ドゥエンデの闘牛士イグナシオ・サンチェス・メヒーアスの悲劇について、同じくドゥエンデの詩人フェデリーコ・ガルシア・ロルカが次のように謳っています。
「いやだ、こんな血を見たくない! すぐさま 月が現れるように言っておくれ! 砂場の上を流れるイグナシオの血などみたくないから」
1934年8月11日、シウダ・レアル県,マンサナー レス闘牛場(今夏遂に Ernesto Mr. T は この地を訪れることができました。)でアラヤ兄弟牧場の闘牛、グラナディーノ Granadino (グラナダっ子またはザクロの花といった意味) と対戦した時に起こった悲劇の模様を詩人ガルシア・ロルカ(1898-1936)は上記のように詠いあげています。ブルラデーロ(待避壁) burladero (下記註1)にある避難用のステップ板に座り、探りのパセをしようとしたときに、大腿付け根に致命傷を負ってしまいました。イグナシオ・サンチェス・メヒーアスは、当時最先端の医療設備を備えたマドリードのサナトリウムに搬送されましたが、 2日後、つまり、1934年の今日、8月13日に亡くなりました。遺体は実家のあるセビージャに移され、義弟であり花形闘牛士であったホセ・ゴメス"ホセリート"と同じ墓に 埋葬されました。思えば1920年5月16日、トレド県のタラベラ・デ・ラ・レイナ闘牛場で急速予定を変更して、イグナシオ・サンチェス・メヒーアスとの一騎打ち闘牛 mano a mano をホセリートが興行主にかけ合い、実現させたときのことが蘇ります。そのとき、イグナシオ・サンチェス・メヒーアスの前でホセリートが闘牛の角傷、ー突きで亡くなったのです。 今回は、ドミンゴ・オルテガが 交通事故で怪我をしたため、予定にはなかったイグナシオ・サンチェス・メヒーアスが急遽代替出場し、悲劇が起きたのです。
イグナシオ・サンチェス・メヒーアスは、1891年6月11日に裕福な医者の家の息子としてセビージャで生を受けました。若い頃から何事にも体当たりで向かっていく激しい個性だったそうです。13歳のときに飛び入り参加で闘牛をやろうとしたことがありましたが、子どもすぎるので止められてしまいました。そんな少年時代のエピソードを携えたイグナシオ・サンチェス・メヒーアスは闘牛士になるべくしてなる性格を育んでいたと言えるでしょう。同世代の代表的な 闘牛士の問でも、集中力のある彼の性格は、闘牛士の申し子のように思われていました。闘牛技法においては、ほとんど影響を受けませんでしたが、義弟のホセリートの持つ自分にはない異質な価値の賞賛を惜しみませんでした。
イグナシオ・サンチェス・メヒーアスの無鉄砲な勇敢さは闘牛界において、幸運をもたらすことになりました。闘牛の前で脆いたり、トンボ返しをしたりの闘牛技が彼の人気を押し上げていったのです。彼は、闘牛と対峠する時の感覚を次のように述べています。
一一闘牛は無防備で哀れな生き物だ。闘牛を前に、最後の一瞬の形を取り始め、殺そうと立ち向かうとき、私は自分が何をしているのか分らなくなる。どのように殺しを組み立てるかという概念が消えうせてしまう。出会い頭に、闘牛を刺し抜いた時、私の作業は色褪せていく、と言ったら良いのだろうか一一生死の危険を嘲り笑うかのようなイグナシオ・サンチェス・メヒーアスの冷静さは、観衆を興奮させ、そして自身を生死を分け隔てるギリギリの狭間で、死の危険を何度も抜け切ることができたのでした。
冒険心旺盛な若者は、まずはメキシコで、後にスペインでバンデリジェーロ(銘打ち闘牛士)としてスタートし、1913年9月7日、マドリードでノビジェーロ(見習い闘牛士)としてデビューを果たしましたが、ノビジェーロとしては 成功せず、当時一世を風廃していたホセリート・ベルモンテ一団のバンデリジェーロをしていました。やがて、この屈辱にめげず、正闘牛士になる決 意を固めたました。1919年3月16日、(今は闘牛の行われていない。あの)バルセロナにおいて、アルテルナティーパ(正闘牛士になる儀式)が行われ、義弟であるホセリートがパドリーノ(父親役)、テスティーゴ(証人役)としてベルモンテが出場しました。正闘牛士としての 初年度の興行数は90を数えました。何度も生死を彷徨う角傷を負いながら7年間の引退期間(¡それにしてもスペインの闘牛士は引退しても復帰する場合が何と多いことでしょう!)の後の復帰戦で、冒頭の悲劇に見舞われてしまったのです。
メキシコ興行のこんな逸話が伝わっています。メキシコ三大闘牛士に数えられた ロドルフォ・ガオナ Rodolfo Gaona と明日試合を行うという晩餐会の席上のことでした。メキシコ人たちは、どうしてもイグナシオ・サンチェス・メヒーアスの義弟のホセリートの偉大さを甘受できず、声高々に軽蔑的なことを言う者が後を絶ちませんでした。そこでイグナシオ・サンチェス・メヒーアスは,義弟の名誉を守るために次のように宣言しました。「一一お集まりの皆様方、明日は完壁な闘牛技を駆使して、私がロドルフォ・ガオナより素晴らしい闘牛士であることをお見せしましょう。ホセリート軍団の単なる番デリジェーロでしかなかった私ですけれどもね 」 結果は, イグナシオ・サンチェス・メヒーアスの言ったとおりになりました。
イグナシオ・サンチェス・ メヒーアスは文武両道の闘牛士として、闘牛界の外においても、「27年世代」の詩人たちと交友関係を持ち、その影響から、新聞雑誌の常連寄稿者になりました。喜劇を上演したり、講演会を開いたり、本を上梓したりもするようになりました。その間セビージャ文芸クラブを経済面で支えたりもしました。このような、文化活動や交友関係から、イグナシオ・サンチェス・メヒーアスの死を悼んで書いた冒頭のガ ルシア・ロルカの詩は、広く世の中に知れ渡るようになりました。
イグナシオ・サンチェス・メヒーアスは冗談好きで、しかも、気配りのできる人だったようです。その逸話の1つをあげておきましょう。闘牛場で入場行進前の控室では、誰もが緊張の面持ちでいるものです。そのとき、イグナシオ・サンチェス・メヒーアスは快活に誰彼となく次のように述べました。「神は我々におきたい幸運を分け与え給う. そして、闘牛の角の一突きをも、ね一一(Dios reparta suerte y ... cornás"') 」 最後の cornás はアンダルシア方言で、標準スペイン語では cornada(闘牛の角 cuerno による怪我) ですが、出場前の同僚たちは感情が高ぶっているので、少しでも興奮が和らいでくれたら、というイグナシオ・サンチェス・メヒーアスの独特の思いやりでした。
「A las cinco de la tarde ... ア・ラス・シンコ・デ・ラ・タルデ・ー(午後5時に…)」.ガルシア・ロルカ の詩、「イグナシオ・サンチェス・メヒーアスを悼む歌」が発表されて以降、午後5時(闘牛開始時間)(下記註2)は、闘牛界では「死」muerte を意味するようになりました。
(註1) イグナシオ・サンチェス・メヒーアスが死に到る角傷を負った場所 burladero 「闘牛場の退避所」という語の元の動詞 burlar には「(危険などを)巧みに回避する」という意味以外に、元々「(期待を)裏切る」「だます」「からかう、嘲笑する」という意味があります。イグナシオ・サンチェス・メヒーアスは運命(¿死に神?)に burlar されたのかも知れません。
(註2) 実際の闘牛の開始時間は 午後5時とは限りません。午後6時や7時のこともあれば、午前中に開催されることもあります。闘牛観戦へ赴く場合は必ず前もって開始時間を確認しておくようにしてください。スペイン語などでお困りの方は、もちろん、Ernesto Mr. T にメール等で尋ねるのも良いでしょう。
A las cinco de la tarde
Llanto por Ignacio Sánchez MejíasIgnacio Sánchez Mejías、Manzanares の 闘牛場にて 死に到る角傷(1934年)
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