2012年5月18日金曜日

マニラ Manila スペイン対中国 España vs China


16世紀のスペイン人到来以前から、パシグ川の流域にあって、マニラ湾に臨む交通の要衝にあった現代のマニラ地域には、マレー人の集落が存在しており、中国人などがさかんに来航して交易を行なっていました。東洋におけるスペインの拠点を築くべく初代総督としてフィリピンへやってきたミゲル・ロペス・デ・レガスピらはマニラの地理的な重要性に着目し、ここを占領して拠点化しようと考えたのです。レガスピは1570年に先遣隊を派遣してマニラを占領しようとしたがうまくいかなかったため、1571年に自ら赴いてマニラを占領しました。レガスピは占領した5月19日が聖ポテンシアナという聖人の祝い日であったことから、ポテンシアナをフィリピンの守護聖人としました。

Manila, antes de la llegada de los españoles, era un enclave musulmán en el que ya se desarrollaba un floreciente comercio con China y otros puntos de Asia Oriental. 

レガスピが築いた最初のマニラ市は、サン・アントニオ、サン・カルロス、サン・ガブリエル、サン・ルイスの四つの地域からなり、政庁と大聖堂および中央広場、アウグスティノ会の修道院や軍事施設、宿舎などが建てられました。(イントラムロス)

中国人たちはスペイン人の占拠によって交易に支障をきたしたため、その排除を狙いました。初期のマニラは中国南岸部の海賊の領袖であったと考えられるリム・アホンなる人物の襲来を受け、火事などによっても破壊されることがよくありました。

16世紀の終わりにこの地を訪れたイエズス会員アントニオ・セデーニョは建築学の知識があったため、その指揮によってマニラの再建と要塞化がすすめられ、「イントラムロス」と呼ばれるマニラの城壁内地域が整備された。イントラムロスの内部には一般の建築物と共にマニラ大聖堂、サント・ドミンゴ教会など多くの壮麗な教会が建設されたが、多くは第二次大戦中に破壊された。唯一建設当時の姿を残しているサン・アウグスチン教会はフィリピンのバロック様式教会群として世界遺産に登録されています。

中国人たちは依然としてアジア経済を握っていたため、マニラにおいても大きな影響力を持ち、イントラムロスの外に中国人街を築いて暮らしながら、スペイン人たちと取引を行なっていました。スペイン人と中国人は時に敵対しながらも、共存するという関係を続けていったのです。こうしてマニラはフィリピン人、スペイン人、中国人の混合する街という独自の性格を形成していくことになりました。

このようなマニラにおけるスペインと中国の二大帝国の衝突・関係を詳細に描いた本が出版されました。

平山篤子『スペイン帝国と中華帝国の邂逅十六・十七世紀のマニラ 』(法政大学出版局)

です。





































出版社による内容紹介には

マニラにおけるスペイン政庁設立の1571 年から1650 年前後まで、スペイン人と華人との邂逅を地球一元化の過程における画期と位置づけ、両者の関わりにおいて惹起された事件を中心に、「ヒトの移動と邂逅」を 考察する。第Ⅰ部では、カトリック宣教の手段に関して展開された議論を通してスペイン人の華人観を、第Ⅱ部では、二度にわたる華人暴動を通して両者の「戦略的共存」関係を明らかにする。

とあります。

目次を掲載しておきます。

序 章 本書の課題と構成
第一章 スペイン・カトリック帝国とフィリピーナス諸島

第 I 部 スペイン・カトリツク帝国の対チナ観

第二章 チナ宣教論としての「チナ事業」
第三章 アロンソ・サンチェス神父と「チナ事業」
第四章 ホセ・デ・アコスタ神父と「チナ事業」
第五章 初代マニラ司教ドミンゴ・デ・サラサールの対チナ観

第 II 部 スペイン政庁の対華人観、対明観

第六章 フィリピーナス諸島における華人
第七章 マニラにおける第一次華人暴動
第八章 マニラにおける第二次華人暴動
終 章 ヒトの移動と邂逅

あとがき
資 料(フィリピーナス諸島居留華人数・来航船数)
参考文献
索 引

スペイン帝国と中華帝国の出会いはこれほどしっかり取り上げた本は他にありません。唯一無二です。もちろん、Ernesto Mr. T の推薦の一冊です。

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