2018年7月6日金曜日

英語でも姓名の順に(村上龍原作映画 69 でも姓名の順)

日本人には英語などの外語を用いるとき無闇に自分の名を 姓・名 では無く,名・姓 の順に用いる人がかなり多くいます。


ベストセラー(且つロングセラー)の「日本人の英語」(1988)の中で著者マーク・ピーターセンは以下のように述べています。

Genji Hikaruなんて, あんまりだ

英語だからといって、人の名前を逆さまにする時代はとっくに終わっている気がする。も し,その逆のケースを考えて、たとえば
 Stagecoach, a film starring John Wayne
という英語を
 「ジョン・ウェイン」主役の『駅馬車』にすると, 日本人にはわからないから,
 「ウェイン・ジョン」主役の『駅馬車』
にしないといけない、というようなことをいう人がいると、その人がもつ文化的偏見をいくらかは感じられるであろう.。日本の科学者が Albert Einstein のことを日本語で論じるとき、皆、アルベルト・アインシュタインといい、日本語だからといって、アインシュタイン・アルベルトという人は、まずいないであろう。しかしながら、同じ科学者の中では、英語だからというので Hideyo Noguchi と、逆さまにする人が少なくなかろう。
 私は、アメリカの大学院で日本近代文学を専攻したが、皮肉なことに「ソウセキ・ナツメ」という言い方を初めて聞いたのは、日本に来てからであった。実は,そういわれても、しばらくは,誰のことをいっているかぴんとこなかった。
 またあるとき、日本語の会話の中で突然「モンザエモン・チカマツを知っていますか」ときかれたこともある。それは、私の顔がどこか気になって、ついそう言ってしまったのか、それとも、親切のつもりでわざわざ逆さまにしてくれたのか分からないが、とても不思議な感じがした。
  でも、これくらいのことを気にしていると、日本での生活ができなくなる。切ないことである。私は日本の大学生に ¨Genji Hikaru¨ とまでいわれたこともあるのである。
 アメリカのニュースでは中国人や韓国人の名前は、Mao Tse Tung (毛沢東) とか、Kim Dae Jung (金大中) といっているのであって、けっして Tse Tung Mao とか、Dae Jung Kim とはいわない。ところが、日本人の名前になると、おかしなことに Yasuhiro Nakasone とか Noboru Takeshita となってしまうのである。これは日本人自身が順序を逆さまにしてきたから、そうなっているにすぎないのである。しかし、そのために、ふつうのアメリカ人は、これが日本人のほんとうの名前だと思いこんでしまっているのである。日本の国際化のためには,このような明治時代からの考え方をこのあたりでやめてもよいような気がするが、どうであろうか。

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Ernesto Mr. T も英語だけでなくスペイン語でも何語でも本名は姓・名の順に自己紹介します。


日本人の名前マーク・ピーターセンjaponés