人間と同じように見えていることのほうが少ないのではないでしょうか。我らが toros 闘牛達も 赤色 どころか色の判別の出来ない白黒の世界に生きているようです。
篠田 一士(しのだ はじめ、1927年(昭和2年)1月23日 - 1989年(平成元年)4月13日)は、日本の文学研究者、文芸評論家、翻訳家。33年前の今日、62歳で亡くなりました。
20世紀の刻印鮮やかな10大小説を選び、純粋な鑑賞体験から著者の文学的感性の発展の跡を 辿る「文学自伝」。
文学にも「色盲」「音痴」のような現象があるのでしょうか? ベールイの「ペテルブルグ」(川端香男里 訳)を読んでいて、そんなことを感じました。その他、嗅覚、触覚、etc.
piruetas
「恐怖の報酬」のイブ・モンタンの言葉
La barrera del idioma causa numerosas malentendidos. 言語の壁が多くの誤解を生む。(クラウン和西辞典)
「この騒ぎをよく聞いといてくださいよ:::」
「相当の騒ぎ方ですな。」
「このざわめきの音は《イー》ですがね、私には《ウィ》と聞こえるんです:::」
リッパンチェンコは附抜けしたように自分の物思いのなかにはいりこんでいた。
「《ウィ》の音には何か鈍な、頼りないものがある:::まちがってますかな?:::」
「いいや、少しもまちがいじゃない」とリッパンチェンコは答、えたが、自分の考えから引 き離されてしまった:
「《ウィ》をもっている言葉はみな、いやになるほど陳腐なんだ。《イー》はそうじゃな い。《イー・イー・イー》-----こいつは大空だ、思想だ、クリスタルだ。《イー・イー・イー》という音は私に鷲の曲ったくちばしの観念を呼び起こす。だが《ウィ》をもつ言葉は陳腐だ。たとえばだ、《ルィバ》(さかな)という一言葉だ。いいかね、ルウィ・ウィ・ウィ・バ。つまり何か冷い血がある・:それにもうひとつ、《ムウィ・ウィ・ウィ・ロ》(せっけん)---何かつるつるして頼りない。グルィブィ(かたまり)は形がはっきりしない。トウィル(うしろ)は乱暴狼籍の場所だ -・」
見知らぬ男は話を切った。リッパンチェンコは彼の前に坐っていたが、まったく形のはっきりしないかたまり(グルィブィ)だった。そして彼の口付煙草(パピローサ)から出るドウィム(けむり)はあたりの空気を石けん(ムィロ)のようにべとべとにしていた。リッパンチェンコは雲のなかにいた。見知らぬ男はそこでこの男をじっと見て考えた----「ああくそ、けがらわしい、タタールもどきめ :」彼の前には単に一種の《ウィ》の大きな文字が坐っていたのだ:
- - - -
隣りのテーブルで誰かがやたらイーの音をひびかせてしゃっくりするように叫んでいた- -
「おめえ、ウィ・ウィって言うじゃねえか:::」
- - - -
「失礼ですが、リッパンチェンコさん- - -あなたは蒙古人ですか?」
「何だってそんな妙な質問を?」
「ロシア人なら誰でも蒙古の血をもってますから。」
*ロシア認の母音は硬音と軟音という対立する2系列に分れているが、《イー》は軟音、《ウィ》は硬音である。
☝️ベールイの「ペテルブルグ」(川端香男里 訳)上 pp.66-67