Su padre fue Nicolás Fernández de Moratín, que estuvo en contacto con el grupo de intelectuales y literatos del Madrid de la época de Carlos III.
Fue secretario de Cabarrús. Mantuvo amistad con Jovellanos y como él, fue defensor de las ideas de la ilustración, lo que le costó algún destierro. Estuvo en Francia, Inglaterra e Italia, donde fue influenciado por los últimos movimientos teatrales.
Además de su sátira en prosa, La derrota de los pedantes (1789), sus obras teatrales más importantes son La comedia nueva o el café (1792), en la que somete a crítica al teatro dominante en su época, y El sí de las niñas (1806), obra donde critica la educación severa y poco formativa que recibían las mujeres en la época y reivindica la libertad de éstas para elegir marido, tema ya visible en El viejo y la niña, de 1790. El barón es de 1803 y La mojigata de 1804.
En 1825 se publicaron sus Obras dramáticas y líricas en París. Tienen gran importancia su ensayo sobre los Orígenes del teatro español, que se publicó póstumamente, en 1883. En 1798 tradujo el Hamlet de Shakespeare y adaptó a la escena española dos obras de Molière: La escuela de los maridos y El médico a palos.
Leandro Fernández de Moratín falleció el 21 de junio de 1828 en París y está enterrado en el cementerio de Père Lachaise, cerca de Molière, Voltaire y La Fontaine.
Leandro Fernández de Moratín レアンドロ・フェルナンデス・デ・モラティンは1760年の今日3月10日 に、同じく劇作家の Nicolás Fernández de Moratín ニコラスの長男としてスペインの首都マドリードで生を受けました。文人である父親のそばで暮らしていたことで、文学的環境には恵まれていましたが、4歳の時に酷い viruela 天然痘に罹り、顔にその痕跡が残ったためその後の人生において引っ込み思案な性格に変わったと言われています。20歳くらいの頃に、同じ建物に住んでいたサビナ・コンティという娘に恋心を抱きましたが、サビナは両親の意向によって、ずっと年上の叔父と結婚してしまいました。(やがてこの出来事を昇華させモラティンは文学史に名を残す劇を生み出しました。)
1787年、政治家でもあった作家 Jovellanos ホベリャーノスの斡旋で、特命大使カバルースの秘書としてパリに1年間滞在しました。パリではモリエールに傾倒し、少なからず影響を受けました。翌1788年、マドリードに戻ると、フロリダブランカ伯爵から経済的な支援を与えられました。後に、マヌエル・ゴドイが権力を握るや、モラティンにとってはこれが追い風となり、ゴドイから手厚い保護を受けることができました。ゴドイが宰相になった1792年から1796年までモラティンはゴドイの援助で革命最中のフランス、イギリス、ドイツ、スイス、イタリアを旅することができました。
スペインに帰国して2年ほどたった1798年には画家ゴヤと交遊します。この頃フランシスカ・ヘルトゥルーディス・ムニョースという女性と知り合い、交際を始めました。しかしモラティンは最後までフランシスカに結婚を申し込むことも無く、二人の交際はフランシスカがかなり年の離れた軍人と結婚する1807年まで続きました。(フランシスカとの関係については「日記」や「書簡」に詳しく綴られています。)
1808年、ナポレオンが兄のジョゼフをホセ1世(在位1808年-1813年)としてスペイン王に任命すると、モラティンはこの国王の側につき、1811年には王立図書館の主席司書官に任命されました。しかし、1812年にアラピレスの戦いで 英西連合軍が仏軍を破り、仏軍がマドリードを撤退すると、モラティンもバレンシア、ペニィスコラ、バルセロナを経由し て、モンペリエ、パリ、ボローニャへと移り住むこととなりました。再びバルセロナの地を踏むのは、数年後1820年になってからのことでした。しかし翌1821年にスペインでペストが流行したため、再び母国をあとにして隣国フランス(バイヨンヌ、ボルドー)に移り住むことになりました。死の1年前1827年にはパリに移り、そのまま隣国の首都で1828年6月21日に没しました。享年68。Sus restos se encuentran en el cementerio de San Justo de Madrid (↓foto).
モラティンは、晩年に隣国フランス(ボルドー)で著した「スペイン演劇の起源」からも分かるように、スペインの伝統演劇についての深い知識を持ち合わせたうえで、時代の趨勢に則り、新古典主義演劇の創作に打ち込んだのです。創作劇は、El viejo y la niña「老人と少女」 (1790年上演)、La comedia nueva o el café「新作喜劇或いはカフェ」 (1792年上演)、El barón「男爵」 (1803年上演)、El sí de las niñas「娘たちの空返事」 (1806年上演)、La mojigata「猫かぶり」 (1804年上演) の僅か5篇にすぎませんが、いずれも明確な道徳的意図と厳格な三一致の法則が縛りとなり、力強さに欠けるところはありますが、洗練された劇となっています。文体を大事にし、風刺を交えながら社会に蔓延る弊風を明らかにしようとする批判的精神のみならず、人としてのあり方や美徳をモラティンなりの技法で描いてます。詩や、当時の演劇の弊風を痛烈に風刺した La derrota de los pedantes「街学者たちの敗北」といった散文も著しています。
(レアンドロ・)フェルナンデス・デ・モラティン 『娘たちの空返事 他一篇』本日刊 El sí de las niñas (Leandro Fernández de Moratín)
Leandro Fernandez de Moratinスペインの演劇
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