2012年7月20日金曜日

永井荷風「黄昏の地中海」の中の西班牙

永井荷風 の「黄昏の地中海」の前半部分に いくらか西班牙の描写が出て来ます。

ガスコンの海湾を越え葡萄牙ポルトガールの海岸に沿うて東南へと、やがて西班牙スペイノの岸について南にマロツクの陸地と真白なタンヂヱーの人家を望み、北には三角形なすジブラルタルの岩山いはやまを見ながら地中海に進み入る時、自分はどうかして自分の乗つて居る此の船が、何かの災難で、こはれるか沈むかしてくれゝばよいと祈つた。
さすれば自分は救助船に載せられて、北へも南へも僅か三マイルほどしかない、手に取るやうに見えるむかうの岸にる事が出来やう。心にもなく日本に帰る道すがら自分は今一度ヨーロツパの土を踏む事が出来やう。ヨーロツパも文明の中心からはとほざかつて男ははでな着物きて、の窓下にセレナドを弾き、女は薔薇の花を黒髪にさしあらはなる半身をマンチラに蔽ひ、夜を明してたはむるゝ遊楽の西班牙を見る事が出来るであらう。
今、ふなばたから手にとるやうに望まれるむかうの山――日に照らされて土は乾き、樹木はく、黄ばんだ草のみに蔽はれた山間に白い壁塗りの人家がチラ/\見える、――あの山一ツ越えれば其処はすなはちミユツセが歌つたアンダルジヤぢやないか。ビゼーが不朽の音楽を作つた「カルメン」の故郷ぢやないか。
目もくらむ衣裳の色彩と熱情湧きほとばしる音楽を愛し、風の吹くまゝ気の行くまゝの恋を思ふ人は、誰れか心を*ドンジヤンが祖国イスパニヤにせぬものがあらう。
熱い日の照るこの国には、恋とは男と女の入り乱れてたはむれる事のみを意味して、北の人の云ふやうに、道徳だの、結婚だの、家庭だのと、そんな興のさめる事とは何の関係もないのだ。祭礼まつりちぎりを結んだ女の色香に飽きたならば、直ちに午過ひるすぎ市場フエリヤきての女の手を取り給へ。若し、其の女が人の妻ならば夜の窓にひそんで一挺のマンドリンを弾じつゝ、Deh, vieni alla finestra, O mio tesoro!(あはれ。窓にぞ来よ、わが君よ。モザルトのオペラドンジヤンの歌)といざなひ給へ。して、事あらはれなば一振ひとふりやいばに血を見るばかり。じやうの火花のぱつと燃えては消え失せる一刹那いつせつなの夢こそすなはち熱き此の国の人生のすべてゞあらう。鈴のついた小鼓に、打つ手拍子踏む足拍子の音烈しく、アンダルジヤの少女をとめが両手の指にカスタニエツト打鳴らし、五色ごしき染色そめいろきらめくすそを蹴立てゝ乱れ舞ふ此の国特種の音楽のすさまじさ。嵐の如くいよ/\たけなはにしていよ/\急激に、聞く人見る人、目もくらみ心もくつがへがくまひ、忽然として止む時はさながら美しき宝石の、砕け、飛び、散つたのを見る時の心地に等しく、初めてあつと疲れの吐息といきすばかり。この国の人生はこの音楽の其の通りであらう……
然るを船は悠然として、が実現すべからざる欲望には何の関係もなく、左右のふなべりに海峡の水を蹴つて、遠く沖合に進み出た。突出つきでたジブラルタルの巌壁は、其の背面に落ちるからの夕日の光で、燃える焔の中に屹立きつりつしてゐる。其の正面、一帯の水をてたタンヂヱーの人家と低く延長したマロツクの山とは薔薇色から紫色にと変つて行つた。
然し、徐々おもむろ黄昏たそがれの光の消え行く頃には其の山も其の岩も皆遠く西のかた水平線の下に沈んで了ひ、食事を終つて再び甲板の欄干に身をせた時、自分は茫々たる大海原の水の色のみ大西洋とは驚く程ちがつた紺色を呈し、天鵞絨びろうどのやうになめらかに輝いて居るのを認めるばかりであつた。
けれども、この水の色は、山よりも川よりも湖よりも、また更に云はれぬ優しい空想を惹起ひきおこす。此の水の色を見詰めて居ると、太古の文芸がこの水のたゞよふ岸辺から発生した歴史から、美しい女神によしんベヌスが紫の波よりいでたと伝ふ其れ等の神話までが、如何にも自然で、決して無理でないと首肯うなづかれる。
星がきらめき出した。其の光は鋭く其の形は大きくて、象徴的な絵で見る如く正しく五つの角々かど/\があり得るやうに思はれる。空は澄んで暗碧あんぺきの色は飽くまで濃い。水は空と同じ色ながら其のはつきりと区別されてゐる。すべてがでも――月もない夜ながら――云ふに云はれずあかるくて、山一つ見えない空間にも何処かに正しい秩序と調和の気がかよつて居るやうに思はれた。あゝ端麗な地中海のよ。自分は偶然輪郭の極めて明晰めいせきな古代の裸体像を思出した。クラシツク芸術の美麗を思出した。ベルサイユ庭苑ていゑんの一斉に刈込まれた樹木の列を思ひ出した。わが作品もかくごとくあれ。のやうなとした憂愁の影に包まれて、色と音と薫香くんかうとの感激をもて一糸を乱さず織りなされた錦襴きんらんとばりの粛然として垂れたるが如くなれと心に念じた。

*Don Juan のことでしょう。



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