2012年11月3日土曜日

André Malraux, アンドレ・マルロー, Espoir__Sierra de Teruel『希望』L'espoir


今回はアンドレ・マルロー(André Malraux, 1901年11月3日 - 1976年11月23日)と『希望』L'espoir, Espoir__Sierra de Teruel です。L'espoir は小説の方の、Espoir__Sierra de Teruel は映画の方の原題です。

マルローはフランスのパリに生まれ、両親は子供のころに離婚、パリ近郊のボンディで母親と祖母に育てられました。父フェルナン・マルローは再婚し、ロランとクロードの2子をもうけ、1930年に自殺しました。マルローは東洋語学校に入学し東洋の言語を学ぶとともに、首都の芸術家の集まりにしばしば顔を出して少し風変わりなダンディーを気取ったりしました。 1921年にドイツ系の富裕な家族の遺産を相続したクララ・ゴルドシュミットと結婚し、学校は卒業しませんでした。妻とともにベルリン、シチリア、チュニジアなどを旅行しましたが、1923年妻の財産を株式投資に注ぎ込んだところ、株価暴落によって破産してしまいました。
同年妻とともにカンボジアに出かけ、12月23日バンテアイ・スレイ寺院で女体のレリーフを盗んだため友人のルイ・シュヴァッソンとともにプノンペンで逮捕されました。1924年7月プノンペンの裁判所でマルローは禁固3年、友人のルイは禁固1年半の判決を受けました。一方、無罪判決を受けた妻クララはいち早くフランスに帰国し、知識人たちに救援運動を呼びかけました。これに応じてアンドレ・ジードやフランソワ・モーリアックらパリの知識人らが署名嘆願運動を起こし、マルローは10月にサイゴンの控訴審で執行猶予1年に減刑され、11月にフランスに帰ることができました。マルローはインドシナにおけるフランス植民地当局に極めて批判的で、1925年には再びインドシナに赴きヤング・アンナン同盟設立に助力し、新聞『鎖に繋がれたインドシナ』を創刊しました。考古学への情熱からラオスへの調査旅行も行い、1927年には中国国民党とも関係を持ちました。
1926年に最初の小説『西洋の誘惑』を書き、その後、1928年『征服者たち』、1930年にはカンボジアでの事件を基にした『王道』、1934年には上海における共産主義政権の崩壊を描いた『人間の条件』を書いて1933年にはゴンクール賞を受賞しました。1930年代にはイランやアフガニスタンへの考古学調査にも参加し、ルイ・アラゴンとともに文化防衛のための国際作家同盟も設立しました。
1936年スペイン内戦が起こると義勇兵として共和国派に参加し、空軍パイロットとしてマドリード攻防戦で二度負傷しました。共和国軍の資金募集のために米国、カナダ旅行も行い、この経験をもとに1938年『希望』を出版しました。この頃からジョゼット・クロティスと同棲し、1940年に妻クララとは離婚しました。またこの時期、同じように義勇兵としてアメリカから参戦していた作家アーネスト・ヘミングウェイの知己を得ています。
1939年第二次世界大戦が勃発するとフランス軍に入り、戦車部隊の一兵士となりましたが、1940年に捕虜となり、脱走後、レジスタンス運動に身を投じました。1941年にジョゼットと再婚しました。1944年にはゲシュタポに逮捕され、危うく処刑されるところでしたが、レジスタンスのメンバーに救出されました。同年9月自由フランス軍のアルザス・ロレーヌ旅団司令官となり、ストラスブール防衛戦やシュトゥットガルト攻略戦に参加しました。この功績でレジスタンス勲章や戦争十字勲章を授与されました。妻のジョゼットはこの年に事故で死亡してしまいました。
1945年8月自由フランス軍のシャルル・ド・ゴール将軍に出会って意気投合し、1945年11月から1946年1月にかけてフランス臨時政府の情報相に任命されました。1947年ド・ゴールが創設したフランス国民連合に参加、広報を担当しました。ド・ゴールが下野していた1950年代には『芸術の心理』や『空想美術館』など芸術や美術に関する著作を発表しました。1958年6月、ド・ゴール政権成立によって再び情報相を拝命し、1960年から1969年にかけて文化相に在任しました。この間、1965年には訪中して毛沢東と会見しました。1974年には日本も訪問、熊野・那智の瀧や伊勢神宮に参拝し、日本文化に深く親しみました。
異母弟であるロラン(1912年-1945年)は第二次世界大戦中にレジスタンスの闘士となり、
1948年に異母弟ロランの未亡人であるマリ=マドレーヌ・リューと結婚しました。彼女とはマルローが亡くなるまで添い遂げました。
マルローは1976年にパリ近郊のクレテイユで死去しました。
没後20年目の1996年11月23日、ジャック・シラク大統領らの尽力でマルローの棺はフランスの偉人を祀るパンテオン (パリ)に改葬されました。


小説『希望』はスペイン内乱の前半期(1936年7月~37年3月)を取扱ったルポルタージュ風の作品です。
ご承知のように、スペインの内戦は1936年7月にフランコ将軍を中心とする軍部の叛乱から始まります。そして、1939年3月末に叛乱軍がスペイン全土を制圧して、内戦は終結します。マルロー自身は、内戦が勃発するとほとんど同時にスペイン政府支援のための活動を開始し、9月に国際義勇軍が設立されるとすぐに国際義勇軍飛行隊の指揮官として参戦しています。この体験をもとに、ほとんど同時間的に、ルポルタージュ風に書かれたのが『希望』という小説です。この小説には、多くのスペイン人だけではなく、国際義勇軍に参加した、さまざまな国籍を有する無数の人物が登場しますが、ストーリーは主として、スペイン人のカトリック信者ヒメネス大佐、何よりも人間的な信頼関係を重視するコミュニストのマヌエル、フランス人で国際飛行隊の隊長マニャン(マルロー自身をモデルにしていると思われる)の三人を中心に展開されます。
第一編「抒情的幻想」では、国籍が違い、考え方も違う人たちがそれぞれの立場を示しながら、共和国スペインを守るという一点で戦闘に参加している姿が描かれます。
第二編「マンサナレス河」では、マドリードとその周辺をめぐる戦いの具体的な様子が迫力をもって描写されます。
第三編「希望」では、1937年2月の「マラガの戦い」、3月の「グアダラハラの戦い」を、マニャンとマヌエルの活躍を通して描いています。
この段階では政府軍の方がまだ優勢でした。物語の終わりでは、
(マヌエルは)ひょっとしたら、ヒメネスが言うとおり、自分の人生を見つけだしたのかもしれなかった。彼は戦争に目ざめ、死にたいする責任に目ざめたのだった。(中略)マヌエルは生まれてはじめて、人間の血よりも厳粛なもの、地上における人間の存在以上に不安なもの、つまり彼らの運命の限りない可能性の声を聞いたのだった。(岩崎力訳)
と書かれています。たいへんマルロー的な抽象的な表現によって、「自分の人生を見つけだした」ということが、「死にたいする責任」を感じるということ、自分たちの運命の限りない可能性を見出すこと、人生の意味を発見することでもあると述べられています。『希望』という作品はスペイン内戦が始まっておよそ8ヵ月、政府軍が優位を保っている時期で終わっています。マルローはなぜ、このルポルタージュ風な小説の最後の章に「希望」という表題をつけたのでしょうか。彼が希望と呼んだのは戦いに勝利するだろうという予測のことではないのは明らかです。たとえば、『人間の条件』においては、主人公の陳が蒋介石の暗殺を試み、失敗して自殺してしまいます。マルローは、テロが成功するか失敗するかを問題にしているのではなく、死を賭した行動そのもののなかに人間の意志と尊厳を見いだそうとしていたからです。このいわば「滅びの美学」はあくまで個人の行動です。この『希望』においては、人間の連帯、友情のなかに希望を見いだそうとしているのです。希望とは、ことばも国籍も違う人々がともに人間の大義のために戦うことができるという事実に対してであることは間違いないと思います。いったいなぜ国際義勇軍に参加した人たちはみずからの死を覚悟でスペインに赴くことができたのか。1930年代とはまさしくそのような時代であったということなのですが、1930年代というのは、ご承知のように、ドイツやイタリア、それに日本においてもファシズム勢力が台頭し、他方ではスペインやフラ
ンスで、左翼勢力が人民戦線内閣を結成します。世界全体が(といってもヨーロッパ中心ですが)ファシズム対平和勢力の戦いという様相を呈していて、したがって、ドイツやイタリアの政府に支援されたスペイン右翼の反乱軍に対抗して、人民戦線政府を擁護するために世界各国から志願した義勇兵がスペインに駆けつけたわけです。その数は全部で約5万人と言われていますから相当な数です。マルローは国際義勇軍の行動を「人間の意志」とか「人間の尊厳」ということばで表現していますが、別のことばで言えば、「人間としての責任を果たす」と言うこともできるものです。それは希望を持つことができた時代でもあります。1930年代
とは、そういう「人間としての責任」を果たし、希望を語ることができた時代でもあったわけです。

次は、アンドレ・マルロー監督・原作・脚本の'39年作品『希望―テルエルの山々―』です。
 「1937年スペイン内乱のさなか、1機の戦闘機が飛行場に戻ってきた。そこにはファシズムと戦うため各国から集まった義勇軍兵士がいた」。燃えながら着陸しようとする飛行機とそれを見守る人々。横たわる兵士の死体を囲む大勢の人々の中で、飛行隊の指揮官が兵士の生涯を語ります。村々が蜂起する中、指揮官は1対8の劣勢でも敵を分断するために橋を爆撃することを部下と話し合います。町の全景に砲撃の音が重なります。壁の蝶の標本が音で落ちる中、作戦を確認して外へ出ていく男たち。「その頃リナスでは、フランコ側の飛行場を発見した農夫が、戦線を突破するため、案内人を探しに来ていた」の字幕。常に響くマシンガンの音。人民戦線リナス本部で軍隊のいるところへ連れていけと訴えていた農夫は同伴を1人つけられ、それとは別に誰かが辿りつけるように3人が出発します。先ほど出発していた男たちに、車列から放たれる銃弾。彼らの道を塞ぐ大砲に車もろとも突っ込んだ男は死に、無数のハトが飛び立ちます。そのすきにそこを突破する男たち。「共和派のパルチザンたちが、車を調達してリナスに来た。農民たちと力を合わせ、橋へ向かうフランコの軍隊を阻止するためだ」の字幕。ダイナマイト200キロだけが届き、人望ある先生が、それを入れる容器を農民たちから調達します。「ダイナマイトを詰めた様々な容器を持って、農民はフランコの軍に立ち向かった。軍は橋への到達を阻まれ、橋後方の部隊との連絡を断たれた」の字幕。1918年以来飛行経験のないドイツ大尉に指揮官は飛行を命じますが、大尉は着陸に失敗し、その後義勇軍への志願をします。射撃訓練で見事な腕を見せる飛行士たち。「農夫と案内人はフランコ側に占領された最後の村に着いた。何とか戦線を突破する道を見つけ、共和派の飛行場にたどり着かねばならない」の字幕。味方を探すため、酒場で合言葉を使いますが、不完全な答しか返って来ず、それでも信用された店の主人は裏庭で裏切り、味方を撃ち殺しますが、農夫は咄嗟にナイフで主人を刺し殺すと、ヒマワリのアップが飛び込んできます。農民は飛行機に乗せてくれれば敵の飛行場まで案内できると指揮官に訴え、指揮官はエンジン待ちの戦闘機が並ぶ中、2機の爆撃機だけで夜襲をかけることを決断し、夜の飛行場を照らすため、車の調達に走ります。朝日が昇る中、対空砲火を浴びながらもマシンガンで反撃しながら、無事に敵の飛行場と橋を爆撃しますが、敵の戦闘機が多数現れ、何人かの飛行士は傷つき、機体も損傷を受けます。味方の戦闘機が来たおかげで戦闘から脱出はできますが、1機は山に激突します。医者や救援隊の手配をする指揮官。崖を手渡しで負傷者が降ろされていきます。柩を背負うロバと、人に担がれた担架に多くの村びとが迎えに出、山々の村を通過するごとに列は長くなっていくのでした。
この映画は スペインでは 1977年まで観ることができませんでした。

下の video は スペイン語版です。


Gracias a sus contactos con personalidades del Ministerio del Aire francés (entre los que se encontraba Jean Moulin, futuro líder de la Resistencia) consigue movilizar bombarderos, cazas y aparatos de escolta que serán pagados con fondos del gobierno español. Incluso después de la formación del Comité de No Intervención comprará en Francia nuevos aparatos a través de países terceros. El escritor contrata también las tripulaciones, formadas por voluntarios y profesionales, algunos procedentes del servicio Aéropostale francés.
Una vez que hombres y equipo llegan a Madrid, el propio Malraux los organiza con el nombre de Escuadrilla España. El grupo tuvo un máximo de ciento treinta miembros. En total realizará veintitrés misiones de ataque entre agosto de 1936 y febrero de 1937, fecha de su disolución.
Para darle carácter oficial, el ministerio del Aire español otorga a Malraux el grado de teniente coronel, a pesar de no haber realizado siquiera el servicio militar.
El ahora coronel-escritor administra su escuadrilla de forma casi independiente: en Albacete, recluta a su propia tropa, que no se subordina a las Brigadas Internacionales organizadas por André Marty, acérrimo defensor de la disciplina y la ortodoxia estalinista. El heterogéneo grupo de pilotos, ametralladores, y mecánicos, comunistas, anarquistas, etcétera, de distintos países están unidos por su antifascismo. Por otro lado, en la jerarquía militar Malraux sólo responde ante el general Ignacio Hidalgo de Cisneros, jefe del Ministerio del Aire.
La libertad de acción acarrea, sin embargo, una grave carencia de suministros y repuestos para la escuadrilla. El número de aparatos va menguando por los combates y los accidentes. Se añaden a esto las maniobras de André Marty para que la Escuadrilla España quede bajo su mando. Contra ello, Malraux consigue que su unidad se integre en el ejército regular y dentro de la Fuerza Aérea republicana, una vez rescindidos los contratos de los profesionales; el grupo será rebautizado por sus miembros como Escuadrilla Malraux en honor de su jefe.
Con todo, las pérdidas son cada vez mayores. Mientras cubren la retirada de Málaga, los dos últimos bombarderos de la unidad son derribados y la escuadrilla se disuelve. A partir de entonces, Malraux dedica todos sus esfuerzos a labores de propaganda y recolección de fondos para la República en el extranjero.

Peculiar film que anticipa de alguna manera al neorrealismo italiano; ya durante la década del veinte había intentado promocionar en Francia la cinematografia del expresionismo alemán, hecho que lo sitúa en una posición encontrada con la tendencia abstracta de un cubismo que va a constituir la dominante en el estilo racionalista del alto modernismo.
El 20 de julio de 1938 comenzaba en los estudios de Montjuich (Barcelona) el rodaje de Sierra de Teruel, intento de llevar a la pantalla el episodio vivido en Valdelinares. Un bombardero fue derribado durante la contienda, y los civiles que lo presenciaron acudieron a ayudar a descender a los heridos. El espectáculo de solidaridad y respeto impresionó a Malraux, que se inspiró para escribir su libro L'Espoir, que se publicaba en prensa por fascículos, y trata temas arraigados en la cultura española, como la muerte, la fraternidad, el destino trágico, y el compromiso político. Cuando Malraux acude a los Estados Unidos como representante de la República para recaudar fondos para hospitales y propaganda le ofrecen la posibilidad de tener a su servicio 1800 salas de cine. Esto supondría unos 3 millones de espectadores. Nace entonces la idea de adaptar la idea del libro para realizar una película que se proyectaría en salas de todo el mundo para conseguir adeptos a la causa republicana.
El Gobierno Republicano respaldó económicamente el proyecto, en el que participó Max Aub traduciendo el guion, aportando ideas y facilitando la dirección, ya que la mayoría del equipo hablaba español. No todo el reparto estaba formado por actores profesionales. Muchos fueron los esfuerzos durante el rodaje, no solamente económicos, sino condicionados por unas precarias condiciones de guerra, con cortes de luz, bombarderos y demás penurias. Ambientada en Teruel, los exteriores corresponden a Cataluña, ya que Teruel estaba demasiado próxima a las líneas enemigas. Sin embargo el rodaje se vio interrumpido por el avance de la guerra cuando aún faltaba rodar 11 de las 39 secuencias previstas. El equipo se trasladó a Francia y allí se rodaron en estudio escenas de transición para poder enhebrar las secuencias grabadas.
Malraux pidió a Darius Milhaud que compusiera la banda sonora, que sólo se escucha al final, en una secuencia muy dramática. En la mayoría del film prevalece el sonido ambiente, una peculiaridad de Sierra de Teruel que le aporta gran significación. El espesor sonoro es considerable: a la vez que los diálogos se pueden escuchar los sonidos de la naturaleza (el ganado) y, en el fondo, los sonidos de la guerra. La obra de Malraux presenta una gran sensibilidad por el universo sonoro, y esto se ve reflejado en la película.
La primera copia de la película está lista en julio de 1939, pero entonces la contienda ya está perdida y la película ha perdido su funcionalidad, la de implicar al mundo en la lucha a favor de la República. Se presentó al gobierno republicano en el exilio en un cine de los Campos Eliseos de París pocos días antes de la declaración de la Segunda Guerra Mundial. Se proyectó dos veces en París y en pases rpivados, pero el Gobierno de Franco presionó a la diplomacia francesa en Madrid (al entonces embajador de Francia en Madrid, Philippe Petain) hasta que la censura prohibió su exhibición pública. Durante la Segunda Guerra Mundial se destruyeron todas las copias que se encontraron, por lo que se llegó a pensar que la película se había perdido para siempre, hasta que se descubrió una bobina etiquetada con un nombre que no correspondía al título. Se hicieron copias y se estrenó el año 1945, presentándola como un filme francés. En España no se vio hasta 1977.


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