2013年6月6日木曜日

人間風車 Harry Greb nació ハリー・グレブ誕生 (1894年) ミドル級ボクシング molino de viento

最近 五輪金メダリストの村田諒太選手のプロ入りで関心が高まっているボクシングのミドル級ですが、嘗て信じられないような強者がおりました。

今日は その Human Windmill「人間風車」こと Harry Greb 選手の誕生した日なのであります。



Edward Henry "Harry" Greb (June 6, 1894 – October 22, 1926) was an American professional boxer. He was the World Middleweight Champion from 1923 to 1926 and the American Light Heavyweight Champion from 1922 to 1923. He fought a recorded 303 times in his 13 year-career, against the best opposition the talent-rich 1910s & 20s could provide him, frequently squaring off against light heavyweights and even heavyweights. Widely considered one of the best fighters of all time, Greb was named the 7th greatest fighter of the past 80 years by The Ring Magazine, the 5th greatest fighter of all-time by historian Bert Sugar and ranked as the #1 middleweight and the #2 pound-for-pound fighter of all-time by the International Boxing Research Organization.

He had a highly aggressive, very fast, swarming style of fighting and buried his opponents under a blizzard of punches. Greb was also a master at dirty fighting and had no qualms about employing all manner of dubious tactics, such as spinning his opponent and using the heel and laces of his gloves. Greb often got as much as he gave and unbeknownst to the press continued to fight a number of matches even as he became blind in one eye, due to an injury suffered in an earlier match. The 'Pittsburgh Windmill' was also very durable, suffering only 2 TKO losses. The first was in his seventh bout and the second happened 3 years later when Greb broke the radius of his left arm. Greb finished the round but was unable to continue the fight. The second was in a bout where Greb was heavily outweighed.

自身もボクシングを幾らかしていたノーベル賞作家の Ernest Hemingway が、「Harry Greb を知らないということは、我々の時代の最も偉大なアメリカ人を知らないということだ」と讃えるほどの凄さだったのであります。タイム・マシンがあれば、Ernesto Mr. T も是非 生で試合を観たかった、そんな拳豪なのです。

しかし、その人生は僅か32年の短いものでした。


 1926年10月22日、32年間猛烈に回転し続けてきた風車が突然止まりました。鼻の骨の破片を取り除く手術の失敗で、呆気なく亡くなってしまったのです。

 この不幸な手術の前、医師は Harry Greb から驚くべきことを告げられていました。この、ボクシング史上最大級の怪物は、その13年間、294戦におよぶキャリアの後半の試合を(つまり、全ての世界タイトル戦も含む試合を)片目で戦っていたというのです。

 死の年、Harry Greb は当時としては抜群のスピード・ボクサーだったタイガー・フラワーズをとらえきれず、世界ミドル級王座を追われていました。Harry Greb は、砕けた鼻骨が目に食い込んで視界を塞いでいたのを手術によって除去し、フラワーズに雪辱しようと目論んでいたのです。

 Harry Greb の目の秘密を聞いて、誰もが驚きを隠せませんでした。「ピッツバーグの人間風車」の戦いぶりはそれほど鮮烈で、狡猾で、圧倒的なものだったのです。 Harry Greb は一発必倒のパンチャーでこそありませんでしたが、ボクシングのあらゆるテクニックに通じていました。輪島功一選手並みのトリッキーな動きを幻惑的に用い、どんな角度からでも威力のある パンチを打ちこむことができました。反則技も自在に使え、「ダーティ・ファイター」とも呼ばれましたが、ボクシング史上3番目に多い294試合を戦い、反則負 けは1度しかありません。戦績は112勝8敗3分1無効試合、更に170試合の無判定試合を戦い、ほぼ全ての試合に事実上勝利していました。

 Harry Greb の数多い名勝負の中でも、最大のものとされるのが、1922年5月23日に行われたジーン・タニーとの全米L・ヘビー級タイトルマッチです。後に世界ヘ ビー級王者として史上屈指テクニシャンとの評価を受けることになる Gene Tunney ジーン・タニーを、Harry Greb は持ち前の荒くれファイトで翻弄してしまったのです。

 生まれながらの理想的なミドル級の体格だった Harry Greb は、パワーの点では明らかに不利でした。しかし、Harry Greb は激しく、かつ頭脳的な動きで若きジーン・タニーの神経を掻き乱していったのです。あらゆる角度からのショートブロー、時折頭突きや肘打ちさえ交えながらのラフファイトに、ジーン・タニーは消耗していきました。15回を戦い抜いて Harry Greb の手が挙がったこの試合は、リング史のもうひとりの巨人ジーン・タニーが生涯に喫した唯一の敗北としても記憶されています (次の foto)。



 
 Harry Greb は所謂トレーニングというものを全くしなかったそうです。怠惰だったというわけではありません。平均して年間22試合をこなし続けた Harry Greb にとって、実戦がトレーニ ングだったのです。試合以外の時間は、何人もの女性を連れてドライブをし、時々喧嘩もするというのが Harry Greb の日常でした。

 Harry Greb は、1度だけ 英国はロンドンのアルバート・ホールのリングに上がり行儀の良い英国ボクシングファンの不興を買ったことがありますが、それ以外は、海外では試合を行なっていません。しかし、逆に米国内では「Harry Greb が上がらなかったリングはない」と言われるほど旅をし、戦い続けました。

 そして不敵な態度とダーティな試合振りで、Harry Greb はどこの町でもヒール(悪役)としてリングに上がりました。入場するときも、また相手を血祭りにあげて引き上げていくときも、Harry Greb の背中には常にブーイングが投げつけられました。Harry Greb はそんな役回りをひどく気に入っていたそうなのです。Ernesto Mr. T はただ感心するばかりです。

 さて、話が前後してしまいましたが、 Harry Greb は 1894年の今日、6月6日にピッツバーグでハンガリー系移民の子として誕生しました。Edward Henry Berg というのが本名です。生まれながらのファイターでした。幼い頃、母親さえ殴りつけて顔に痣を作らせたそうです。

 16歳になった時、Edward Henry Berg は Henry を愛称形の Harry にし、更に姓の Berg を逆さ読みして Greb とし、Harry Greb というリング・ネイムで、各地のプロモーターに自分をプライズ・ファイターとして使 うよう売込みを始めました。精力的にリングに上がり続け、1913年のデビューから2年で30戦以上をこなし、完成されたファイターになっていきました。デビューの年、ジョー・チップにKO負けを喫したことありますが、以後2度とストップされることはありませんでした。

素人目には荒っぽいだけに見えた Harry Greb のボクシングは、数多くの実戦によって緻密に作り上げられた戦術の複合体でした。じーん・タニーだけではなく、マイク・マクタイグ、トミー・ローラン、ミッキー・ウォーカー、バトリング・レビンスキー、ガンボート・スミス、アル・マッコイといった、ミドル級からヘビー級までの当時一流のファイターたちがグレブの魔手にからめとられていきました。 世界王座に辿り着いたのは 1923年8月でした。ジョニー・ウィルソンを判定に下しての戴冠でしたが、既に200戦以上をこなしていました(そして左目の視力を失っ てもいたのです)。

 世界王座を3年間で6度守った頃の Harry Greb は、当然視力のハンディもあって全盛ではなかったでしょうが、それでも強豪をしりぞけ続けたのです。とりわけ伝説となっているのが、のちにウェルター及びミドル級二冠王となる「トイ・ブルドッグ」ミッキー・ウォーカーを迎えての防衛戦でした。ともに歴史に 名高い獰猛なラフファイターでした。息次ぐ間もなく15回を打ち合った戦いは、とりあえずレフェリーが Harry Greb の手をあげることで終わりましたが、Harry Greb とミッキー・ウォー カーがどこかで顔を合わせようものなら、どこであれ「続き」が始まったそうです。

 無敵のヘビー級王者ジャック・デンプシー打倒の一番手とさえ考えられたこともある Harry Greb でしたが、上記のような理由で実現しませんでした。

 Don Quijote が 実在していたら、Harry Greb という molino de viento へ挑戦したでしょうか。

 1926年2 月タイガー・フラワーズに判定負けで王座を失い、再戦でも判定で敗れたしまいました。そして、雪辱を考えての冒頭の手術の後、呆気なくこの世を去ったのです。Amen。




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