「人は,生まれ苦しみ、そして死んでいきます」と言ったのは アナトール・フランスではなかったでしょうか?
Anatole François Thibault (
16 de abril de 1844, París - 12 de octubre de 1924, Saint-Cyr-sur-Loire), conocido como Anatole France, fue un escritor francés. En 1921 le fue concedido el Premio Nobel de Literatura.
母の話
アナトール・フランス
岸田國士訳
「わたしには、どうも想像力っていうものがなくってね。」と、母はよくいったものだ。
「想像力がない」と彼女がいったのは、それは想像力といえば、小説を作るというようなことだけをいうものと思っていたからで、その実、母は自分では知らずにいるのだけれど、およそ文章では書きあらわせないような、まことに愛すべき、一種特別な想像力をもっていたのだ。母は家庭向きの奥さんという性の人で、家の中の用事にかかりっきりだった。しかし、彼女のものの考え方には、どことなく面白いところがあったので、家の中のつまらない仕事もそのために活気づき、潤いが生じた。母は、ストーヴや鍋や、ナイフやフォークや、布巾やアイロンや、そういうものに生命を吹きこみ、話をさせる術を心得ていた。つまり彼女は、たくまないお伽話の作者だった。母はいろいろなお話をして、僕を楽しませてくれたが、自分ではなんにも考え出せないと思っていたものだから、僕の持っていた絵本の絵を土台にしてお話をしてくれたものだ。
これから、その母の話というのを一つ二つ紹介するが、僕は出来るだけ彼女の話しっ振りをそのまま伝えることにしよう。これがまた素敵なのである。
学校
誰がなんといっても、ジャンセエニュ先生の学校は、世界中にある女の子の学校のうちで一番いい学校です。そうじゃないなんて思ったり、いったりする者があったら、それこそ神様を敬わないで、人の悪口をいう人だといってやります。ジャンセエニュ先生の生徒はみんなおとなしくて、勉強家です。ですから、この小さな人たちがじっとお行儀よくしているところは、見ていてこんないい気持のことはありません。ちょうど、それだけの数の小さな壜が並んでいるようで、ジャンセエニュ先生は、その壜の一つ一つへ学問という葡萄酒をつぎ込んでいらっしゃるのだという気がします。
ジャンセエニュ先生は高い椅子に姿勢を真直にして腰掛けていらっしゃいます。厳格ですけれど、優しい先生です。髪はひっつめに結って、黒の肩マントをしていらっしゃる、もうそれだけで、先生を敬う気持がおこると一しょに、先生がどことなく好きになるのです。
ジャンセエニュ先生は、なんでもよくお出来になるのですが、この小さな生徒たちに先ず計算の仕方をお教えになります。先生はローズ・ブノワさんにこうおっしゃいます。
「ローズ・ブノワさん、十二から四つ引いたら、幾つ残りますか。」
「四つ。」と、ローズ・ブノワさんは答えます。
ジャンセエニュ先生はこの答ではお気に入りません。
「じゃ、あなたは、エムリーヌ・カペルさん、十二から四つ引いたら、幾つ残りますか。」
「八つ。」と、エムリーヌ・カペルさんは答えます。
そこで、ローズ・ブノワさんはすっかり考え込んでしまいます。ジャンセエニュ先生のところに八つ残っているということはわかっていますが、それが八つの帽子か、八つのハンケチか、それとも、八つの林檎か、八つのペンかということがわからないのです。もうずいぶん前から、そこのところがわからないで頭を悩ましていたのでした。六の六倍は三十六だといわれても、それは三十六の椅子なのか、三十六の胡桃なのかわからないのです。ですから、算術はちっともわかりません。
反対に、聖書のお話は大変よく知っています。ジャンセエニュ先生の生徒のうちでも、地上の楽園とノアの方舟の事をローズ・ブノワさんのように上手にお話しできる生徒は一人もいません。ローズ・ブノワさんは、その楽園にある花の名前を全部と、その方舟に乗っていた獣の名前を全部知っています。それから、ジャンセエニュ先生と同じ数だけのお伽話を知っています。鴉と狐の問答、驢馬と小犬の問答、雄鶏と雌鶏の問答などを残らず知っています。動物も昔は口をきいたということを人から聞いても、ローズ・ブノワさんはちっとも驚きません。動物が今ではもう口をきかないなんていう人があったら、かえって驚いたでしょう。ローズ・ブノワさんには、自分の家の大きな犬のトムと小さなカナリヤのキュイップの言葉がちゃんとわかるのです。実際、それはローズ・ブノワさんの思っている通りです。動物はいつの時代にも口をききましたし、今でもまだ口をきくのです。しかし、鳥や獣は自分のお友だちにしか口をききません。ローズ・ブノワさんは動物が好きで、動物の方でもローズ・ブノワさんが好きです。だからこそ鳥や獣のいうことがわかるのです。相手の気持をのみ込むのには、お互に仲よくし合うことが何よりです。
今日も、ローズ・ブノワさんは読方で習ったところをちっとも間違えずに諳誦しました。それで、いいお点をいただきました。エムリーヌ・カペルさんも、算術の時間がよく出来たので、いいお点をいただきました。
学校から帰って来ると、エムリーヌ・カペルさんは、いいお点をいただいたということをお母さんにお話ししました。それから、その後でこういいました――
「いいお点って、なんの役に立つの、ねえ、お母さん?」
「いいお点っていうものはね、なんの役にも立たないんですよ。」と、エムリーヌのお母さんはお答えになりました。「それだからかえって、いただいて自慢になるのです。そのうちに、あなたもわかってきますよ。いちばん尊い御褒美っていうのは、名誉にだけなって、別に得にはならないような御褒美です。」
大きいものの過ち
道というものは川によく似ています。それは、川というものがもともと道だからです。つまり、川というのは自然に出来た道で、人は七里ひと跳びの靴をはいてそこを歩き廻るのです。七里ひと跳びの靴というのは船のことです。だって、船のことをいうのにこれよりいい名前がありますか? ですから、道というのは、人間が人間のためにこしらえた川のようなものです。
道は、川の表面のように平で、綺麗で、車の輪や靴の底をしっかりと、しかし気持よく支えてくれます。これはわたしたちのお祖父様方が作って下さったものの中でもいちばん立派なものです。このお祖父様方はお亡くなりになった後にお名前が残っていません。わたしたちは、ただそのお祖父様方がいろいろいいことをして下さったということを知っているだけです。ほんとうに有難いものですよ、道っていうものは。そうでしょう、道があるお蔭で、方々の土地に出来る品物がどんどんわたしたちのところへ運ばれて来ますし、お友だち同士も楽に往ったり来たりすることが出来ます。
それで今日も、お友だちのところへ行こうと思って、そのお友だちはジャンというのですが、ロジェとマルセルとベルナールとジャックとエチエンヌとは国道へさしかかりました。国道は日に照らされて、きいろい綺麗なリボンのように牧場や畑に沿って先へと伸び、町や村を通りぬけ、人の話では、船の見える海まで続いているということです。
五人の仲間はそんな遠くまでは行きません。けれども、お友だちのジャンの家へ行くのには、たっぷり一キロは歩かなければならないのです。
そこで五人は出かけました。お母さんにちゃんとお約束をしたので、五人だけで行ってもいいというお許しが出たのです。ふざけないで歩くこと、決して傍道をしないこと、馬や車をよけること、五人のうちで一番小さいエチエンヌのそばを決して離れないこと、そういうお約束をして来たのです。
そして五人は出かけました。一列になって規則正しく進んで行きます。これくらいきちんとして出かければ、申し分はありません。しかし、それほど立派で一糸乱れないなかに、一つだけいけないところがあります。エチエンヌが小さすぎるのです。
エチエンヌは非常な勇気を奮い起こします。一生懸命、足を速めます。短い脚を精いっぱいにひろげます。まだその上に、腕を振ります。しかし、なんといっても、小さすぎます。どうしても仲間について行けません。遅れてしまいます。これはわかりきったことです。哲学者といわれる人たちは、同じ原因があればいつでも同じ結果になるということを知っています。しかし、ジャックにしてもベルナールにしても、マルセルにしても、またロジェにしても、哲学者ではありません。四人は自分の脚に応じた歩き方をします。可哀そうなエチエンヌも、やっぱり自分の脚相応に歩いているのです。調子が揃う筈がありません。エチエンヌは走ります。息を切らします。声を出します。それでも遅れてしまいます。
大きい人たちは、つまりお兄さんたちなんですから、待ってやればいいのに、エチエンヌの足にあわせて歩いてやればいいのにと思うでしょう。ところがそれは駄目なのです。そんな心掛は、この子たちにはそもそも註文するだけ無理なのです。そういうところは、この子たちも大人も同じです。「進めッ」と、世間の強い人たちはいいます。そうして弱い人たちをおいてきぼりにします。ですが、このお話がどうなるか、おしまいまできいていらっしゃい。
ところで、この四人の、大きい人たち、強い人たち、元気な人たちは、急に立ちどまります。地面に一匹の生きものが跳んでいるのを見つけたのです。なるほど跳ぶはずです、その生きものというのは蛙で、道ばたの草原まで行こうと思っているのです。その草原は蛙さんのお国です。蛙さんには大切なお国です。そこの小川のそばに自分のお屋敷があるんですから。そこで蛙さんは跳んで行きます。
蛙というものは、天然自然の細工物として、これはたいしたものです。
この蛙は緑色です。まるで青い木の葉のような恰好をしています。そうして、そういう恰好をしているので、なんだか素晴らしくみえます。ベルナールとロジェとジャックとマルセルは、それを追いかけはじめます。エチエンヌのことも、真黄色な綺麗な道のことも忘れてしまいます。お母さんとのお約束も忘れてしまいます。もう四人は草原の中へはいっています。しばらくすると、草が深く茂っている柔かい地面に、足がめり込んでいくのがわかります。もう少し行くと、膝のところまで泥の中にはまり込みます。草で見えなかったのですが、そこは沼になっていたのです。
四人は、やっとこさでそこから足をひきぬきました。靴も、靴下も、腓も真黒です。緑の草原の精が、いいつけを守らない四人の者に、こんな泥のゲートルをはかせたのです。
エチエンヌはすっかり息を切らして四人に追いつきます。四人がそんなゲートルをはかされているのを見ると、喜んでいいのか、悲しんでいいのかわからないような気持です。そこで、大きい人や強い人には大変な災難が降りかかって来るということを、無邪気な頭の中でいろいろと考えてみます。ゲートルをはかされた四人の方は、しおしおとひっかえします。だって、そんな恰好をして、お友だちのジャンのところへ行けるはずがないでしょう? 四人がお家へ帰ったら、みんなのお母さんは、その脚をごらんになって、四人が悪いことをしたということがちゃんとおわかりになるでしょう。反対に、小さなエチエンヌの清浄無垢なことは、その薔薇いろの腓に、後光のように現れているでしょう。
アナトール・フランス
Anatole Francemadre