2013年4月7日日曜日

Fernán Caballero murió. フェルナン・カバジェーロ 歿 (1877年)


Fernán Caballero era el seudónimo utilizado por la escritora en español Cecilia Böhl de Faber y Larrea (Morges, Cantón de Vaud, Suiza, 24 de diciembre de 1796 – Sevilla, España, 7 de abril de 1877).
Cecilia, nacida en Morges, Suiza, el 24 de diciembre de 1796, era hija del cónsul alemán Juan Nicolás Böhl de Faber y de Frasquita Larrea (española). Tomó el seudónimo de la población ciudadrealense de Fernán Caballero, aunque también escribía utilizando el de Corina.
Durante sus primeros años vivió en Alemania hasta que regresó con su familia a la ciudad de Cádiz en 1813, a la edad de 17 años. Contrajo matrimonio el 30 de marzo de 1816 con el capitán de infantería Antonio Planelles y Bardaxí. La pareja se mudó a Puerto Rico, ya que su esposo había sido destinado a dicha plaza, pero ese matrimonio duraría poco por el fallecimiento de don Antonio.
Después se trasladó a Hamburgo, al norte de Alemania, donde vivió con su abuela. Algunos años más tarde se mudó nuevamente a El Puerto de Santa María, España, donde conoce a Francisco Ruiz del Arco, marqués de Arco Hermoso. El 26 de marzo de 1822 contrae segundas nupcias con él en Sevilla. En mayo de 1835 enviudó nuevamente.
Poco tiempo después conoció a Antonio Arrom de Ayala, con quien contrajo matrimonio en 1837. Pero Ayala estaba enfermo de tisis y con graves problemas económicos que hicieron que se suicidara en 1863 (¿1859?). Quedó así la escritora en la pobreza. Los duques de Montpensier y la reina Isabel II la protegieron y le brindaron una vivienda en el Patio de las Banderas del Alcázar de Sevilla, pero la revolución de 1868 la obligó a mudarse debido a que las casas fueron puestas en venta.
Falleció en Sevilla el 7 de abril de 1877.



フェルナン・カバジェーロ Fernán Caballero (男性名ですが、実は本名 セシリア・ベール・デ・ファベール Cecilia Böhl de Faber y Larrea という女性、1796年12月24日-1877年4月7日)は、ロマン主義の余韻をまだ残しながら写実主義小説の端緒を開いたと云えるでしょう。ドイツ人貿易商でスペイン文学の研究かでもあった父とスペイン人の母との間に旅行先のスイスで生まれ、9歳からドイツで教育を受けたあと、17歳のときに父の仕事の関係でスペイン南部のカディスに移り住みました。1816年・20歳のときに Antonio Planelles y Bardaxí と結婚し、プエルト・リコに滞在しますが、数年後には夫が急死したことによって一旦ドイツの祖母の元へ行き、更にカディス(正確には 闘牛で有名な El Puerto de Santa María)に戻ることとなりました。その後、 Francisco Ruiz del Arco (侯爵) と2度の結婚を経験しましたが、このときも 1835年に夫に先立たれています。1822年に結婚したこの2番目の夫 Francisco Ruiz del Arco とは十数年連れ添い、比較的幸福な結婚生活を送りながら何篇かの作品を書くことができました(その間には、先日お話した、あの Washington Irving と1822年に会い、自作を見てもらい、励ましの言葉を受けたそうです。)が、18歳年下であった3番目の夫 Antonio Arrom de Ayala (1837年に結婚)との生活は波澗万丈でした。経済的苦境に陥ったこともあり、Fernán Caballero という男性名で『かもめ』La gaviota を新聞に連載したところ大成功を収め、更に次々と作品を発表し、文筆家として社交界にも積極的に顔を出していた頃、病弱でもあった夫 Antonio Arrom de Ayala は1859年(1863年という情報もあります。)に事業の失敗からロンドンで自殺しまったのです。その後、貧困の中で生活することとなりましたが、Montpensier 公らと Isabel II 女王の加護で Sevilla で生活を送れるような配慮も受けました。しかし、1868年の革命でそこも離れざるを得なくなってしまいました。そして、1877年の今日、4月7日、独り隠遁生活を送っていた Fernán Caballero は Sevilla で息を引き取ったのです。
Fernán Caballero は以上のように生涯の大半を過ごしたスペイン、特にアンダルシア地方をこよなく愛し、自由主義者に対してはあからさまに敵意を示し、伝統派の立場を貫きました。熱烈なカトリック信者であり、教会の教えや道徳面を重視したこともあって、作品の中にもその形跡が少なからず見受けられます。それゆえ小説空間ですら、カトリックの教えに符合しないときには現実さえも歪曲して描くことがありました。Fernán Caballeroが書こうとしたのは荒んだ19世紀のスペイン社会ではなく、過去を理想化したようなスペインであり、しばしば都会と田舎の生活を対比させては田舎に見られる美徳を礼讃しました。
しかしながら、叙述に対する基本的姿勢は、民衆の考えや生活の様子、社会の現実を正確に伝えることにありました。多くの場合、周囲の人々をモデルに実際に起きたことや自分自身の体験を書き上げたので、登場人物の身元が割れないようにするのにかなり気を配ったと云われています。それでも Fernán Caballero の筆に掛かると、独自の世界観から来る現実のイメージが浮上し、ときには写実主義の作家に見られる科学的な目で描写しようという手法は影を潜め、現実が偶像化されて個性豊かなものとなっています。
なお、Fernán Caballero の他に Corina という名を用いて執筆したこともあるそうです。
Fernán Caballero の代表作は何といっても『かもめ』La gaviota (1849年)でしょう。『かもめ』については次回お話することにします。
最後は、少し前に記した Washington Irving の YouTube の video を観ることにしましょう。そこに Fernán Caballero の話題も登場するからです。以下のサイトです。
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