馬
佐左木俊郎 Caballo 馬
(ささき-としろう、1900-1933。明治33年4月14日宮城県に生まれました。鉄道員、小学校の代用教員などを務めたのち新潮社に入り、雑誌「文学時代」などを編集しました。また農民文芸会に属し、農民文学の作家として活躍しました。昭和8年3月13日死去しました。享年32歳という若さでした。著作に「熊の出る開墾地」、「黒い地帯」などがあります。)
伝平は子供の頃から馬が好きだった。
「お
伝平はそう口癖のように言うのだった。
「馬か? 濠洲産の駒馬でもなあ。早ぐ
「馬一匹飼って置くといいぞ。
「そんなごとは
父親は、
併し、伝平は馬を諦めることが出来なかった。伝平は父親の眼を
*【む~ぶ】木曽馬
伝平が稼ぐようになってからも、伝平の家では、馬を飼うことなどはとても
「お
伝平はそんな風に言うのだった。
「蓄めで置きてえのは山々だどもよ。ふんだが、馬を買うのにあ、
母親は哀れっぽく言うのであった。伝平は仕方なく、そのまま日傭などを続けていたが、十八の歳の早春の、農閑期の間に、彼は突然いなくなってしまった。 そしてそのまま半年ばかりは、どこへ行っているのか全然わからなかったが、秋になってから、初めて、硫黄山に働いていたことがわかった。併し、伝平は、そ れから間もなく、栗毛の馬を一匹曳いて自分の家に帰って来た。酷く痩せていて、尻がべっこりと凹んでいるよぼよぼの、廃馬も同様の
「伝平!
父親は赤爛れの眼を無理矢理に大きく押し開けながら言った。「金持って
「それさ。併し、幾ら安くたって、生きてる馬だもの、十円か十五円は出さねえじゃ……」
「十円か十五円? 何か言ってんだか! お父う等は、馬の、値段も知らねえんだなあ。この馬だって、普通なら、五十円か六十円はするのだぞ。三十円だっていうから、俺、安いと思って買って来たのだ。」
「三十円? こんな痩馬がか?」
「何か言ってんだか! 痩馬だって、骨まで痩せてるわけじゃあるめえし、
「そりゃあ、生きてる馬だから、
「伝平は、本当に、なんて無考えなことをしんだか。三十円もあったら、ふんとにどんだけ楽だかわかんねえのにさ。馬なんか買って来たって、どこさも、置くとこもねえじゃねえか?」
母親もそう不平がましく呟いた。
「お
伝平はそう言いながら、胴巻きの中から
「伝平の野郎には叶わねえ。」
父親は暫くしてから欣びに
伝平は、
伝平は急に活き活きして来た。娘から母親になった女のように、伝平は、自発的に働くようになって来た。薄暗いうちに起きて飼料を刻んだり、野良へ働きに出ても
「好きな者には叶わねえなあ。」
部落の人達は眼を瞠るようにしてそんなことを言うのだった。
「伝平の野郎は、なんでも、馬小屋さ寝てるって話だぞ。馬を女房にしてるんだってさあ。」
部落にはそんな噂まで立った。
併し、伝平の馬は、翌年の早春、腸を病んで急に死んだ。飼料の用意が十分でなかったところから、
*【む~ぶ】木曽馬
徴兵検査で、伝平は、
「馬が好きであります。」
伝平はそう、
「馬が好きか! ふうん! それはいい。併し、騎兵には少し丈が足りないから、輸卒がいいだろう。」
伝平はそして、三ヵ月間の兵営生活を送って来たのであったが、彼はその三ヵ月の間に、馬に就いての知識をどっさりと仕入れて来た。伝平は、会う人ごとに、馬に就いての話をした。除隊の挨拶に廻りながらも、伝平は、部落中の馬小屋を、
「おおら! おおら! おおら!」
そんな風に声を掛けながら、伝平は、軽く肩のところを叩いたり、無雑作に口の中から舌を
そして、それからというもの、部落の馬が、病気をしたり怪我をしたりすると、伝平は、仕事を投げ出して飛んで行くのだった。伝平はいつの間にか、幾種類かの薬品や、
部落では、いつの間にか彼を(伝平)とは呼ばずに(
*【む~ぶ】木曽馬
伝平は二十三歳で結婚した。
「俺あまだ女房なんか早え。そんなことより、まず、馬を買う算段をしなくちゃ。馬のいいのを一匹飼って、それから……」
伝平はそう言っていたのであったが、母親が眼に見えて老衰して来て、飯を炊くのにも困るようなことになったものだから、両親が否応なく押しつけてしまったのであった。
「ほう! 伯楽も、馬々って、馬をほしがっていだっけ、
部落の人達はそんなことを言った。
併し、いずれにもしろ、伝平はそれで落ち着いた。そして、それから間もなく、伝平は、一匹の馬を飼うことが出来るようになった。自分の所有になったので はなかったが、高利の金を貸している高木のところで、抵当流れとして取り上げた南部産の駒を、伝平のところへ預かったのであった。伝平の生活は再び活気づ いて来た。
「立派な馬だなあ。こんな立派な馬を、
伝平はそう言って、馬のことは、なんでも自分でするのだった。そして、馬主の高木は、毎日のように、その馬を見に伝平の家に廻った。伝平が家にいるときには、伝平はいつでも、馬を庭へ
「高木の
部落にはまたそんな噂が立って来た。伝平は、それほど愚鈍なのではなかったが、馬のためには
「旦那! 旦那はいるか! 談判があるから出ろ!」
伝平はどうかすると、無理に酔っ払って、高木の家へそんなことを言って行くことがあった。
「南部馬がなんだって言うんだえ? 糞面白くもねえ! 今日は談判があるんだぞ!」
伝平がそう怒鳴りながら門を這入って行くと、高木は座敷の障子を開けて、縁側へ出て来るのが常だった。
「談判があるど? 馬を返すって言うのか? いつだって構わねえ。今日にでも返してもらうさ。それから金の方も一緒に……」
「おっ! 旦那様! 今日はどうも少し酔っ払ってしまって……」
伝平はそう言って、すぐもう折れてしまうのだった。
「談判があるなら聞こう。」
高木はしかし
「談判など何もねえんでがす。ただそれ、旦那が、俺から馬を取り上げて、どこか
「
「旦那様! 旦那様の気持ちは、俺、底までわかってるから。」
伝平はそう言って、幾度も頭をさげながら、逃げるようにして帰ってしまうのであった。
*【む~ぶ】木曽馬
併し、伝平は、四十を過ぎても、やはり、しがない暮らしで、自分の持ち馬というものが出来なかった。それに、体力の方も酷く落ちてしまって、すぐ疲労を感ずるようになっていた。女房のスゲノも、五人かの子供を産んで、何もかももう
父親の伝平は、ときどきそんなことを言うのであった。
「お
耕平はそう言って、最早、青年達の中へ飛び出して行きたがっているのだった。
「それさあなあ。金は取れるかも知れねえけど、貨車の上さ立ったりして乗ってるらしいが、危ねえようだなあ。幾ら金になったって生命には換えられねえんだから、やはり、見合わせた方がよかんべぞ。」
父親の伝平はそう言って、耕平が砂利貨車で稼ぐことは、悦ばなかった。むろん、馬は欲しいのであったが、そんな風にして四十銭五十銭と持ち帰る金で馬な ど容易に買えるものではなく、幾度も幾度も怪我人を出していることを聞くと、伝平は、やはり、耕平を出してやる気にはなれなかった。併し、耕平は、いつの 間にか、父親に隠れるようにして、砂利貨車に働いているのだった。
「お
耕平はそう言って、五十銭ばかりずつ賃銀を、母親のところへ運んで来た。それは、籠に水を汲み溜めようとするようなもので、穴だらけな生活の中へ消えて 行ってしまうのであったが、父親も母親ももう、耕平が砂利貨車に働くことを止めようとはしなかった。そして母親は、耕平の肩に、成田山の守護札などをかけ てやった。
併し、そんな風にして一ヵ月ばかりも過ぎたころ、耕平は、進行中の貨車と貨車との間に墜落して、胴体を切断された。殆ど即死であった。父親の伝平も母親のスゲノも、驚きだけが先に来て、涙も出なかった。遣る瀬の無い悲しみの涙がじめじめと頬へ
「これこそあ、耕平の野郎の、
伝平はそう言って、その金で馬を買う気持ちさえも、その当座は起こらないらしかった。
「ほんでも、金で持ってるど、眼に見えねえごとに
女房のスゲノは首を傾げながら言うのだった。炎天の下に水を溜めようとしても、水は、いつの間にか蒸発してしまう。伝平もそれは知っていた。
「思い切って、耕平の野郎さ、立派な墓石でも建ててやるか?」
伝平は眼を輝かしながら言った。
「それさね。ふんでも、立派な墓石など建てたって、毎日お墓さ行って見れるもんでもあるめえしね。何か家さ置けるものを買ったら、どんなものかね。」
「それじゃ仏壇でも買うか?」
「それよりも、思い切って、馬のいいのを買ったらどうかね。耕平も、馬を買うべって稼ぎに行って……」
母親はそう言っているうちに、涙がじめじめと虫のように
「よし! 馬を買うべ! 馬のいいのを買うべ!」
伝平は手を叩くようにして言った。
伝平はそうして、七十円ばかりで、
「おおら! おおら! おおら!」
伝平はそう言って、馬の肩あたりを撫でてやりながら、いつまでも
「
伝平は、そう小さな子供達に言うのだった。
「耕! 耕! 耕や!」
伝平は馬の肩を撫でながら、そんな風に言っていることもあった。
「伯楽は、なんのつもりで、馬を買ったんだべ? 馬を遊ばせて置いて、伯楽は自分で重いものを背負っているじゃねえか? 自分で馬を持ったことねえもんだから、惜しくて、使われねえのじゃねえか?」
部落ではそんな噂をしていた。いくらかそんな気持ちもあるにはあったが、伝平夫婦には、馬が伜の耕平に見えて仕方がないのだった。女房のスゲノも、涙がじめじめとわけもなく出て来るときなど、馬小屋へ行っては、馬の肩を撫でながら、一時間でも二時間でも馬の眼を視詰めていた。
*【む~ぶ】木曽馬
併し、農事が忙しくなると、やはり、飼ってある馬を使わずにはいられなかった。雑木山からの薪運びに、伝平は、初めて馬を使役に曳き出した。むろん、馬に、乗る気になどはなれなかった。腰を曲げるようにして、崖の上の細い坂路を、馬を曳いて上って行った。
伝平はそして、荷を、軽目に積んだ。併し、馬は、暫く荷を張られなかったので、荷を積んで曳き出すと、一脚ごとに鞍を
「脚が悪いのかな?」
伝平はそう言って、何度も振り返って見たが、坂の中途で馬を停めてしまった。
「可哀想な野郎だよ。」
伝平はそう言いながら、六個の薪束を、四個に減らした。そして、伝平は、自分が背負っていた二個に、さらにその二個を加えた。立ち上がると、四個の薪束 の重さで、伝平はよろよろした。ちょうどそのとき、路の上に垂れ伸びていた木の枝が、馬の顔をばさりと叩いた。馬は驚いて
「あっ! あっ! あっ!」
伝平は叫びながら
*【む~ぶ】木曽馬
伝平の怪我も、馬の怪我も、殆んど、致命傷だった。
「耕平の怪我はどうだあ! 耕平の方は俺より酷くねえか?
伝平はそう
「お
女房のスゲノは伝平の耳に口を当てて言った。
「大丈夫か? 耕平が大丈夫ならいい。俺はもう先のねえ人間だ。耕平が助かればそれでいい。俺など構ってねえで、
伝平はそう