2012年8月2日木曜日

中野好夫

本日は 英文学者 中野好夫の 生誕日です。


1903年(明治36年)8月2日 - 1985年(昭和60年)2月20日。日本の英文学者、評論家、英米文学翻訳者の泰斗であり、訳文の闊達さでも知られています。
109年前の今日、愛媛県松山市生まれした。旧制徳島中学校(現在の徳島県立城南高等学校)在学中、スパルタ教育に反発して退学します。のち第三高等学校を経て、東京帝国大学文学部英文学科で斎藤勇に師事します。1926年(大正15年)に卒業後、新聞社入社に失敗して千葉県の私立成田中学校の英語教師になります。1929年(昭和4年)に東京府立女子師範学校兼府立二女教師、1932年(同7年)から東京女高師教授などを経て、1935年(同10年)から東京帝国大学助教授を務めます。その風貌とシニカルかつ骨太な性格から「叡山の僧兵の大将」との異名を取りました。この時期の教え子に木下順二や丸谷才一、野崎孝などがおります。
敗戦(1945年=昭和20年)を機に「戦犯第1号」を名乗り、社会評論の分野に進出しました。1948年(昭和23年)から東京大学教授となります。
この時期、太宰治の短篇「父」を「まことに面白く読めたが、翌る朝になったら何も残らぬ」と評したため、太宰から連載評論『如是我聞』の中で「貪婪、淫乱、剛の者、これもまた大馬鹿先生の一人」とやり返されたこともあります。これに対して中野は、太宰の死後、『文藝』1948年(昭和23年)8月号の文芸時評「志賀直哉と太宰治」の中で「場所もあろうに、夫人の家の鼻の先から他の女と抱き合って浮び上るなどもはや醜態の極である」「太宰の生き方の如きはおよそよき社会を自から破壊する底の反社会エゴイズムにほかならない」と指弾しました。見事でした。
1949年(昭和24年)、平和問題懇談会に参加し、全面講和を主張しました。1953年(昭和28年)、「大学教授では食っていけない」との理由で退官し、『平和』誌の編集長となり、1955年まで続けます。朝鮮戦争による好況を背景に、1956年(昭和31年)、『文藝春秋』2月号に発表した「もはや戦後ではない」という評論の題名は翌年の経済白書に取り上げられ、流行語となりました。この言葉だけは Ernesto Mr. T は気に入りません。
1961年(昭和36年)から翌年までスタンフォード大学客員教授、1965年(昭和40年)から1968年(同43年)まで中央大学文学部英文科教授として勤務しました。
1958年(昭和33年)から1976年(昭和51年)まで憲法問題研究会に参加し、護憲、反安保、反核、沖縄返還、都政刷新を主張しました。沖縄問題への取り組みとして沖縄資料センターを設立しました。これはのち法政大学沖縄文化研究所に引き継がれました。1985年(昭和60年)に肝臓癌により亡くりました。
1976年からエドワード・ギボン『ローマ帝国衰亡史』完訳を目指し、刊行開始していましたが、シリーズ全体の半ば(5巻目)で病没したため、元同僚の朱牟田夏雄が引継ぎ、次に長男中野好之が訳業を続け、1993年(平成5年)に全11巻で完結しました。

Ernesto Mr. T は この中野好夫氏訳の『ガリバー旅行記』と『チャップリン自伝』が特に気に入っています。


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