2014年12月26日金曜日

Pablo Sorozábal murió (1988) パブロ・ソロサバル歿


パブロ・ソロサバル(Pablo Sorozábal, 1897年9月18日-1988年12月26日)は、芸術音楽と映画音楽の両方で活躍したスペインのバスク人作曲家です。



地元 サン・セバスチャン(ドノスティア)とマドリードで学んだ後、ドイツのライプツィヒに留学、さらにベルリン高等音楽学校に学びましたが、音楽理論の教師としてはアルノルト・シェーンベルクよりもフリードリヒ・コッホに好意を寄せていました。ドイツ時代に指揮者デビューを果たし、その後も指揮台が音楽活動の中心となりました。ライプツィヒ時代の演奏会用の作品に、《バスク組曲 Suite vasca 》(1923年)、《バスクの二つの点描 Dos apuntes Vascos 》(1925年)、《バスクの主題による交響的変奏曲》(1927年)があります。ドイツ時代でおそらく最上の作品は、ハイネの詩に曲付けされた、メゾソプラノと管弦楽のための《7つのリート》(1929年)でしょう。後期作品では合唱と管弦楽のための葬送行進曲《ゲルニカ》(1966年)が目立っています。オーケストラ伴奏つきの合唱曲では、1946年の映画音楽「 Jai-Alai 」が出典の《聖母マリア様 Maite 》と、1956年の《バスクの大地よ ¡Ay, tierra vasca! 》が、バスク人の心を捉えて離さないようです。

サルスエラ《カチューシャ Katiuska 》(1931年)が最初の舞台作品で、それに続く20曲ほどのサルスエラは、確かな舞台感覚によって、抒情的な煌きと比類のない管弦楽法を組み合わせています。最も愛されているものには、「マドリード風」のコメディ《一輪の薔薇 La del manojo de rosas 》(1934年)や、大西洋岸を舞台とした「大西洋ロマンス」《港の居酒屋 La tabernera del puerto 》(1936年)があります。

ソロサバルは自由主義に共感していたため、スペイン内戦の後では孤立状態のようになり、後期のサルスエラはマドリードでは初演されなくなったか、初演されてもあまり重要でない劇場で行われました。このような後期作品に、野心作の諷刺ロマンス《道化のブラック Black, el payaso 》(1942年)や、スキーを主題としたミュージカル《 Don Manolito 》(1943年)も含まれます。ソロサバルは映画音楽も手懸けており、とりわけ有名なものにスペイン映画《汚れなき悪戯 Marcelino Pan y Vino 》(1955年)の主題歌があります。

マドリード交響楽団の指揮者としての任期は、ドミートリイ・ショスタコーヴィチの《レニングラード交響曲》の指揮を拒否したことで、1952年に突如として終わりを迎えました。音楽喜劇《 Las de Caín 》はサルスエラ座で1958年に初演されたものの、歌劇《フアン・ホセ Juan José 》は、1979年のリハーサル中に制作が延期されて以来、今なお上演されていません。

ソロサバルの1988年12月26日マドリードでの死去とともに、ロマン主義的なサルスエラの創作史も終幕を迎えました。ソロサバルの劇場での活躍と音楽的な機転は、サルスエラの歴史において誰にも劣らないものと言えます。




Pablo Sorozábal

(San Sebastián, 18 de septiembre de 1897 - Madrid, 26 de diciembre de 1988) Compositor y director de orquesta español. Estudió música en su ciudad natal gracias a la ayuda de la Sociedad de Amigos del País, que le posibilitó tomar lecciones con Alfredo Larrocha (violín) y con Manuel Cendoya (solfeo). Fue niño cantor del Orfeón Donostiarra y durante su infancia y juventud se ganó la vida tocando el violín por cafés y teatros. En 1914 ingresó en la Orquesta del Gran Casino de San Sebastián y en 1919 se trasladó a Madrid para ser violinista de la Orquesta Filarmónica de dicha ciudad, gracias al apoyo del director de orquesta Enrique Fernández Arbós.

Estudió luego en Leipzig con Stephan Krehl (contrapunto), Hans Sitt (violín) y Friedrich Koch (composición) debutando en Berlín como director de orquesta en 1923. En 1928 decidió volver a España y fijar su residencia en Madrid. Allí dirigiría la banda municipal de dicha ciudad entre 1936 y 1938 y la Orquesta Filarmónica de Madrid entre 1945 y 1952.

Como compositor, fue uno de los últimos grandes representantes de la zarzuela, en una época en la que el género empezaba a dar muestras inequívocas de agotamiento. Estrenó en Madrid, con gran éxito, la zarzuela Katiuska (1931), con libreto de Emilio González del Castillo y Manuel Martí, y alcanzó posteriormente otros éxitos en este género con obras como La tabernera del puerto, La del manojo de rosas (1934), La eterna canción (1945) y Black el payaso (1942). Compuso también para orquesta títulos como Variaciones sobre un tema popular vasco (1927) y Paso a cuatro (1956) y las óperas Adiós a la bohemia (1933), sobre textos de Pío Baroja, y Juan José.