2012年10月19日金曜日

Miguel Ángel Asturias ミゲル・アンヘル・アストゥリアス Guatemala


Miguel Ángel Asturias は、1899年の今日、10月19日、グァテマラ市郊外で生まれました。父親は Mr. T と同じく Ernesto という名で弁護士・判事、母親の María Rosales は小学校の教師でした。アストゥリアス家は1770年頃、スペインからグァテマラに移って来たのでした。ミゲル・アンヘルの血の中には、母親を通じインディオの血が、父親のスペインの血と入り交じっていたと言われています。大柄で、どっしりとして、かぎ鼻をした顔には、マヤの石像を想わせるものがありました。
母親の物語ってくれるインディオの不思議な伝説に親しんで育ちました。その魔術のような伝説の世界は、のちにアストゥリアスの文学の中に不思議な影響を与え、realismo mágico へと発展していったようです。
1898年からグァテマラの運命をその手に握った独裁者 Manuel Estrada Cabrera は、1899年にはユナイテッド・フルーツ会社に、グァテマラの門戸を 広く開け放ち、グァテマラを「外国独占体のなかにある国家」に変えてしまいました。Manuel Estrada Cabrera は、反抗的な自由主義者たちまで迫害するに至ります。アストゥリアス一家も、1903年この迫害を 逃れて、首都から田舎町のサラマに移りました。
1916年、アストゥリアスは大学に入学し、最初は医学部に籍を置きましたが、解剖台に並べられた死体を見たとき、自分が医師にむかないことに気付き、翌年、法学部に移りました。
当時、独裁打倒の運動は盛んになっていました。自由を要求する人民を、聖職者までが励ましました。1919年3月、「グァテマラ人民へおくる声明」の 中で、ファセリの司教は「諸君は一国の人民であって、羊の群ではない」と述べています。
1920年1月、統一党が創立され、イデオロギーと信教の違いを越えて、民主主義の隊列を大きくするよう、全ての愛国者たちに呼び掛けました。大学では、El estudiante 誌が警察の圧力にも屈しない闘争を展開しました。アストゥリアスはこの機関誌の創立者の1人であり、主要な執筆者でもありました。また、全国大学生連盟が組織されましたが、その指導者の1人となっています。
アストゥリアスは、その間も、政治運動を放棄することなく、文学の勉強を続け、1918年には、最初の詩を La opinión 紙および La campaña 紙に発表し、Cultura 誌に協力しています。独裁打倒に積極的に参加したために「1920年代の世代」と呼ばれる人たちが、この Cultura 誌に、スペイン古典詩─たとえばガルシラソー・デ・ラ・べガやフレイ・ルイス・デ・レオン風な詩をかいていたし、そこにはまた前衛的なエッセイや詩も紹介されたりしました。特にペルーの詩人サントス・チョカノがこの世代に強い影響を与えました。サントス・チョカノはメキシコ革命にも参加した詩人で、「原住民の野性的なアメリカ」を謳い、詩の分野に、インディオの問題を提起しました。─インディオは、あらゆる権利を奪い取られた貧乏人で、奪い取られた土地で徹底的に働かされていました。インディオは数百年来奪われてきたその権利を回復する日を待っていました。偉大な作家・詩人たちが、インディオの偉大な過去とその伝統の美しさを表現することとなります。アストゥリアスもそういった作家・詩人の1人に成長していきました。
1921年、アストゥリアスは大学の卒業論文として「インディオの社会問題」に取り組みました。大学で、社会学の講座でこの問題を研究すると同時に、ヨーロッパや北アメリカの社会学の著作を読みました。この年、メキシコで開かれた第一回学生国際会議にグァテマラ代表として出席し、そこでメキシコの学生詩人カルロス・ペリセル、ジェイム・トレス・ボデットなどと知り合うこととなりました。また、十年来、革命を進めているメキシコの新しい現実に触れました。グァテマラに帰ると、マヤ地方の町や田舎を訪れて、土着民の資料や証言を集めました。それは、卒業論文の中にとり入れられ、研究の対象となりました。
1924年7月12日、アストゥリアスはパリに着きました。パリ祭の賑わいと歓喜にすっかり魅せられてしまいました。モンパルナスのカフェ、 クーポールやロトンドには、ラテン・アメリカの作家や芸術家たちがよく集っていましたし、大学ではマヤが研究対象となっていました。ソルボンヌ広場の小さなホテルに身を落ち着けて、3年に渡る研究と文学の勉強と詩作のパリ生活をはじめました。ソルボンヌで、古代アメリカ文明およびマヤ文明に関するキャピタン博士の講義に出席しました。また、ジォルジュ・レイノーの指導する、古代アメリカ宗教のゼミナールに参加しました。レイノーは、キチェ族の 神話、『古代グァテマラの神神と英雄と人間たち』を仕上げていました。 キチェ族の聖書と言われる「ポポル・ブフ」の新しい仏訳でもありました。レイノーの提案で、アストゥリアスと同学のメ キシコ人 J・M・ウルタード・メンドーサは、この書をスペイン語に翻訳しました。このスペイン訳は1927年にパリで出版され、1930年には、アストゥリアスの最初の著書『グァテマラ伝説集』がマドリードで出版されました。
夜、アストゥリアスはモンパルナスのカフェで、多くの詩人や作家・芸術家たちに会いました。ポール・フォールやレオン・ポール・ファルグなどの詩人、アンリ・バルビュスやロマン・ローランなどの小説家たち、とりわけシュルレアリストたち─アンドレ・ブルトン、アラゴン、ポール・エリュアール、トリスタン・ツアラ、パンジャマン・ペレ、そしてロベール・デスノスなどです。また、パリ滞在下の外国作家、イリヤ・エレンブルグ、ガートルード・スタイン、トーマス・マン、ルイジ・ピランデルロ、ミーゲル・デ・ウナミムノなどとも面識を得ました。
後にアストゥリアスは、シュルレアリズムについて、次のように述懐しています。
「われわれはスペイン系アメリカ人として、生れながらにした偶像破壊者です。わがアメリカ大陸の風土の荒荒しさは、破壊の魅力をわれわれに吹き込みました。そしてシュルレアリズムは、全てを投げ捨てて、新しいものを獲得しようとするわれわれの若若しい渇きを癒してくれました。けれども、人々が私の或る作品に指摘するシュルレアリズムは、フランスの影響であるよりは遙かに、マヤ・キチェ族の神話伝説に鼓舞された精神を表わしているのです。例えば、『ポポル・ブフ』や『ザイールの年代記』の中には、われわれの知っている全てに先立つ時代の、植物的で明敏なシュルレアリズムとも呼びうるものが見いだされます。フランスのシュルレアリズムは極めて知的である、と私は思います。一方、私の本の中では、シュルレアリズムは全く魔術的な、全く違った性格をもっています。原始素朴な、小児的な精神で、現実と想像とを、現実と夢とを、綯い交ぜにするのが、インディオのやり方なのです。グァテマラは超現実主義的な国です。全てが─人間も風景も事物も、全てがそこでは、対照に満ちた並存的なイメージと狂気の、超現実主義的な寡囲気の中に漂っています。」
実際、この頃かかれたアストゥリアスの詩は、超現実主義的なものと言うよりもむしろそこには他の様々な影響が見られるのです。1925年のソネットには、バレリーの純粋詩の影響がみられますし、次の時期の詩には、ぺルレーヌ風の象徴主義や、フランシス・ジャムの内面主義の影響が見られます。
アストゥリアスは、自分が抱いている内密の世界を表現するのに、詩がそれに適当な表現形式でないことに気が付いて、詩から散文に移っていきました。こうして生れたのが、見事な散文詩『グァテマラ伝説集』でした。
これらの物語は、インディオの古い民話から発想を得ているものではありますが、そのままの描写ではありません。それは作者の豊かな想像によって、民話の初めの内容より遥かに魅惑あるものとなっています。「金の肌」という年も分からぬ老人が、ドン・チェペとニィーナ・ティーナに出会います。二人の信頼を得ようとは、子供のころ彷徨い歩いた森の話をします。こうして物語は始まりますが、読者はたちまち、魔法のような世界に引き込まれていきます。ここでは、神人同形論(アントロポモルフィズム)は独特な形をとっています。動物たちは話をしませんが、反対に、生命の無い物たちが活動します。アストゥリアスの魔法の指輪のままに、山や木や草が擬人化され、石や木の葉や音が、生命を与えられて、異常な世界を作り出しています。
「私は森の中に入って、酋長たちの行列のような木々の下を歩きました...気が付くと、たちまち、森の木々は人間に似ていました。石が眼を持っていて、あたりを見回し、木の葉が言葉を話し、流れが笑いました。太陽、月、星、空、そして大地が、みんな自分の意志で動いていました...松の木は、ロマンティックな女の睫毛で 出来ていました、...歩くたびに、木霊のすばやい兎が、跳ねて、走り、 飛びました...神さまは、気まぐれな歯医者のように、風の手で、木々を根こそぎ抜きとりました...」
アストゥリアスは、このマヤ・キチェ族の神話伝説に基づく手法を、小説の中にも取り入れました。たとえば、小説 Hombres de maíz『トウモロコシの人びと』(1949)は人間がトウモロコシから作られたというマヤ=キチェ族の神話に基づいています。つまり、トウモロコシの子孫であり、トウモロコシを神聖な作物と考える人びとと、トウモロコシを金もうけの手段だと考えている外部からきた人びとの闘争です。この紛争は、幻想的な形で措かれています。5つのエピソードからなっている Hombres de maíz は、現在もグァテマラの農民の間で生き続けている「ポポル・ブフ」の呪術的な世界を、農民が否応なしに直面している苛酷な現実と重ねあわせて提示しており、ときにはその神秘性が物語を縛り付けて、事件の論理的発展を妨げているかのようにさえ見えます。しかしこのような原始的、アニミスト的な表象によって動く雰囲気の中にも、搾取されるインディオと、野蛮な資本家たちの現実的な激しい闘争が感じられます。このようなアストゥリアスの文学的手法を、ある批評家たちは、ラテンアメリカの前衛芸術の一つの傾向としての「魔術的リアリズム」だと呼んでいます。しかし、現代のラテンアメリカの文学にも、アフリカの文学にも現れているこのような神話的幻想的な意識を抜け切れない主人公たちの表象と、実際にその主人公たちが行なっている闘争とを対比して考えてみるとき、これは単に手法の上の新しい傾向とだけ考えることはできません。現代のラテンアメリカでも、アジアでも、アフリカでも、帝国主義の植民地支配の結果として、社会発展の非常に異なった段階にあるいろいろの人民が、解放闘争に参加するようになっているからです。これらの人民の帝国主義的な現実に対する抗議は、初めの段階では、しばしば素朴な、遅れた、宗教的、神秘的なイデオロギーの形態をとって現れてきます。 Hombres de maíz も、この抗議が初めて現れた、最も遅れた形態で表現されているのです。
El Señor Presidente『大統領閣下』(1946)の中には、ただそこにいただけで逮捕、監禁され、拷問を受ける下町の女性、拷問の最中、生んだばかりの赤ん坊の泣き声がどこからと もかく聞こえる中、半狂乱になる女性の姿や、抱いた腕の中で泣き疲れた赤ん坊が死んでいき、大統領の腹心であった美しく若い男が獄中で惨めに死んでいきます。



El Papa verde 『緑の法王』(1954)の「緑」とはバナナの葉の滴るような緑のことです。これは、中南米のグアテマラに広大な農園を築き上げ、現地人の搾取と支配の上にウォール街の王者の一人に伸し上がるまでの一米国人の物語です。
この小説の第一部と第二部は言ってみれば2つの小説とも言えるほどに違っています。
第一部では、野心家のゲオ・メイカー・トンプソンという元船乗りが、19世紀既に郵便物の無償輸送を餌にグアテマラのバナナ産業に進出していた果実会社(小説の中では「トロピカル・プラタネーラ」社。モデルは「ユナイテッド・フルーツ」社=1889年誕生)に加わり、そのへゲモニーを握って農民から奪った土地に広大な農園を作り上げ、あらゆる悪辣な行為を重ねながらバナナ栽培を基礎にした一大植民帝国を築き上げていく様子が描かれています。
主人公のゲオがグアテマラに来たとき、彼は現地人の娘マヤリーと愛し合いますが、しかしマヤリーはゲオが現地人から土地を奪い、「緑の法王」になる野心を捨てないことを知るや、かえってゲオを離れ、土地接収に対するインディオ農民の反対運動を指導するチーポ・チポーのもとに走り、共に農民を煽動し最後にはモタグマ川に身を投げて死にます。
アメリカの大独占は現地のインディオから土地を買ったのではありません、というのはインディオらは土地を売ろうとしなかったからです。大独占は軍隊の力を借り、あらゆる卑劣な策略と陰謀により、ただこうした手段によってのみ、農民を追い出し、土地を手にし、大農園を作り上げ、インディオを農園労働者に変えることができたのです。
第一部の前半はアメリカ大資本のこうしたやり口とインディオの反抗が語られています。

     「村が寂れたのは、他でもない、大方は土地っ子の原住農民が<トロピカル・プラタネーラ社>に追い立てをくわされたからだ。今までは木一本切る権利も、草一本植える権利もなかった、そんな他所者の会社に、土地の人間が追い出されてしまったのだ」。
     「かつてスペイン人は、インディオたちの色塗りの板やイチジクの樹皮に字を刻んだ写本や、偶像や紋章などを焼き払った。そして四百年後の今日、それと同じ火が、今度はキリスト像と、聖母像、聖アントニオ像、十字架、祈祷書、数珠、聖骨、聖牌などを、ことごとく火燈のうちに消し去ろうとしていた。外には野獣のうなり声、内には蓄音機の音。外には大自然、内には写真。外にはふくいくたる香気、内にはウイスキーのビン。ドルという別の神が登場したのだ。<経済支配>(ビッグステイク)という別の宗教が生まれたのだ」。

 10年が、そした十数年が経ち、ゲオは農園全体の最高責任者となり、その権益を一層確実たらしめるために、グアテマラの合衆国への併合を(24番日の州!)さえ企みますが、(この併合は、彼にグアテマラの支配権を支えるはずでした)、この野心も考古学者を称して農園に入り込んだリチャード・ワットンが、会社が「現地でやった悪事や、迫害や、買収や、犯罪もみんな洗いざらい書いてある」報告書を国務長官に提出することによって挫折し、彼自身社長就任を辞退して“引退”し、ここで第一部は終ります。
 第二部は、いったん「緑の法王」になることを断念したゲオが、富豪の株主で、小規模農民を協同組合に組織したストーナーという男の遺産をもらった、その共同経営者らを懐柔し、この競争会社におされて危機に陥っていた自社の株を買い占めることで、ついにウォール街の王者の一人に成り上がる道程が描かれていますが、しかしリーノというゲオの懐柔を拒否して生きる自由な農民も一つの典型として登場します。
『緑の法王』はまさに米国の大独占の暴虐とそれに支配され搾取される中南米の現実の告発であり、同時に現地農民の抵抗の物語なのです。
 中南米の物語は、それがアメリカ帝国主義の本質的側面をその野蛮さと非人間性を赤裸々に暴露しているという点でも、また現在闘われている中南米の人民の闘いへの理解を一そう強めるという点でも、さらにはこの現地人民がかつてのあの偉大なマヤ文明を築いた民族の後裔であるという点でも、我々の興味を刺激し、限りない夢に誘います。
なお、日本では邦訳も出ておらず、語る人もあまりいませんが、1963年に出版した Mulata de tal 『ある混血の女』で世界的に名を広め、1967年のノーベル文学賞に輝くこととなったのです。


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