、川。対岸の木陰にウィンチェスターを担った七人の歩哨がいる。近づいても、動きもしなければ声をかけもしない。目で追うたのみ。私は馬に水を飲ませ、「タロファ!」と挨拶してそこを過ぎた。歩哨隊長も「タロファ!」と応えた。これから先の村には武装兵が一杯に詰めかけている。支那人商人の住む洋館一棟あり。中立旗が門のところに翻る。ヴェランダには人々、女たちが多勢立って外を眺めている。中には銃を持った者もいた。この支那一ばかりではなく、島に住む外国人は皆自己の資財を守るに汲々としている。(チーフ・ジャスティスと政務長官とがムリヌウからティヴォリ・ホテルに避難したそうだ。)途で土民兵の一隊が銃を担い弾薬筒を帯び、生き生きした様子で行進して来るのに遇う。ヴァイムスに着く。村の広場(マラエ)には武装した男たちが充満。会議室の中にも人々が満ち、その出口のところから外を向いて、一人の演説者が大声でしゃべっている。誰の顔にも歓ばしげな昂奮がある。見知り越しの老酋長のところへ寄ったが、この前会った時とは打って変って、若々しく活気づいて見えた。少し休んで一緒にスルイを吸う。帰ろうとして外へ出た時、顔を黒く隈どり、腰布のうしろを捲き上げて臀部の入れ墨をあらわした一人の男が進み出て、妙な踊りをして見せ、小刀を空高く投げ上げて、それを見事に受け止めて見せた。野蛮で幻想的で、世紀に溢れた観ものである。以前にも少年がこんなことをするのを見たことがあるから、これはきっと戦争時の儀礼みたいなものであろう。
    家に帰ってからも、彼らの緊張した幸福げな顔が、頭の中に渦巻いている。我々の中なる古き蛮人が目覚め、種馬のごとく昂奮するのだ。しかし、私は、騒乱をよそに、じっとしておらねばならぬい。私が手出ししない方が、彼ら哀れなる人人にとって、なお、何らかの約に立ち得るかも知れぬのだ。膿がつぶれた後の後始末について、我々が多少の援助をなし得る見込みが、まだ、ほんの少しはありそうだから。
    無力な文人よ!私は心を抑え、税を納めるような気持で原稿を書き継ぐ。頭の中には、ウィンチェスターを持った戦士の姿がちらつく。戦争は確かに大きな誘惑(アントレーヌマン)だ。

    六月三十日
    ファニイとベルを連れ街へ下りる。国際倶楽部で昼食。食後マリエの方角へ行って見る。先日とは違って今日はまるで静かだ。人のいない道。人のいない家。銃も見えぬ。アピアへ帰って公安委員会に顔を出す。夕食後、舞踏会にちょっと立ち寄り、疲れて帰宅。舞踏会場で聞くところによれば「ツシタラが今度の紛争の原因を作ったのだから、彼、及び彼の家族は当然罰せらるべきだ」と、レトヌの酋長が言っている由。
    外へ出て戦に加わろうという子供じみた誘惑に勝たねばならぬ。まず家を守ること。
    アピアの白人連の中にも恐慌が起りつつある。いざといえば軍艦へ避難することになっているとか。目下、独艦二隻在港。オルランドオも近く入港のはず。

    七月四日
    この二、三日政府の軍隊(土民兵)が続々アピアに集結。赤銅色の戦士を満載して風上から入港して来るボートの群。その船首で、とんぼ返りをして景気をつける男。戦士らが舟の上から発する妙な威嚇的な喚声。太鼓の乱打。調子外れな喇叭。
    アピア市中では赤い手巾(ハンカチ)が売切れになってしまった。赤ハンカチの鉢巻が、マリエトア(ラウペパ)軍の制服なのだ。顔を黒く隈どった赤鉢巻の青年たちで、市中はごった返している。欧風の洋傘をさした少女と、異様な戦士との連れ立って行くさまは、なかなか面白い。

    七月八日
    戦はついに始まった。
    夕食後、使いが来て、負傷者らがミッション・ハウスへ運ばれて来ている旨を告げた。ファニイ、ロイドと一緒に提灯を持って騎乗。かなり冷えるが、星の多い夜。タヌンガマノノに提灯は置き、あとは星明りで下る。
    アピアの街も、私自身も、妙な昂奮の中にある。私の昂奮は、憂欝な・残忍なものであり、他の人々のは、呆然たる、あるいは、憤激せるそれである。
    臨時に当てられた仮病院は、長いがらんとした建物で、中央に手術台があり、十人の負傷者がいずれも附添人に囲まれ、部屋の隅々に横たわっていた。小柄な・眼鏡をかけた看護婦のラージュ嬢が、今日は大変頼もしく見えた。独艦の看護卒も来ていた。
    医者はまだ来ていなかった。患者の一人が冷たくなりかかっていた。それは、実に立派なサモア人で、色飽くまで黒くアラビア人風の鷲型の風貌をしていた。七人の近親者が取り囲んで、彼の手足をさすっていた。肺を射ち貫かれたらしい。独艦の軍医が大急ぎで呼びに行かれた。
    私には私の仕事があった。続いて運ばれて来るに違いない負傷者の収容のために、公会堂を使わせてもらいたいと牧師のクラーク氏が言うので、街中を走り廻って、(ごく最近、私が公安委員会に加わるようになったので)人々を叩き起し、緊急委員会を開き、公会堂を提供することに決めた。(一人の反対者あり。ついに説得す。)このことについての費用の拠出も可決。
    夜半、病院に戻る。医者は来ていた。二人の患者が死に瀕している。一人は腹部をやられた者。顔をゆがめつつ、しかし沈黙せる・いたいたしき人事不省。
    先刻の・肺を射たれた酋長は、一方の壁際で最後の天使を待つもののごとく見えた。家族らがその手足を支えていた。みな無言。突然、一人の女が、死に行く者の膝を抱いて慟哭した。慟哭の声は五秒も続いただろうか。再び、いたいたしい沈黙。
    二時過ぎ帰宅。街の噂を綜合すると、戦いは、マターファに不利だったらしい。

    七月九日
    ようやく戦の結果が明らかになった。
    昨日アピアから西に進撃を始めたラウペパ軍は、正午ごろ、マターファ軍とぶっつかった。ただし、滑稽なことに、初めは戦争どころか、両軍の将士が相擁してカヴァを酌みかわし、盛んな交驩が行われたらしい。それが、突然の不注意な一発の偽砲から、たちまち乱闘に変じ、本ものの戦争になった。夕刻になって、マターファ軍が退き、マリエ外郭の石壁に拠って昨夜一晩中防戦したが、今朝になってついに潰えた。マターファは村を焼いて、海路サヴァイイ島へ逃れたという。
    長い間この島の精神的な王者であったマターファの没落に対して、言うべき言葉を知らぬ。一年前だったら、彼はラウペパをも白人政府をも容易に一掃し得ただろうに。マターファとともに、わが褐色の友の多くが災害を受けたにちがいない。俺は彼らのために何をしたか?今後も何をなし得るか?蔑むべき気象観測者!
    昼食後、街へ。病院へ行って見たら、ウル(肺をやられた酋長の名)は、まだ不思議に生きていた。腹をやられた男はすでに死んでいた。
    斬り取られた十一の首がムリヌウに持ち込まれた。土人らの大いに驚き懼れたことに、その首の一つは、少女のであった。しかも、サヴァイイのある村のタウポウ(村を代表する美しい娘)の首だった。南海の騎士をもって任ずるサモア人の間にあって、これは許すべからざる暴行である。この首だけは、最上等の絹に包まれ、叮嚀な陳謝状とともに、早速マリエへ送り返されたそうだ。少女は父の手伝いに弾薬でも運んでいたところを射たれやものに違いない。父親の兜の飾り毛にするために自分の髪を刈ったらしく、男のような刈上げだったので、首を取られたのだともいう。しかし、何と、彼女の美にふさわしき、選ばれたる最期でありしよ!
    マターファの甥のレウアペペだけは、首と胴と両方とも運ばれた。ムリヌウの大通りでラウペパがそれを閲見し、部下の功労に謝する演説をした。
    二度目に病院に寄った時、看護婦や看護卒は一人もいず、患者の家族だけだった。患者も附添人も木枕で昼寝をしていた。軽傷の美青年がいた。二人の少女が彼をいたわり、ともに左右から彼の枕に枕しておった。他の一隅には、誰も附き添っていない一人の負傷者が、打ち捨てられ、毅然たる様子で横たわっていた。前の美青年に比べて、はるかに立派な態度と映ったが、彼の容貌は美しくはなかった。顔面構造の極微の差がもたらす何というはなはだしい相違!

    七月十日
    今日は疲れて動けない。
    さらに多くの首がムリヌウに持ち込まれたそうだ。首狩りの風をやめさせるのは容易なことではない。「これ以外のどんな方法で勇敢さを証し得るか?」また、「ダヴィッドがゴライアスを退治した時、彼は巨人の首を持ち帰らなかったか?」と彼らはいう。しかし、今度の、少女の首を取ったことだけは、全く恐縮しているようだ。
    マターファは無事にサヴァイイに迎えられたという説と、サヴァイイへの上陸を拒絶されたという説とが行われている。どちらが本当か、まだ判らない。サヴァイイに迎えられたとすれば、なお大規模の戦争が続けられよう。

    七月十二日
    確かな報道は入らず。流言のみしきりなり。ラウペパ軍はマノノへ向け進発したと。

    七月十三日
    マターファがサヴァイイを追われ、マノノに戻った由、確報あり。

    七月十七日
    最近投錨したカトゥーバ号のビックフォード艦長を訪う。彼は、マターファ鎮圧の命を受け、明朝払暁、マノノへ向けて出航すると。マターファのため、艦長の能う限りの好意を約束してんもらう。
    しかし、マターファはおめおめと降服するだろうか?彼の一統は武装解除に甘んずるだろうか?
    マノノへ激励の書信をやるすべもない。

十三

    独・英・米三国に対する敗残の一マターファでは、帰趨はあまりに明らかであった。マノノ島へ急航したビックフォード艦長は三時間の期限付きで降服を促した。マターファは投降し、同時に、追撃して来たラウペパ軍のためにマノノは焼かれ掠奪された。マターファは称号剥奪の上、はるかヤルート島へ流謫され、彼の部下の酋長十三人もそれぞれ他の島々に追放された。叛乱者側の村村への科料六千六百ポンド。ムリヌウ監獄に投ぜられた大小酋長二十七人。これがすべての結果であった。
    躍起になったスティヴンスンの奔走も無駄になった。流竄者は家族の帯同を許されず、また、何人との文通も禁ぜられた。彼らを訪ねることの出来るのは牧師だけである。スティヴンスンはマターファの書信と贈り物とをカトリックの僧に託そうとしたが、拒絶された。マターファはすべての親しい者、親しい土地と切り離され、北方の低い珊瑚島で鹹気のある水を飲んでいる。(高山渓流に富むサモアの人間は鹹水に一番閉口する。)彼はどんな罪を犯したのか?サモアの古来の習慣に従って当然要求すべき王位を、遠慮して気永に待ち過ぎたという罪を犯しただけだ。そのため、敵に乗ぜられ、喧嘩を売りつけられ、叛逆者の名を宣せられたのである。最後まで忠実にアピア政府に税金を納めていたのは彼であった。首狩り禁絶を主張する白人の説を用いて、真先にこれを部下に実行させたのは彼であった。彼は、白人をも含めた全サモア居住者の中で(とスティヴンスンは主張する。)最も嘘言を吐かない人間だ。しかも、こうした男の不幸を救うために、スティヴンスンは何一つしてやれなかった。マターファは彼をあんなに信頼していたのに。文通の手段を断たれたマターファはおそらく、スティヴンスンのことを、親切そうなことを言いながら結局何一つ実際にはしてくれない白人'(ありきたりの白人)に過ぎなかったのだと、失望しているのではないか?
    戦死者の一族の女が、戦死の場所へ行って花蓆をそこに拡げる。蝶とかその他の昆虫が来てそれにとまる。一度追う。逃げる。また追う。逃げる。それでも三度目にそこへとまりに来たら、それはそこで戦死した者の魂と見なされる。女はその虫を叮嚀に捕え、家に持ち帰って祀るのである。こうした傷心の風景が随処に見られた。一方、投獄された酋長たちが毎日笞打たれているという噂もあった。こうしたことを見聞きするにつけ、スティヴンスンは、みずからを、何の役にも立たぬ文士として責めた。久しく止めていたタイムスへの公開状も再び書き始められた。肉体の衰弱と制作の不活発とに加えて、自己に対し、世界に対しての、名状しがたい憤りが、彼の日々を支配した。

十四

    一八九三年十一月×日
    いやな雨もよういの朝、巨きな雲。海の上に落ちたその巨大な藍灰色の影。朝七時だというのに、まだ灯をつけている。
    ベルはキニーネを必要とし、ロイドは腹をこわし、私は瀟洒たる小喀血。
    何か不快な朝だ。我を取り囲む錯雑せる悲惨の意識。事物そのものに内在せる悲劇が作用いて救いがたい暗さにまで私を塗り込める。
    生は常に麦酒(ビール)と九柱戯ばかりではない。しかし、私は結局、事物の究極の適正を信ずる。私が一朝眼覚めた時地獄に堕していようとも、私のこの信念は変るまい。しかも、それにもかからわず、依然としてこの生の歩みは辛い。私は私の歩み方の誤りを認め、結果の前に水目に厳粛に叩頭せねばならぬ。・・・・・・・・・・・・さもあらばあれ、Il faut cultiver son jardin. だ。憐れむべき人間どもの知恵の最後の表現がこれだ。私は再び私の・心進まぬ制作に立ち返る。「ウィア・オヴ・ハーミストン」をまた取り上げ、またもてあましているのだ。「セント・アイヴス」も遅々として進行しつつある。
    私は、自分が、今、知的生活を送る人間に通有の、一つの転換期にあるのだということを知っているがゆえに、絶望はしない。しかし、私が、私の文学の行詰りにぶっつかっているのは事実だ。「セント・アイヴス」にも自信がもてない。安っぽい小説(ロマンス)だ。
    若い時に、なぜ、着実平凡な商売を選らばかなったかと、今、ふと、そんな気がする。そういう商売にはいっていたら、今のようなスランプの時にも、立派に自分を支えて行けたろうに。
    私の技巧は私を見棄て、インスピレーションも、それから、私が永い間の英雄的努力によって習得したスタイルまでが失われたように思われる。スタイルを失った作家は惨めだ。今まで無意識に動かしていた不随意筋を一々意志をもって動かさねばならないのだから。
    しかし、一方「難破船救助者(レッカー)」の売行きが大変良いそうだ。「カトリオーナ」(デイヴィッド・バルフォアの改題)の方が不評で、あんな作品の方が売れるなどとは、皮肉だが、とにかくあまり絶望しないで二番芽生を待つことにしよう。今後私の健康が回復して、頭の方まで快くなるようなことは、到底あり得まいが。ただし、文学なるものは、考え方によれば、多少病的な分泌に違いないのだ。エマアソンに言わせれば、人の知恵はその人の有つ希望の有無多少によって計られるのだそうだから、私も希望を失わぬことにしよう。
    だが、私は、どうしても芸術家としての自分を大したものと思うことが出来ぬ。限界があまりに明らかなのだ。私は自分を単に昔風の職人と考えて来た。さて、今、その技術が低下したとあっては?今や私は、何の役にも立たぬ厄介者だ。原因はただ二つ。二十年間の刻苦と、病気とだ。この二つが、牛乳から乳精(くりいむ)をすっかり絞りつくしてしまったのだ。・・・・・・・・・・・・
    音高く、森の向うから、雨が近づいて来る。たちまち、屋根を叩く猛烈な響き。湿った大地の匂い。爽やかに、何かハイランド的な感じだ。窓から外を見れば、驟雨の水晶棒が万物の上に激しい飛沫を叩きつけている。風。風が快い涼しさを運んで来る。雨はじきに過ぎたが、まだ近処を襲っている音だけは、ザアーッと盛んに聞こえている。雨垂れの一滴が日本簾を通して私の顔にはねた。窓の前を屋根から、まだ雨水が小川のように落ちている。快し!それは私の心の中にある何かに応えるもののようである。何に?はっきりしない。沼沢地の雨の古い記憶?
    私はヴェランダに出て、雨垂れの音を聞く。何かおしゃべりがしたくなる。何を?何か、こう苛烈なことを。自分の柄にもないことを。世界は一つの誤謬であることについて、など。何ゆえの誤謬?別に仔細はない。私が作品をうまく書けないから。それからまた、大小さまざまの、あまりに多くのくだらないうるさいことが耳に入るから。だが、その、うるさい重荷の中でも、絶えず収入を得て行かねばならぬという永遠の重荷に比べるものはない。いい気持に寝ころがって、二年間も制作から離れていられるところがあったら!たとえそれが癲狂院であっても、私は行かないであろうか?

    十一月××日
    わが誕生日の祝いが、下痢のため一週間遅れて今日行われた。十五頭の仔豚の蒸焼き。百ポンドの牛肉。同量の豚肉。果物。レモネードの匂い。コーヒーの香り。クラレット・ヌガ。階上階下ともに、花・花・花。六十の馬繋ぎ場を急設する。客は百五十人も来ただろうか。三時ごろから来て、七時に帰った。海嘯(つなみ)の襲来のようだ。大酋長セウマヌが自分の称号の一つを私に贈ってくれた。

    十一月××日
    アピアへ下り、街で馬車を雇って、ファニイ、ベル、ロイドとともに堂々と監獄へ乗りつけた。マターファ部下の囚人たちにカヴァと煙草との贈り物をするために。鍍金(メッキ)鉄格子に囲まれた中で、我々は、わが政治犯たち及び刑務所長ウルムブラント氏とともにカヴァを飲んだ。酋長の一人がカヴァを飲む時、まず腕を伸ばして盃の酒を徐々に地に灌ぎ、祈祷の調子でこう言った。「神もこの宴に加わり給わんことを。この集まりの美しさよ!(ラ・タウマフア・エ・レ・アトウア・ウア・マタゴフイエ・レ・フエシラファイガ・ネイ)」ただし、我々の贈ったのは、スピット・アヴァ(カヴァ)と云われる下等品なのだが。

    近ごろ、召使どもが少々怠けるので(といっても一般のサモア人と比べれば決して怠惰とは云えまい。「サモア人は一般に走らない。ヴァイリマの使用人だけは別だが。」と言った一白人の言葉に、私は誇りを感ずる。)タロロの通訳で彼らに小言を言った。一番怠けた男の給料を半減する旨言い渡した。その男はおとなくし頷いて、てれた笑い方をした。初めてここに来たころ、召使の給料を六シリング減じたら、その男はすぐに仕事を止めた。しかし、今では、彼らは私を酋長と見なしているらしい。給金を減らされたのは、ティアという老人で、サモア料理(召使たちのための)のコックだが、実に完璧といっていいくらい見事な風貌の持主だ。昔、南海に武名を轟したサモア戦士の典型と思われる体軀と容貌だ。しかも、これが、箸にも棒にもかからない山師であろうとは!

    十二月×日
    快晴、恐ろしく暑い。監獄の酋長たちに招かれ、午後、灼けるような四マイル半を騎乗、監中の宴に赴く。先日の返礼の意味か?彼らは自分たちのウラ(深紅の種子をたくさん緒に通した頸飾り)を外して私の頸に掛けてくれ、「我ら唯一の友」と私を呼ぶ。獄中のものとしてはすこぶる自由な盛んな宴であった。花筵(タパ)十三枚、団扇三十枚、豚五頭、魚類の山、タロ芋のさらに大きな山を、土産として貰う。とても持ちきれないから、と断ると、彼らの曰く、「いや、是非、これらのものを積んでラウペパ王の家の前を通って帰って下さい。きっと、王が嫉妬をやくから。」と。私の頸に掛けたウラも元元ラウペパの欲しがっていたものだそうだ。王へのあてつけが囚人酋長らの目的の一つなのだ。贈り物の山を車に積み、紅い頸飾りを着け、馬に跨って、サーカスの行列よろしく、私はアピアの街の群集の驚嘆の中を悠々と帰った。王の家の前をも通ったが、はたして、彼が嫉妬を覚えたか、どうか。

    十二月×日
    難航の「退潮(エツプ・タイド)」やっと終る。悪作?
    近ごろ引き続いてモンテエニュの第二巻を読んでいる。かつて二十歳前に、文体習得の目的をもってこの本を読んだことがあるのだから、全く呆れたものだ。あのころ、この本の何が私に判ったろう?
    こうしたどえらい書物を読んだ後では、どんな作家も子供に見えて、読む気がしなくなる。それは事実だ。しかし、それでもなお、私は、小説が書物の中で最上(あるいは最強)のものであることを疑わない。読者にのりうつり、その魂を奪い、その血となり肉と化して完全に吸収され尽すのは、小説の他にない。他の書物にあっては、何かしら燃焼しきれずに残るものがある。私が今スランプに喘いでいるのは一つのこと、私がこの道に限りない誇りを感ずるのは他のことである。

    土人、白人の両方における不人望と、相続く紛争に対する引責とで、ついに政務長官フォン・ピルザッハが辞職した。裁判所長(チーフ・ジヤステイス)も近く辞めるはず。目下のところ彼の法廷はすでに閉じられているが、彼のポケットのみは、まだ棒給を受けるべく開かれている。彼の後任はイイダ氏と内定の由。とにかく新政務長官来任までは、昔のように、英米独領事の三頭政治だ。

    アアナの方面に暴動の起りそうな形勢がある。

十五

    マターファがヤルートへ流された後も、土民の一揆は絶えなかった。
    一八九三年の暮、かつてのサモア王タマセセの遺児が、トゥプア族を率いて兵を挙げた。小タマセセは、王及び全白人の島外排斥(あるいは殲滅を標榜して起たのだが、結局ラウペパ王麾下のサヴァイイ勢に攻められ、アアナで潰えた。叛軍に対する所罰としては、銃五十梃の没収、未納の税金徴収、二十マイルの道路工事等が課せられたに過ぎなかった。前のマターファの場合の厳罰と比べてあまりにも不公平である。父のタマセセが昔、独逸人に擁立された虚器(ロボツト)だった関係で、小タマセセには一部独逸人の支持があったからだ。スティヴンスンはまた、無益な抗議を方々に向って試みた。小タマセセに厳罰を与えよ、というのでは、もちろんない。マターファの減刑を求めたのだ。人々はもはや、スティヴンスンがマターファの名を口に出すと、笑い出すようになった。それでも彼はむきになって、本国の新聞や雑誌にサモアの事情を繰り返し繰り返し訴えた。
    今度の騒ぎにもやはり首狩りが盛んに行われた。首狩り反対論者のスティヴンスンは、早速、首を斬り取った者に対する所罰を要求した。この乱の始まる直前に、信任のチーフ・ジャスティスのイイダ氏が議会を通じて首狩り禁止令を出しているのだから、これは当然である。しかし、この所罰は実際には行われなかった。スティヴンスンは憤った。島の宗教家どもが案外首狩りについて無関心なのにも、彼は腹を立てた。目下のところサヴァイイ族は飽くまで首狩りを固執しているが、ツアマサンガ族は首の代りに耳を斬り取るだけで我慢しているのだ。かつてのマターファのごときは、部下にほとんど絶対に首を取らせなかった。努力一つでこの悪習は根絶できるのだと、彼は考えていた。

    ツェダルクランツの失政のあとを受け、今度のチーフ・ジャスティスは次第に白人や土人の間における政府の信用を回復しつつあるかに見えた。しかし、小規模の暴動や、土民間の紛争や、白人への脅迫は、一八九四年を通じて、いつも絶えることがなかった。

十六

    一八九四年二月×日
    昨夜例のごとく離れの小舎で独り仕事をしていると、ラファエレが提灯とファニイからの紙片を持ってやって来た。うちの森の中に暴民どもが多く集まっているらしいから、至急来て欲しいとの旨、書かれている。跣足でピストルを携え、ラファエレとともに下りていく。途中でファニイの上って来るのに会う。一緒に家に入り、気味の悪い一夜を明かす。タヌンガマノノの方から終始、太鼓と喊声とが聞えた。はるか下の街では月光(月は遅く出た)の下で狂乱を演じていたようだ。うちの森にも確かに土民どもが潜んでいるらしいが、不思議に騒がない。ひっそりしている方がかえって不気味だ。月の出ない前、碇泊中の独艦のサーチライトが蒼白い幅広の光芒を闇空に旋回させて、美しかった。床に就いたが頸部のリュウマチスが起ってなかなか眠れない。九度目に寝つこうとした時、怪しい呻き声が下男部屋の方から聞えた。頸を抑え、ピストルを持って下男部屋へ行く。みんなまだ起きていてスウィピ(骨牌賭博をやっている。莫迦者のミシフォロが負けて大げさな呻き声を発したのだ。
    今朝八時、太鼓の音とともに巡邏兵の土民の一隊が、左手の森から現れた。と、ヴェニア山に続く右手の森からも少数の兵が出て来た。彼らは一緒になって、うちへ、はいって来た。せいぜい五十名くらいのものだ。ビスケットとカヴァを馳走してやったら、おとなしくアピア街道の方へ行進して行った。
    莫迦げた威嚇だ。それでも領事連は昨夜一晩中眠れなかったろう。
    先日街へ行った時、見知らぬ土人から青封筒の公式の書状を渡された。脅迫状だ。白人は、王側の者と関係すべからず。彼らの贈り物をも受け取るべからず・・・・・・・・・・・・私がマターファを裏切ったとでも思っているのだろうか?

    三月×日
    「セント・アイヴス」進行中のところへ、六カ月以前に註文した参考書がようやく到着。一八一四年当時の囚人がかくも珍妙な服を着せられ、一週二回ずつ髭を剃っていたとは!すっかり書きかえねばならなくなった。
    メレディス氏より鄭重な手紙を戴く。光栄なり。「ビーチャムの生涯」は今なお南海におけるわが愛読書の一つだ。
    毎日オースティン少年のために歴史の講義をしているほか、最近、日曜学校の先生をもしている。頼まれて面白半分しているのだが、今から菓子や懸賞などで子供たちを釣(る)っている始末だから、いつまで続くか分らぬ。

    バクスタアとコルヴィンとの立案で、私の全集を出そうと、チャトオ・アンド・ウィンダス社から言って来る。スコットの四十八巻のウェイヴァリ・ノヴェルスと同じような赤色の装釘で、全二十巻、千部限定とし、私の頭文字を透かし入りにした特別の用紙を使うのだそうだ。生前に、こんな贅沢なものを出してもらうほどの作家であるか、どうかは、いささか疑問だが、友人たちの好意は全く有難い。しかし、目次を一見して、若い時分の汗顔もののエッセイだけは、どうしても削ってもらわねばならぬと思う。
    私の今の人気(?)がいつまで続くものか、私は知らない。私はいまだに大衆を信ずることが出来ない。彼らの批判は賢明なのか、愚かしいのか?混沌の中からイリアッドやエネイドを選び残した彼らは、賢いといわねばなるまい。しかも、現実の彼らが義理にも賢明といえるだろうか?正直なところ、私は彼らを信用していないのだ。しかし、それなら私は一体誰のために書く?やはり、彼らのために、彼らに読んでもらうために書くのだ。その中の優れた少数者のために、などというのは、明らかに嘘だ。少数の批評家にのみ褒められ、その代り大衆に顧みられなくなったとしたら、私は明かに不幸であろう。私は彼らを軽蔑し、しかも全身的に彼らの凭りかかっている。わがまま息子と、無知で寛容なその父親?

    ロバアト・ファガースン。ロバアト・バアンズ。ロバアト・ルウイス・スティヴンスン。ファガスンは来たるべき偉大なものを予告し、バアンズはその偉大なものをなしとげ、私はただその糟粕をなめたに過ぎぬ。スコットランドの三人のロバアトのうち、偉大なるバアンズは別として、ファガースンと私とはあまりによく似ていた。青年時代のある時期に私は(ヴィヨンの詩とともに)ファガースンの詩に惑溺していた。彼は私と同じ都に生まれ、同じように病弱で、身を持ち崩し、人に嫌われ、悩み、果ては、(これだけは違うが)癲狂院で死んで行った。そして彼の美しい詩も今ではほとんど人に忘れられているのに、彼よりもはるかに才能に乏しいR・L・S・の方はともかく今まで生きのび、豪華な全集まで出版されようというのだ。この対比が心を傷ませてならぬ。

    五月×日
    朝、胃痛ひどく、阿片丁幾(チンキ)服用。ために、咽喉が涸き、手足の痺れるような感じがしきりにする。部分的錯乱と、全体的痴呆。

    最近アピアの週刊御用新聞が盛んに私を攻撃し出した。しかも、ひどく口汚く。近ごろの私はもはや政府の敵ではないはずで、事実、新長官のシュミット氏や今度のチーフ・ジャスティスとも、かなりうまく行っているのだから、新聞を唆(そののか)しているのは領事連に違いない。彼らの越権行為を私がしばしば攻撃しているからな。今日の記事など、実に陋劣だ。初めは腹が立ったが、近ごろはむしろ光栄を覚えるくらいだ。
    「見よ。これが俺の位置だ。俺は森の中に住む一平凡人だのに、何と彼らが俺一人を目の敵にやっきとなることか!彼らが毎週繰り返して、俺には勢力がないと吹聴せねばならぬほど、俺は勢力を有っているわけだ。」

    攻撃は街からばかりではない。海を越えてはるか彼方からもやって来る。こんな離れ島にいてもなお、批評家どもの声は届くのだ。何といろいろなことを言う奴が多いことだ!おまけに、褒める者も貶す者も、ともに誤解の上に立っているのだからやりきれない。褒貶にかかわらずとにかく私の作品に完全な理解を示してくれるのは、ヘンリー・ジェイムスくらいのものだ。(しかも、彼は小説家であって、批評家ではない。)優れた個人がある雰囲気の中にあると、個人としては想像も出来ぬような集団的偏見を有つにあるものだ、ということが、こうして、狂える群より遠く離れた地位にいると、実によく解るような気がする。この地の生活のもたらした利益の一つは、ヨーロッパ文明を外部から捉われない眼で観ることを学んだ点だ。ゴスが言っているそうだ。「チャリング・クロスの周囲三マイル以内の地にのみ、文学はあり得る。サモアは健康地かも知れないが、制作には適さないところらしい。」と。ある種の文学については、これは本当かも知れぬ。が、何という狭い捉われた文学観であろう!
    今日の郵船で着いた雑誌類の評論を一わたり見ると、私の作品に対する非難は、大体、二つの立場からなされているようだ。すなわち、性格的なあるいは心理的な作品を至上と考えている人たちからと、極端な写実を喜ぶ人たちからと、である。
    性格的乃至心理的小説と誇称する作品がある。何とうるさいことだ、と私は思う。何のためにこんなに、ごたごたと性格説明や心理説明をやって見せるのだ。性格や心理は、表面に現れた行動によってのみ描くべきではないのか?少なくとも、嗜みを知る作家なら、そうするだろう。吃水の浅い船はぐらつく。氷山だって水面下に隠れた部分の方がはるかに大きいのだ。楽屋裏まで見通し舞台のような、足場を振り払わない建物のような、そんな作品は真平だ。精巧な機械ほど一見して単純に見えるものではないか。
    さて、また一方、ゾラ先生の煩瑣なる写実主義、西欧の文壇に横行すと聞く。目にうつる事物を細大洩らさず列記して、もって、自然の真実を写し得たりなるとか。その陋(ろう)や哂うべし。文学とは選択だ。作家の眼とは、選択する眼だ。絶対に現実を描くべしとや?誰か全き現実を捉え得べき。現実は革。作品は靴。靴は革より成るといえども、しかも単なる革ではないのだ。

    「筋のない小説」という不思議なものについて考えて見たが、よく解らぬ。文壇からあまりに久しく遠ざかっていたため、私にはもはや若い人たちの言葉が理解できなくなってしまったのだろうか。私一個にとっては、作品の「筋」乃至「話」は、脊椎動物における脊椎のごときものとしか思われない。「小説中における事件」への蔑視ということは、子供が無理に成人っぽく見られようとする時に示す一つの擬態ではないのか?クラリッサ・ハアロウとロビンソン・クルーソーとを比較せよ。「そりゃ、前者は芸術品で、後者は通俗も通俗、幼稚なお伽話じゃないか」と、誰でも云うに決っている。よろしい。確かに、それは真実である。私もこの意見を絶対に支持する。ただ、この言をなしたところの人が、はたして、クラリッサ・ハアロウを一度でも通読したことがあるか、どうか。また、ロビンソン・クルーソーを五回以上読んだことがないか、どうか、それがいささか疑わしいだけのことだ。
    これは非常にむずかしい問題だ。ただ云えることは、真実性と興味性とをともに完全に備えたものが、真の叙事詩だということだ。これをモツァルトの音楽に聴け!
    ロビンソン・クルーソーといえば、当然、私の「宝島」が問題になる。あの作品の価値についてはしばらくこれを措くとするも、あの作品に私が全力を注いだということを大抵の人が信じてくれないのは、不思議だ。後に「誘拐(キツドナツプト)」や「アアスタア・オヴ・バラントレエ」を書いた時と同じ真剣さで、私はあの書物を書いた。おかしいことに、あれを書いている間ずっと、私は、それが少年のための読物であることをすっかり忘れていたらしいのだ。私は今でも、私の最初の長篇たる・あの少年読物が嫌いではない。世間は解ってくれないのだ。私が子供であることを。ところで、私の中の子供を認める人たちは、今度は、私が同時に成人だということを理解してくれないのだ。
    成人、子供、ということで、もう一つ。英国の下手な小説と、仏蘭西の巧い小説について。(仏蘭西人はどうして、あんなに小説が巧いんだろう?)マダム・ボヴァリイは疑いもなく傑作だ。オリヴァ・トゥィストは、何という子供じみた家庭小説であろうか!しかも、私は思う。成人の小説を書いたフロオペエルよりも、子供の物語を残したディッケンズの方が、成人なのではないか、と。ただし、この考え方にも危険はある。かかる意味の成人は、結局何も書かぬことになりはしないか?ウィリアム・シェイクスピア氏が成長してアール・ボヴ・チャタムとなり、チャタム卿が成長して名もなき一市井人となる。(?)
    同じ言葉で、めいめい勝手な違った事柄を指したり、同じ事柄をおのおの違った、しかつめらしい言葉で表現したりして、人々は飽きずに争論を繰り返している。文明から離れていると、このことの莫迦らしさが一層はっきりして来る。心理学も認識論もまだ押し寄せて来ないこの離れ島のツシタラにとっては、リアリズムの、ロマンティシズムのと、所詮は、技巧上の問題としか思えぬ。読者を引き入れる・引き入れ方の相違だ。読者を納得させるのがリアリズム。読者を魅するものがロマンティシズム。

    七月×日
    先月来の悪性の感冒もようやく癒え、この二、三日、続けて停泊中のキューラソー号へ遊びに行っている。今朝は早く街へ下り、ロイドとともに政務長官エミイル・シュミット氏のところで朝食をよばれた。それから揃ってキューラソー号に行き、昼食も艦上で済ます。夜はフンク博士のところでビーア・アーベント。ロイドは早く帰り、私一人ホテル泊りのつもりで、遅くまで話し込んだ。さて、その帰途、すこぶる妙な経験をした。面白いから、書き留めておこう。
    ビールの後で飲んだバーガンディが大分利いたと見え、フンク氏の家を辞した時は、かなり酩酊していた。ホテルへ行くつもりで四、五十歩あるいたころまでは、「酔っているぞ。気をつけなければ」と自分で警戒する気持も多少はあったのだが、それがいつの間にか緩んで、やがて、あとは何が何やら、まるで解らなくなってしまった。気がつくと、私は黴のにおいのする暗い地面に倒れていた。土臭い風が生温く顔に吹きつけていた。その時、うっすらと眼覚めかけた私の意識に、遠方から次第に大きくなりつつ近づいて来る火の玉のように、ピシャリと飛びついたのは、―あとから考えると全く不思議だが、私は、地面に倒れていた間中、ずっと自分がエンディンバラの街にいるものと感じていたらしいのだ―「ここはアピアだぞ。エディンバラではないぞ」と考えであった。この考えが閃くと、一時ははっと気がつきかけたが、しばらくして再び意識が朦朧とし出した。ぼんやりした意識の中に妙な光景が浮かび上がって来た。往来でにわかに腹痛を催した私が、急いで傍らにあった大きな建物の門をくぐって不浄場を借りようとすると、庭を掃いていた老人の門番が、「何の用です?」と鋭く咎める。「いや、ちょっと、手洗場を。」「ああ、そんなら、よござんす。」と言って、うさんくさそうに、もう一度私の方を眺めてから再び箒を動かし始める。「いやな奴だな。何が、そんならよござんすだ。」…………それはたしかに、もうずっと昔、どこかで―これはエディンバラではない。多分カリフォルニアのある町で―実際に私の経験したことだが…………ハッと気がつく。私の倒れている鼻の先には、高い黒い塀が突っ立っている。夜更けのアピア街のこととてどこもかしこも真暗だが、この高い塀は、そこから二十ヤードばかり行くと切れていて、その向うには、どうやら薄黄色い光が流れているらしい。私はよろよろ立ち上がり、それでも傍に落ちていたヘルメット帽を拾って、その黴臭い・いやなにおいのする塀―過去の、おかしな場面を呼び起こしたのは、このにおいかも知れぬ―を伝って、光のさす方へ歩いて行った。塀は間もなく切れて、向うをのぞくと、ずっと遠くに街燈が一つ、ひどくちいさく、遠眼鏡で見たくらいに、ハッキリと見える。そこは、やや広い往来で、道の片側には、今の塀の続きが連なり、その上に覗き出した木の茂みが、下から薄い光を受けながら、ざわざわ風に鳴っている。何ということなしに、私は、その通りを少し行って左へ曲れば、ヘリオット・ロウ(自分が少年期を過したエディンバラの)のわが家に帰れるように考えていた。再びアピアということを忘れ、故郷の街にいるつもりになっていたらしい。しばらく光に向って進んで行くうちに、ひょいと、しかし今度は確かに眼が覚めた。そうだ。アピアだぞ、ここは。―すると、鋭い光に照らされた往来の白い埃や、自分の靴の汚(よご)れにもハッキリ気がついた。ここはアピア市で自分は今フンク氏の家からホテルまで歩いて行く途中で、…………と、そこで、やっと完全に私は意識を取り戻したのだ。
    大脳の組織のどこかに間隙でも出来ていたような気がする。酔っただけで倒れたのではないような気がする。
    あるいは、こんな変なことを詳しく書き留めておこうとすること自体が、すでに幾分病的なのかも知れない。

    八月×日
    医者に執筆を禁じられた。全然よすわけには行かないが、近ごろは毎朝二、三時間畑で過すことにしている。これは大変工合が良いようだ。ココア栽培で一日十ポンドも稼げれば、文学なんか他人にくれてやってもいいんだが。
    うちの畑でとれるもの―キャベツ、トマト、アスパラガス、豌豆、オレンジ、パイナップル、グースベリイ、コール・ラビ、バーバディン、等。
    「セント・アイヴス」も、そう悪い出来とは思わないが、とにかく、難航だ。目下、オルムのヒンドスタン史を読んでいるが、大変面白い。十八世紀風の忠実な非叙情的記述。
    二、三日前突然、停泊中の軍艦に出動命令が下り、沿岸を廻航してアトゥア叛民を砲撃することになった由。一昨日の午前中、ロトゥアヌウから砲声が我々を脅かした。今日も遠く殷々たる砲声が聞える。

    八月×日
    ヴァイレレ農場にて野外乗馬競技あり。身体の工合が良かったので参加した。十四マイル余り乗り廻す。愉快極まりなし。野蛮な本能への訴え。昔日の欣びの再現。十七歳に環ったようだ。「生きるとは欲望を感ずることだ。」と、草原を疾駆しながら、馬上、昂然と私は思うた。「青春のころ女体について感じたあの健全な誘惑を、あらゆる事物に感じることだ。」と。
    ところで、日中の愉快に引きかえて、夜の疲労と肉体的苦痛とは全くひどかった。久しぶりに有つことのできた楽しい一日の後だけに、この反動はすっかり私の心を暗くした。
    昔、私は、自分のしたことについて後悔したことはなかった。しなかったことについてのみ、いつも後悔を感じていた。自分の選ばなかった職業、自分のあえてしなかった(しかし確かに、する機会のあった)冒険。自分のぶつからなかった種々の経験―それらを考えることが、欲の多い私をいらいらさせたものだ。ところが、近ごろはもはや、そうした行為への純粋な欲求が次第になくなって来た。今日の昼間のような曇りのない歓びも、もう二度と訪れることがないのではないかと思う。夜、寝室に退いてから、疲労のための、しつこい咳が喘息の発作のように激しく起り、また、関節の痛みがずきずきと襲って来るについけても、いやでも、そう思わないわけに行かない。
    私は長く生き過ぎたのではないか?以前にも一度死を思うたことがある。ファニイの後を追うてカリフォルニアまで渡って来、極度の貧困と極度の衰弱とのうちに、友人や肉親との交通も一切断たれたまま・桑港(サンフランシスコ)の貧民窟の下宿に呻吟していた時のことだ。その時私はしばしば死を思うた。しかし、私はその時までに、まだ、わが生の記念碑ともいうべき作品を書いていなかった。それを書かないうちは、何としても死なれない。それは、自分を励まし自分を支えて来てくれた貴い友人たち(私は肉親よりもまず友人たちのことを考えた。)への忘恩でもある。それゆえ、私は、食事にも事欠くような日々の中で、歯を喰い縛りながら、「パヴィリヨン・オン・ザ・リンクス」を書いたのだ。自分に出来るだけの仕事を果してしまったのではないか。それが記念碑として優れたものか、どうかは別として、私は、とにかく書けるだけのものを書きつくしたのではないか。無理に、―この執拗な咳と喘鳴と、関節の疼痛と、喀血と、疲労との中で―生を引き延ばすべき理由がどこにあるのだ。病気が行為への希求を絶って以来、人生とは、私にとって、文学でしかなくなった。文学を創ること。それは、歓びでも苦しみでもなく、それは、それとより言いようのないものである。したがって、私の生活は幸福でも不幸でもなかった。私は蚕であった。蚕が、みずからの幸、不幸にかかわらず、繭を結ばずにいられないように、私は、言葉の糸をもって物語の繭を結んだだけのことだ。さて、哀れな病める蚕は、ようやく、その繭を作り終った。彼の生存には、もはや、何の目的もないのではないか。「いや、ある。」と友人の一人が言った。「変形するのだ。蛾になって、繭を喰い破って、飛び出すのだ。」これは大変結構な譬喩だ。しかし、問題は、私の精神にも肉体にも、繭を喰い破るだけの力が残っているか、どうかである。

中島敦『光と風と夢』

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