2016年12月10日土曜日

ネクラーソフ誕生(1821) Nikolái Alexéievich Nekrásov nació

Nikolái Alexéievich Nekrásov

(Iuzvino, 10 de deiciembre de 1821-San Petersburgo, 8 de enero de 1877) Poeta ruso. Su Fisiología de San Petersburgo (1846) le hizo famoso. Fue director de las dos grandes revistas liberales de su época: El Contemporáneo y Los Anales de la Patria. Entre sus obras, en las que abogó por la liberación de los siervos, destacan Sacha (1855), Las mujeres rusas (1872-1873) y ¿Quién vive bien en Rusia? (1866-1881), su obra capital.

ニコライ・アレクセービチ・ネクラーソフは、1821年の今日、十月10日にポドーリスグの片いなかに生まれました。少年時代はボノレガ上流のヤロスラーブリで送りました。父親は横暴な貴族で、息子を幼年学校に入れることを望みましたが、ネクラーソフは1838年に上京すると無断で、ペテルブルグ大学の聴講生になりました。このため家庭からの仕送りを断たれ、極貧の学生生活を送らなければならなくなりました。19歳のとき処女詩集『夢と響き』を発表しましたが、惨たんたる失敗に終わりました。
まもなく批評家ベリンスキイに紹介され、進歩的な作家グループと交際するようになり、出版界に身を投ずるや、すぐれた実務的才能を発揮して、1846年には「同時代人」誌の共同編集者となりました。この雑誌はツルゲーネフ、トルストイなどの 新進作家を世に送り出したほか、ベリンスキイ、チェルヌイシェフスキイ、ドプロリューボフらの急進的評論家の論文を掲載しました。このため、しばしば政府の弾圧をこうむり、1861年には8か月の発行停止処分を受けたほどです。1860年代には別の雑誌「祖国雑記」の編集を引き受け、これをナロードニキ運動の拠点に仕立てあげました。
詩人ネクラーソフは何よりも民衆の苦しみの歌い手として知られています。農奴の悲惨な境遇をうたったものには『故郷』(1847)、 『大玄関脇での黙想』(1858)、『鉄道』(1864)などがあり、百姓女の忍従の境涯は『兵士の母オリーナ』、『赤鼻のモ ローズ』(2作とも1863)その他の中で見事に形象化されています。これらはいずれも農奴解放前後における虐げられた農民の実態を描いたものですが、知識人に向かつて直接的に市民としての立場を自覚するよう訴えた作品としては、『サーシャ』(1855)、『詩人と市民』(1856)があります。これらはプーシキン以来のいわゆる市民詩の伝統を受けつぐものでした。 1863年から14年かかって書かれた長詩『ロシアは誰に住みよいか』は民謡的なモチーフをもって貫かれ、ロシアの農民の心情を鮮やかに歌い上げて、「農民生活の百科事典」と賞賛されました。長詩『赤鼻のモローズ』も同じように民謡や民話の形式を取り入れた無韻詩で、ネクラーソフはこの分野で最大の成功を収めました。ネクラーソフのもう1つの代表的な作品は、長詩『ロシアの女たち』(1871-1872、別名『デカブリストの妻(たち)』)です。これはシベリアに流されたロシア最初の革命家たちのあとを追って、流刑地を訪れる妻たちを謳っています。

あの米原万理が惚れ込んだ詩人です。


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