103年前の今日、1910年4月26日に、ノルウェーの文豪、ビョルンソンが亡くなりました。--- ビョルンスティエルネ・ビョルンソン(Bjørnstjerne Bjørnson, 1832年12月8日 − 1910年4月26日)
ビョルンソンは、牧師の子に生まれ、幼少の頃から「サガ」やウォルター・スコットを耽読していたそうです。学校では仲間を組織してボス的な少年たちを懲らしめ、18歳で早くも首府で演説を行なうなど、早くから指導者の素質を示していました。まずジャーナリズムに進出、演劇批評を試み、劇に対して芸術的価値に加えて国民精神高揚の役割を要求しました。1856年にスウェーデンの聖地ウプサラを訪れ、スウェーデン人の国家意識の強さに感動し、帰国後2週間で、中世北欧の首領を主人公とする戯曲『戦いの問』を書き、翌年は小説『日向丘の少女シンネーべ・スールバッケン』を出して、早くも新文学の旗手と目されました。後者は谷間の痩せ地の農家の息子トールビョルンが、富農の娘シンネーべに少年時代から憧れているのですが、性質が粗暴でライバルと喧嘩して死にそうになるなど、さまざまの苦難を経て立派に成人し、めでたく娘と結婚するという物語です。次いで発表された『アルネ』(1858年)、『陽気な少年』(1860年)などの小説とともに、雄大なノルウェーの自然を背景に、清純で素朴な青春の愛と夢を描いて世界文学の一珠玉となっています。そこにはビョルンソンが育ったロムスダール地方の明るい農村風景が影を落とし、またスタイルの上では、「サガ」や民話やアンデルセン童話の手法を採り入れて独自な清新さを見せています。そしてその背後には、グルントビー的な愛の宗教としてのキリスト教が流れています。
1857年から1859年までは、イプセンの後継者としてベルゲンの劇場舞台監督を務めましたが、次第に政治の舞台にも進出し、スカンジナビア連合運動やノルウェーの独立のために奮闘し、隠然たる国民の指導者となりました。しかしビョルンソンは、ィプセンが鋭く社会を分析し、そこに対立を見出し、社会悪を摘発したのと対蹠的に、対立する諸勢力をまとめてより高い目的のために協調させることを自らの使命としました。創作面にもこの傾向は表われ、『スべレ王』(1861年)、『シーグルト・スレンベ』(1862年)などの戯曲や『ベルグリョート』(1862年)、『アルンリョート・ゲリーネ』(1870年)の叙事詩は、全て民族精神の高揚と統一を目指しています。ビョルンソンはまたノルウェー国歌『我らこの国を愛す』(次の vido 参照)の作者でもあります。
しかし中年になると、信仰上の危機に逢着して現代社会の諸問題に肉迫するようになりました。『破産体制』(1875年)は人間性を歪める金の魔力を扱ったもので、イプセンより早く社会劇の道を切り開いた作品です。『手袋』(1883年)は男性に対して女性に対すると同様に貞操を守るととを求め、当時一大論争を巻き起こしました。ビョルンソンは「単婚か複婚か」というテーマを提げて地方を講演して回ったりしました。『人力以上』(二部、1883年-1895年)は宗教と社会改革の問題を取り上げた力作で、ビョルンソンはこの前後から社会主義に接近していきました。晩年には国際舞台に進出し、ドレフュス事件やフィンランド、ポーランドなどの被圧迫民族のために奮戦し、「人道の戦士」と讃えられました。ビョルンソンの劇はイプセンに見られるような集約された力強さを欠いてはいますが、人生肯定的で、ユーモアと暖かい抱擁力を備え、捨てがたい魅力を持っています。1903年にはノーベル賞を受賞しています。ビョルンソンの肖像は以下のように長らく50クローネ紙幣に描かれていました。
『人力以上』、第1部『信仰の悲劇』は、極北の壮大な白然を背景に、熱烈純一な信仰を持つ牧師サングの貧者や病人に対する献身的友生活が中心で、第2部『社会的悲劇』は、その遺児ラヘル、エリアスの姉弟が社会主義者ブラットから深い影響を受け、社会事業に参加したり、労働者のストライキに加わって、社会の良心を目覚めさせようと努力する姿を描いています。ビョルンソンの思想劇、問題劇の頂点とされる戯曲であります。
Bjørnstjerne Martinus Bjørnson (Kvikne, 8 de diciembre de 1832 - París, 26 de abril de 1910) fue un escritor noruego que recibió el premio Nobel de Literatura en 1903.
Descendiente de una antigua familia de campesinos, hizo sus primeros estudios en Molde y leyó ávidamente, fuera de la escuela, las antiguas sagas, las novelas de Ingemann y Walter Scott y los textos de Asbjörnsen. Participó como ardiente republicano en la Revolución de 1848. Llegado a la Universidad de Cristianía la abandonó muy pronto para dedicarse a la literatura y la crítica teatral. y se trasladó a Copenhague. Dirigió el teatro de Bergen (1856-1859) y el de Cristianía (1865-1867), y fundó en esta última ciudad uno propio (1877-1882).
Realizó largos viajes a Italia, los Estados Unidos y Alemania. Fue periodista de la oposición democrática, adversario de la unión entre Noruega y Suecia y partidario de la izquierda radical. En 1903 recibió el premio Nobel de literatura.
Escribió bajo la inspiración del Romanticismo medievalizante Entre batallas, El rey Sverre y Sigurd Slembe. Las enseñanzas de Georges Brandes le hicieron pasar a escribir dramas de tesis como Recien casados, El periodista, Una quiebra, Leonarda, Un guante y Más allá de las fuerzas humanas. Siguieron las novelas y narraciones La hija del pescador, El capitán Mansana y Las sendas de Dios. En 1870 publicó las poesías dispersas por sus escritos con el título de Poesías y cantos con partituras de Edvard Grieg, Kjerulf, Nordraak etcétera. También cultivó la comedia ligera con piezas como Amor y geografía o Cuando florece la vid nueva.
Sus novelas primigenias, como Synnove Solbakken (1857), trataban sobre la vida campesina. En sus obras posteriores, entre las cuales hay dramas, como Kong Sverre (1858), Sigurd Slembe (trilogía, 1862), En Fallit (1874); comedias, como Nygifte (1865); y narraciones, como Magnhild (1877), pudo demostrar la vida y costumbres de su país, y sus temas principales eran de reforma social. En sus obras mostró opiniones liberales y democráticas, promulgó el individualismo y la fe en la verdad y la naturaleza.
De su obra poética se puede mencionar Bergliot (poema épico, 1865) y la recopilación de poesías que lo erigieron como poeta nacional, Digte og sange (1870), de la que se destaca la conocida Ja, vi elsker dette landet (Sí, amamos esta tierra), que se ha convertido en el himno nacional noruego.
我が国でも 嘗ては 以下のように多々の邦訳が出版されました。現在入手可能なもの(大半は古書)を下記買い物欄に載せておきました。
喜 家庭小説 (三浦関造訳 彩文館 1911年6月)
レオナルダ (滝村立太郎訳 金港堂(西洋名劇集) 1911年6月)
アルネ (矢口達訳 新陽堂 1912年5月)
新一幕物 人力以上 (森鴎外訳 籾山書店 1913年)
若き葡萄の花咲く頃 (島村民蔵訳 演劇無名会 1914年)
森の処女 (三上於莵吉訳 新潮社 1918年)
近代劇五曲 続 新夫婦 (小山内薫訳 国文堂書店 1921年)
アブサロムの髪 (渡辺清訳 聚英閣 1921年)
近代劇大系 第4巻 人力以上 (吉田白甲訳 近代劇大系刊行会 1925年)
アルネ シンネエヴェ・ソルバッケン 手套 (生田春月訳 世界文学全集 第27巻 新潮社 1928年)
日向丘の少女 アルネ (宮原晃一郎訳 ノーベル賞文学叢書 6 今日の問題社 1940年)
短篇小説読本 第1輯 父親 (三輪健太郎訳 桜華社出版部 1943年)
日向が丘の少女 (大滝重直著 講談社(世界名作全集) 1954年)
日向丘の少女 シュンネーヴェ・ソルバッケン (山室静訳 角川文庫1954年)
父親、熊狩りの名人、まごころ、鷲の巣、クロ (山室静訳 世界文学全集 河出書房新社 1957年)
楽しい少年 (植田敏郎訳 世界少年少女文学全集 東京創元社 1958年)
日向が丘の少女 (矢崎源九郎訳 少年少女世界文学全集 37(北欧編 3) 講談社 1961年)
日向が丘の少女 (森いたる訳 岩崎書店(世界少女名作全集) 1963年)
人の力を超えるもの (毛利三弥訳 ノーベル賞文学全集 19 主婦の友社 1972年)
日向が丘の少女 岡上鈴江文 集英社 1973 (母と子の名作文学
アルネ (小林英夫訳 岩波文庫 1975年)
日向が丘の少女 (立原えりか 集英社(マーガレット文庫世界の名作) 1976年11月)
日なたが丘の少女 (山内清子訳 小学館(フラワーブックス) 1983年5月)
父 くわしい注釈で読むノルウェー語 (岡本健志訳注 大学書林 1994年1月)
p.d. 上記最後の『父』は Junkudo名古屋駅前店に一冊ありました。(4月26日午後再確認しました。インターネット上では何故か取り扱われていません。)