2012年5月22日火曜日

subject その意味の移り変わり

わたしたちが日常的に用いている subject [英語], sujeto [西語], Subjekt [独語], sujet [仏語]といった言葉は、現在では「主語・主題」などとよく訳されたりします。また、哲学などでは、明治以来「主体・主観」と訳されているようです。しかし、この言葉の歴史をたどってみると、この言葉の原語自体が、すでにひどく読み違えられて来ているようなのです。
 もともと、この言葉はギリシア語の υποκειμενον ( hypokeimenon )が語源なのですが、Πλάτων (プラトン)では「下に置かれている」というくらいの意味に使われていて、哲学的なものではありませんでした。ριστοτέλης (アリストテレス)が初めて、μεταφυσικά『形而上学』(英語では metaphysics )で、「根底に置かれてある論理的基体」「変化多き現象の根底に、不変なるものとして横たわるもの」といったような意味合いで使いはじめたのです。
 それをラテン語に訳すときに、Lucius Apuleius (アプレイウス)とか、Poetius (ポエチウス) が、subiectum と、「下に( sub )「置かれている( iectum )と当て嵌めたらしいのです。しかし、もともと、この言葉は Marcus Tullius Cicero (キケロ)の使った例でも、そんなに重大な哲学用語ではなく、「目の前に横たわっている明瞭なもの」くらいの意味であったらしく、ポエティウスでも訳語でない場合には「…に類属する」(英語の subject to ... )くらいの意味で用いられてます。
 どうも、アリストテレスの訳文として、初めてこの言葉は、何か丸天井の建築の尖塔の先のような、有用というよりも威厳を導き出すような「基本体的主体」といった意味合いを持ったらしいのです。
 16世紀までの中世紀を通じて、封建諸侯は、この言葉を支柱として、巨大ピラミッド型の、身分が上になるほど偉いという態型を構成したのでした。
 その場合 subiectum は、後の主観とはおよそ反対の、主観的なものどもを抑える、揺るがざる権威の基本的主体となりました。奴隷のπίκτητος (エピクテートス)も、帝王のMarcus Aurelius Antoninus (マルクス・アウレリウス・アントニヌス)も、この subiectum に縛り付けられ、同じようにそれは縋《すが》り付くこと、すなわち諦観することによって耐えていたのでした。
 9世紀の Johannes Scotus Eriugena (ヨハネス・スコトゥス・エリウゲナ)でも、感覚的主観的なものとは反対の、法則的理性的なものとして、神の側のものとしています。
 Jacob Burckhardt (ヤコブ・ブルクハルト)が、最初の近代人的王と呼んだ13世紀のFriedrich II (フリードリヒ2世)の臣下であるThomas Aquinas (トマス・アクィナス)では、ようやく意味が読み違えられはじめ、subiectum はそれ自体に内在する固有の受け身の(機)(passio)原因となります。この理性の受動性である感覚にそれが関係しはじめると、それは、ただの受身ではなくなり、まっすぐに現代に通じはじめるのです。同時代のイギリスの Johannes Duns Scotus (ヨハネス・ドゥンス・スコトゥス)の弟子 Ockham (オカム)で、更に Thomas Hobbes (トマス・ホッブズ)で感覚が精神の中に主観的であるとして、今の主観の訳語にあたるものとして現れるのです。そして、René Descartes (デカルト)がついに立派にこれを、「思考の中に、感覚の中に、心の中に、我々の知覚の中に」見出し、現代のものとして読み違えを定着させます。
 さらに本格的にこれを完成するのが、世界の観察者としての Subjekt「主観」を確立した Immanuel Kant (カント)です。主体が天の上にあるのではなくして、地球は回っており、天はばらばらとなり、その全体系を構成するのは、むしろこの見ている自分自身なのであると言うのです。この自分が世界の根底となってしまったのです。
 アリストテレスのヒュポケイメノンとは、見事に正反対のものとして、コペルニクス的読み違いがここに起ってきたのです。
 そしてさらに世代の断層は「主観」から「主体」に、(そして「主語」に) いかにして読み違えるかを、その「主題」としてきたのであります。
 そのもともとの読み違いは Georg Wilhelm Friedrich Hegel (ヘーゲル)のPhänomenologie des Geistes (¿精神現象学?)で、「真実は実体( Substanz )としてではなく、むしろ主体( Subjekt )として把握され、また表現された」と考えられたときから始まっています。すなわち、それは拳銃の弾のように個体として飛んで行くものでなく、クライスタ式ロケット弾(?)のように常に自分自身が分裂しながら発展するものとして、Subjekt を新しく読み違えたときから始まったのでした。今後もいろいろ議論されることでしょうし、読み違えそのものが、また無限の分裂によって違ってくることでしょう。もともと、「下に」「置かれる」、「下に」「投げる」ということが、 “sub” “ject” なのですから、無限に読み違えられて、投げ捨てられることが、subject の言葉の持つ運命とも言えるかもしれませんね。
 (話が複雑になると行けませんので「主語・主格」を表わす他の英単語、nominative などについては今日は触れないこととします。)
 日本の、特に中学・高校の、英語教育では「主語」を当然のもののように扱いがちですが、主語は言語ごとに性質が大きく異なる」、「主語の定義は言語学者の間で一致していない」、日本語などには主語は存在しないという主張もあるということなども忘れてはなりません。
 Keep to the subject and the words will follow. ( Cato Senior )