2013年4月3日水曜日

ワシントン・アービング(Washington Irving) とアルハンブラ (Alhambra)

ワシントン・アービング(Washington Irving, 178343 - 18591128日)は、19世紀前半のアメリカ合衆国の作家です。
ワシントン・アービングは、230年前、1783年の今日、43、ニューヨークの裕福な商人の家に生まれました。初め弁護士を志して法律事務所に勤めましたが、まもなく法律よりも文学に興味を覚え、1802年から翌年にかけて、ニューヨークの社交界を風刺した『紳士ジョナサン・オールドスタイルの手紙』を新聞に寄稿しました。足掛け3年に及ぶヨーロッパ旅行ののち、長兄らとともに、イギリスの「スペクテイター」を模した雑誌「サルマガンディ」を創刊し(1807)、一年後雑誌が廃刊になるまで劇評などを毎号寄せていましたが、やがて諧謔と風刺に満ちた『ニューヨーク史』(1809)を出して文名を認められるようになりました。
1815年、一家の者が経営する商会の代理人として渡英、結局17年間海外に留まることになりましたが、渡英して3年自に勤め先が破産したために文筆で立たざるをえなくなり、まず『スケッチ・ブック』を発表しました。『リップ・バン・ウィンクル』など自国の民間の伝承を扱ったもの、イギリスの風俗習慣を描いたものその他、34編のロマンティックな文章が集められていますが、アービングはこの一作でアメリカの文学者として最初に国際的な名声を勝ち得ることができたのです。続いて、同じ傾向の物語集『プレイブリッジ邸』(1822)と『ある旅人の物語集』(1824)を出版します。
1826年から1829年にかけてスペインのアメリカ公使館に勤める間にスペイン文化に親しみ、『コロンブス伝』(1828)、『グラナダの征服』(1829)、ムーア人の歴史や伝説を扱った極めてロマンティックな『アルハンブラ物語』(1832)などを書きました。その間にセビージャなどではスペインの作家  フェルナン・カバジェーロなどとも親交を持ちます。1832年に帰国、西部旅行記『大草原への旅』(1835)、著名な皮革商 JJ・アスター一家の歴史『アストーリア』(1836)、かねて私淑していたゴールドスミスの伝記などを出版(1840)します。1842年から足かけ4年間スペイン公使を勤めて帰国しました。晩年の大著には『ワシントン伝』(五巻、1855-1859)があります。
アービングは現実に背を向け、もっぱら過去に生きようとした作家であり、またその作品の世界はロマンティシズムを基調としているので、今日から見れば飽き足らなく思えはするものの、代表作『スケッチ・ブック』は、長く読者を持ち続けるでありましょう。我が国では、特に『『リップ・バン・ウィンクル』』が、森鴎外の訳があることも手伝って、明治以米多くの人々に親しまれ続けています。
また、『アルハンブラ物語』も邦訳が複数出版されています。
さて、*「赤い砦」を意味すると云われるアルハンブラ宮殿ですが、太陽が赤く染まる時刻に、アルバイシンの丘の中腹にあるサン・ニコラス広場から見るアルハンブラは朱色に美しく輝いており、本当に「赤い砦」そのものです。
*「赤い砦」という意味以外にも諸説あるようですが、今回は採り上げません。
イスラム芸術の粋グラナダ市内南東、ダロ川左岸の丘の上に建つアルハンブラ宮殿は大きく分けて王宮、ヘネラリフェ(離宮)、アルカサバ(城砦)、カルロス 5世宮殿の4つからなっています。
後ウマイヤ朝に建造されたアルカサパの拡張工事に、ナスル朝グラナダ王国(1238-1492)の建国者ムハンマド1世が着手しました。以後増改築が重ねられ、14世紀に ユースフ1世、ムハンマド5世父子によってアルハンブラ宮殿は完成を見たのです。3つの宮殿(パルタル宮、獅子宮、コマレス宮)と中庭、そしてヘネラリフェはイスム芸術の粋であるとともに人類の宝です。当然ですが、ユネスコの世界遺産にも認定されています。
主に木材と煉瓦を建材として用いた宮殿の外観は質素ですが、その内側は、迫り来る滅亡の危機から逃避するかのような非現実的な空間が広がっています。
元来砂漠の民であったベルベル人の水への憧憶を形にした中庭や庭園は、コーランにある「小川の流れる庭」そのものと云えます。また壁や天井に施された精緻を極めた装飾、例えばコマレス宮のファサード(正面)2姉妹の間のモカベラと呼ばれる鍾乳石装飾の天井は、見るものに眩暈を覚えさせるほどです。当時のイスラムの科学技術、土木・造園技術、そして美意識がいかに優れていたかを物語るものです。
とりわけ目を見張るのは、水の利用技術で、シエラネバダ山脈に水源を持つダロ川の上流に貯水池を設け、僅かな傾斜を利用して王宮の隣の丘にあるヘネラリフェに送り込んでいます。高低差で圧力のかかった水は四季の花々が咲き乱れる庭園の噴水から噴き上り、次いで王宮へと滑り落ち、獅子の中庭を始めとする中庭で再び水音を立てるのです。
獅子の中庭には,詩人イブン・ザムラク(1333-1393)の「この比類ない美しさに匹敵するものを見出すことはアッラーでも難しいだろう」という詩句が刻まれています。
1492年にナスル朝は滅亡しました。最 後の王となったボアブディルはイサベル女王とフェルナンド王のLos Reyes Católicos「カトリック両王」に宮殿を明け渡した。このときボアブディルは「神の覚えのめでたい方、これはこのパラダイスの鍵です」と二つの入り口の鍵を2人に差し出したと云われています。
詩人マヌエル・マチャード(1874-1947)は,アルハンブラ宮殿のあるグラナダを「目に見えない水の畷り泣き」と表現しましたが、「水の楽園」を失ったボアブディルの悲しみをそこに込めたのでありましょう。
カトリック勢力に奪われたものの、宮殿はその美しさゆえ破壊されることはありませんでした。しかし16世紀に入ると,カトリック両王の孫である Carlos I de España カルロス1世 (神聖ローマ帝国皇帝カール5世、1500-1558) が宮殿の一部を取り壊し、ルネ サンス様式の巨大な宮殿の建設に取り掛かりました。それがカルロス5世宮殿です。スペインの凋落によって資金調達がままならず、屋根のないままになってしまったこの宮殿は、今では野外コンサートなどに利用されていますが、繊細で美しい宮殿を威圧するかのような佇まいは無粋としか言いようがありません。
その後、アルハンブラ宮殿は王室の農園・猟地として維持されるものの、宮殿は荒廃するにまかされました。そこに救世主が現れたのです。上記ワシントン・アービングです。『ア ルハンブラ物語』というアービングの著作によってアルハンブラ宮殿はその価値が再発見 されることになったのです。アービングの貢献を称え、『アルハンブラ物語』が執筆された部屋は今もそのまま維持されています。Ernesto Mr. T 2度だけですが、このアルハンブラ宮殿を訪れたことがあります。もちろん、小脇にワシントン・アービングの『ア ルハンブラ物語』を抱えての訪問でした。どちらも英語原作ではなく、スペイン語訳を携えての訪問でした。
ワシントン・アービングは流暢なスペイン語を話し、そのことでスペインに関する著書は素晴らしいものとなっていると云われています。また、ドイツ語やオランダ語など、他にも幾つかの言語を読むことができたそうです。ワシントン・アービングの著書はそういった語学的能力による情報収集の賜物と云って良いでしょう。
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