2013年4月6日土曜日

大府飛行場(知多飛行場)竣工(1944年) 軍事空港


Ernesto Mr. T の地元、愛知県・知多半島の常滑には 現在 Centrair「中部国際空港」がありますが、以前知多半島には別の飛行場があったのです。
大府飛行場です。別名・知多飛行場。大府市と東海市にまたがる地区に存在していました。現在の知多半島道路大府東海インターチェンジの北側一帯にです。
1944年の今日、4月6日、その大府飛行場が竣工されました。


起工して30ヵ月後の1944年(昭和19年)4月6日にようやく飛行場が竣工しました。各務原飛行場から飛来した九九式艦上爆撃機 (下の 最初のfoto) と三菱MC-20 (同2番目の foto) の2機によって初の離着陸テストが行なわれ、見事に成功しました。 完成した飛行場は合計66万平方メートルの建物に3800台にのぼる工作機械が備えつけられ、「三菱航空機知多工場」、「三菱第五製作所」、「三菱航空機知多整備工場」などと呼ばれました。



飛行場の規模は、主滑走路が長さ1300m・幅60m、誘導走路が長さ1000m・幅30mでした。別に東西の補助滑走路も計画されましたが、終戦で実現できませんでした。主滑走路は北西端部が円形に膨らみ、マッチ棒のような形状をしていました(上掲の地図を参照してください)。同様な形状を近隣にあった中島飛行機半田工場、陸軍の清洲飛行場も採用していたそうです。

冬に風が強かったことを除けば、さほど離着陸の難しい飛行場ではなかったようです。

敗戦の日、1945年(昭和20年)8月15日、大府飛行場には何機もの四式重爆撃機「飛龍」(下の video を参照してください。) が残っていました。昨日までの活気は無くなり、誰もが虚脱感に襲われていたそうです。工場長は飛行機を飛ばすことを思い付きました。連合軍はまだ進駐してはいませんでした。警察官や消防団員、飛行場作りに力を貸してくれた近くの人たちを乗せた「飛龍」は、連合軍司令部から飛行禁止命令が出るまでの10日間、知多の上空などを悠々と飛行したのでした。


同年10月に入ってすぐ、連合軍司令部が飛行機の焼却処分を命令してきました。作業者の手で、部品は大鉈で砕かれ、完成機体はガソリンが掛けられて、焼却処分されてしまいました。

今から70年近く前の物語でした。空港は空港でも Centrair と違い、軍港でありました。



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