1895年10月3日(ユリウス暦9月21日)リャザンの農家生まれのセルゲイ・イェセイニン[エセーニン](Sergei Alexandrovich Yesenin、Серге́й Алекса́ндрович Есе́нин)は、教員養成学校卒業後、1912年、モスクワで働きながら詩作を開始し、15年、サンクト・ペテルブルクの詩壇に登場しました。1917年の10月革命を支持、社会革命党の詩人として活躍し、イマジニズム(映像主義)運動に関わり、農村ロシアの自然を讃えた作品で有名になりました。18年から4年間、ソロフキ、コーカサス、クリミアなどロシア各地を放浪しました。
おまえ いったい 知らないのかい?
鋼鉄の騎馬-それがもう 生き馬を負かしちゃったんだってことを?
非力な野には おまえさん いくら走ったって もう あのむかしは還らない。
(「ソロカウスト」[1920]より;「鋼鉄の騎馬」は機関車のことです)
21年、革命政権に招かれて訪ソした米国の舞踏家で22歳年上のイサドラ・ダンカン(1878-1927)と3度目の結婚をし、23年にかけて共にヨーロッパ、米国を旅行しました(その後ほどなくダンカンとも離別しました)。米国の印象を「人類最良の衝動が亡ぶ」と言い、都会の機械文明とは全く相容れなかったようです。
見果てた夢、そいつはもうよび起こさないで。
成るようにして成らなかったこと、そいつもそっとしておいて。
喪くすのも、疲れきるのも早すぎた。
そういう目にあったってこと。
(「母への手紙」[1924]より)
すべてお受けする。
万時ありのままお受けする。
穴ぼこだらけの道だって 歩いてみせるつもりはある。
洗いざらいに たましいを 十月・五月に渡してもいい。
だがしかし リラだけは 愛するこのリラだけは 渡しはせぬ。
(「ルーシ・ソヴェツカヤ」[1924]より)
イェセイニンは、国内の戦闘を導き社会の荒廃を齎した革命に次第に幻滅し、放蕩とアルコール依存のすえ、25年12月27日、レニングラードのホテル・アングレテールの一室で「さようなら友よ」を書き遺し、暖房配管から首を吊って自殺しました。ただし、死因をめぐっては、秘密警察による殺害説も取りざたされたこともあり、その死の真相は未だ解明されていない、と言った方が良いかもしれません。
さようなら 友よ さようなら
わが友、君はわが胸にある
別離のさだめ-それがあるからには
行き遭う日とてまたあろうではないか
(「さようなら友よ」[1925]より;この詩は血で書かれていました)
ロシア人たちにとってイェセイニンが国民詩人と言われる所以は、作品の読み方が無数にあり、イェセイニンに接近する者の情念如何によって、イェセイニンは無数の相貌を示すためでありましょう。
Serguéi Alexándrovich Yesenin, también transliterado como Serguéi Aleksándrovich Esenin y el nombre a veces Sergéi o Sergei con la transcripción inglesa (Сергей Александрович Есенин; Konstantínovo, Riazán, 21 de septiembre jul./ 3 de octubre de 1895 greg. - Leningrado, 28 de diciembre de 1925), fue un destacado poeta ruso.
Escucha ☞ RTVE Vidas Contadas