2012年12月30日日曜日

文学の中の Toledo, ---リルケ Rainer Maria Rilke を翻訳, --- 堀辰雄 Hori Tatsuo の¿成長? ---


前回の Jess Willard = José Villar のところで、米国のオハイオ州トレド Toledo, Ohio, EEUU が出て来ましたが、今回登場するのは本家 auténtico スペインのトレド Toledo, España です。



『風立ちぬ』などで今でも人気の堀 辰雄(1904[明治37]1228日[一昨日です] - 1953[昭和28]528日)は、1926年に中野重治たちと同人誌『驢馬』を創刊しました。 このころは、『水族館』などのモダニズムの影響の強い作品もあります。1927年、芥川龍之介が自殺し、大きな衝撃を受けました。この頃の自身の周辺を書いた*『聖家族』で1930年文壇に登場しました。

*残念ながら、この作品『聖家族』にはガウディの Sagrada Familia は登場しません。

Hori Tatsuo was born in Tokyo, and was a graduate of Tokyo Imperial University. While still a student, he contributed translations of modern French poets to a literary journal called Roba 驢馬, which was sponsored by poet Murō Saisei 室生犀星. He regarded himself as a disciple of Akutagawa Ryūnosuke 芥川龍之介, but his early works exhibit an attraction to the proletarian literary movement as viewed by his friends Nagai Tatsuo 永井龍男and Kobayashi Hideo 小林秀雄. His later works reflect a movement towards modernism.
Hori wrote a number of novelettes and poems, which are set in atmospheric locations, such as a mountain sanatorium in Nagano Prefecture, and are characterized by the melancholic theme of death, which reflect his own ongoing battle with tuberculosis. Often plotless and impressionistic, his style was praised by Kawabata Yasunari 川端康成.
Hori wrote Yamatoji, a small sentimental collection of poetic essays about Nara and its historic sites. This was followed by Adashino, a tragic romance set in the Nara period. His beautiful descriptions of Nara and the world of the ancient capital have popularized by the tourist authorities in that city. The town of Karuizawa, Nagano prefecture, where Hori stayed during his illness, established the Hori Tatsuo Memorial Museum in his honor. His grave is at Tama Reien, a cemetery in the outskirts of Tokyo.

さて、堀辰雄でスペインと言えば、ライネル・マリア・リルケの『トレドの風景』(「リルケの手紙」)でしょう。



雑誌『三十日』第二号(1938[昭和13]21)に『リルケの手紙』として初出し、『雉子日記』(河出書房、1940[昭和15]79日)収録時に前文を附して『トレドの風景』と改題されたものです。



 一九一二年秋、リルケは一人飄然と西班牙に旅した。この西班牙への旅--殊にトレド一帶の何か不安を帶びた風物――は、詩人にはいたく氣に入つたやうに見える。彼は其處にもつと長く滯在して當時彼の心を捉へてゐた仕事(Duineser Elegien)をしたかつたであらうが、この地方の氣候のはげしい變化のために彼の健康はすつかり害せられ、翌年三月には空しく西班牙を立ち去らなければならなかつた。しかしその地方、――殊にトレドは、ドゥイノ及びヴェニスと共に、晩年のリルケの胸奧にもつとも深く鳴りひびいた三つの大きな諧調ともなつたのである。
 此のトレドがリルケの生涯にはじめて現はれたのは、おそらく一九〇八年の秋ロダンに宛てた次ぎの手紙(丁度「マルテの手記」に筆を下ろさうとしてゐた時分である)で、それもトレドの畫家エル・グレコの鬼氣を帶びた筆を通してであつた。さういふ假初の出會をも遂に空しくしなかつた點など、いかにもリルケらしいと言へるのであるまいか。

一九〇八年十月十六日、巴里ヴァレンヌ街七十七番地
ロダン樣
 私は展覽會でグレコの「トレド」の前に一時間ばかり過して歸つて參りました。この風景畫は私にはますます驚歎すべきものに思はれます。私はそれを見て來たまま、あなた樣に書かなければなりませぬ。それはかう云ふものでありました。――
 雷が裂けて、突然或町の背後に墜ちます。(その町といふのは或丘の中腹にあつて、その本寺(カテドラアル)の方へ急速に上り、それからまたもつと上方へと、その城を目がけてゐるのです。)さうして襤褸をまとつたやうな光線が地上を掘りかへし、搖すぶり、樹々の背後に、まるで眠れない夜のやうな、褪めた緑色に、其處此處に草原を浮かびあがらせてゐます。向うの丘の塊りからは一筋の細い流れが、なんの動搖も示さずに流れてゐて、その夜色を帶びた暗青色で、灌木どもの緑いろをした炎を怯やかしてゐます。驚愕して飛びあがつたやうな町は、かかる苦悶そのもののアトモスフェアを突き破らうとでもするかのやうに必死となつてゐます。
 さう云つたやうな夢をもつべきではないのでせうか。
 私はこの繪に一種の劇しさでもつて惹きつけられてゐますので、ひよつとしたら間違つてゐるかも知れませぬ。それにお氣がつかれたら、どうぞそれを私に仰やつて下さいませんか。

貴下にすべてを、
貴下の
リルケ

(Ernesto Mr. T による註) リルケは、イグナシオ・スロアガへの興味と、彼を通じて知った El Greco エル・グレコへの傾倒からスペイン旅行も行なったのでした。


堀辰雄の一高以来の無二の親友であった神西清は、堀が古今東西の書物や、様々な交友関係から、あらゆる色素を摂取、受容、吸収して、それを一つの純粋へと総合していった道程をゲーテ的と形容しました。そんな堀が外国文学の「影響」をどのように受けていったのかについて、神西はこう述べています

堀辰雄は、次々にさまぎまな影響を受けてゆく。いや、さまざまな影響を奪ってゆく。その摂取と、消化あるいは純化と、そして一見緩慢に見えないこともない美しい開花と---少しばかり大げさな言い方をすれば、彼の芸術の展開史は要するに、こうした一聯の操作を主題とするフーガ風の楽曲にほかならない。(『堀辰雄文学の魅力』、踏青社、1996、p.12)

堀辰雄はこのようにして、20世紀ヨーロッパ文学の精華を折りにふれて、必要に応じて取り込みながら、自らの主体性をあまり失うことなく成熟していったようです。日本風にではありますが。

残念ながら、堀辰雄はスペインでは殆ど無名でございます。

p.d.

神西清 53歳にて没す (1957年) Jinzai Kiyoshi murió


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