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Empédocles, que había subido toda la escalera con la llave en la mano, se perfiló ahora sobre la cerradura con algo de torero que entra a matar, y en este gesto vi claro algo que había estado advirtiendo toda la noche, sin llegar a formulármelo: lo que aquel viejo artista, como todos los hombres de su época, gloriosos e incluso anónimos, tenían siempre en España de matadores de toros, cómo el tipo del espada había sido el modelo nacional, cómo J oselito, muerto en T alavera según el nuevo romancismo malo que a mí me había llegado por los recitadores de feria y ateneo, supervivía en miles, en millones de J oselitos españoles que conservaban o cultivaban algo de la majeza del torero. Seguro que Empédocles, en sus días de gloria, había manejado en algún momento el arco del violín como la espada del matador. Entramos en la casa, que estaba negra, claro, y olía a sábana sucia y a tabaco, menos insoportablemente de lo que yo me había temido. Empédocles fue encendiendo velas:
以下、坂田幸子氏訳です。
いずれにせよ、芸術家の没落、すなわち、いかなる芸術家も(音楽家も画家も詩人も)最後は老境と孤独の地獄に行き着くというブルジョア社会の考えは、幼い頃から家庭でも世間でも聞かされてきたことだが、果てしなく続く暗い階段を上りながらこの男を見ていると、それも然りと思 わずにはいられなかった。つまりこういう公式だ。芸術家=ボヘミアン・無分別な青春/惨めな晩年。実に短絡的な図式だ。あまりに画一的でくだらないからそういう考えは退けるようにしていたのだが、エンペドクレスの場合はこの図式を絵にかいたような人生で、なにかと教訓を得ることも多い。もっともこうした教訓も、自分がある程度人生経験を積んでしまえば、役に立たなくなるものではある。
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そこまでずっと鍵を手に階段を上ってきたエンペドクレスの横顔は、今、鍵穴を背景にして、 まさにとどめの一突きにかかろうとする闘牛士のようだった。その仕草を見てぼくは、明確な言葉にはできないものの、その夜の間じゅう漠と感じてきたことがはっきりとつかめた。すなわち、あの老音楽家には、著名であれ無名であれ、スペインの同年代のあらゆる男たちと同様、どこか 闘牛士風のところがある。闘牛士という人物像は、スペインの国民的モデルだ。タラベラで亡く なったホセリートについては、縁日やあるいは文化協会でのニュース 朗読の弁士によって下手な現代版民間伝承となったのをぼくも聞いたことがあるが、この闘牛士 は、そのいなせな男ぶりを今に伝え、憧れて模倣する何千、何万というホセリート信奉者の心の 中で生き続けてきたのだ。エンペドクレスもかつて栄光に包まれていた頃は、ヴァイオリンの弓を闘牛士の剣のように構えたことがあるに違いない。
Ernesto Mr. T のような aficionado a los toros であり、casi pucelano にとっては Francisco Umbral の作品は何度読んでも飽きることがありません。日本でも更に翻訳等でもっともっと紹介されますように願っております。
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Francisco Umbral
Castellano puro 標準スペイン語は スペインの Valladolid で話されています。Ernesto Mr. T は そこで スペイン語を学びました。Ernesto Mr. T による スペイン語レッスン御希望の方は,ernestotaju@yahoo.co.jp へ。