2013年3月23日土曜日

Amamoto Hideyo 天本英世 歿す (2003年) hispanófilo


10年前の今日、1人の hispanófilo (スペイン好き)が亡くなりました。

天本 英世(あまもと ひでよ、1926年1月2日 - 2003年3月23日)は、日本の俳優。一時期、「あまもと えいせい」の読みを用いていたこともあります。福岡県若松市(現:北九州市若松区)出身。本籍は佐賀県鳥栖市。身長180cm、体重65kgと痩せ型でした。

1943年(昭和18年)に旧制若松中学校(現・福岡県立若松高等学校)を卒業し、翌1944年に旧制第七高等学校(現・鹿児島大学)に進学しました。19歳となった1945年に学徒出陣に徴用されましたが、上官命令に逆らい続け、その度に鉄拳制裁を受けました。この経験が自身の反骨志向を育んだのです。

復学した1948年に東京帝国大学(現・東京大学)法学部政治科に入学。国際政治学を専攻し、当初は外交官を目指していましたが、当時の政府の政治姿勢に失望し、文学や演劇に没頭するようになりました。その後、東京帝国大学を中退して劇団俳優座に所属することとなりました。



1954年、28歳でオペラ『オテロ』で初舞台を踏みました。その直後に『女の園』と『二十四の瞳』 で映画に初出演しました。当初は二枚目俳優として売り出され、当初は『二十四の瞳』では天本の役は明石潮が演じる予定でした。

1958年に東宝と専属契約を結びました。以後、アクション映画や特撮映画などで個性的な脇役として活躍し、また人間離れした悪役を数多く演じました。特に岡本喜八が監督を手掛けた作品にはその大半に出演し、岡本は天本の出演場面を「自分の作品としてハンコを押しているようなもの」とまで語っています。

この時期から私生活ではファルーカとフラメンコを契機としてスペインに深く傾倒していきました。本人のスペイン趣味は1967年に出演した映画『殺人狂時代』(次の foto)にも表れており、天本が演じる溝呂木博士と仲代達矢演じる桔梗信治との決闘シーンでは、互いの左手首を縛って右手のナイフだけで戦うという「イスパニア式決闘」で行なわれ、BGMは天本がレコードを持ち込んだファルーカが用いられたりしました。また、1968年に公開された映画『クレージーメキシコ大作戦』(東宝 / 渡辺プロ)では山賊の頭領役で出演して、現地人はだしの流暢なスペイン語の台詞を披露しています。



1972年に毎日放送『仮面ライダー』で死神博士を演じ、当時の子供たちに強烈な印象を与えました。1970年代からはテレビドラマに活躍の比重を移し、主に不気味な存在感を放つ悪役として活躍しました。

1979年3月から7ヶ月間にわたりスペインを旅行し、その旅行記を1980年に『スペイン巡礼:スペイン全土を廻る』(話の特集)という著書として発表しました。1982年には『スペイン巡礼』の追想記および後日譚となる『スペイン回想:『スペイン巡礼』を補遺する』(話の特集)という著書をも発表しました。俳優としての活動と並行して、フラメンコ・ギターの伴奏や舞踊家によるフラメンコ舞踊を付けた編成で原詩と日本語訳との両方でフェデリコ・ガルシーア・ロルカの詩を朗誦する活動も行っていたほか、旅行社と協力してスペイン方面へのツアーを計画してそれを引率することもありました。また、スペイン民俗音楽に関しては日本で屈指のレコード・コレクションを持つ存在として知られていました。



1984年には日本テレビ『星雲仮面マシンマン』で敵役「プロフェッサーK」を演じました。この役も天本のスペイン趣味が前面に出た役柄で、衣装も天本の自前によるもので、「Kがスペインで撮った」という設定で劇中に登場する写真も、本人が実際にスペイン旅行中に撮ったものでした。そのスペインに対する熱情のあまり、予定していたスペイン旅行の日程が撮影と重なったことを理由に、番組を途中で降板してしまったほどです。

1991年(平成3年)からフジテレビ『たけし・逸見の平成教育委員会』に「東大出身」の回答者としてレギュラー出演し、一般的な知名度を一気に高めました。

2003年3月23日、急性肺炎により故郷の福岡県北九州市若松区にて逝去しました。享年77歳でした。地元にあるカトリック教会で葬儀が行われました。2005年10月下旬に遺灰がスペイン、アンダルシア州のグアダルキビール川源流近くに散撒されました。

自由主義者・無政府主義者で、現代の日本に生きる人々に対してラディカルな視点から苦言を呈していました。「国家というものが大嫌い」と述べ、スペインへの移住を熱望し、2000年に発表した著書『日本人への遺言(メメント)』(徳間書店)でも「こんな呆け国家で死にたくない。私は、スペインで死にたい。20回も訪ねて歩きまわった大好きなスペインで死にたい」と記していたがそれは叶いませんでした。天皇制と昭和天皇の戦争責任を不問にしようとする勢力(菊タブーを守ろうとする風潮、自民党政権、文部省)を批判して「テレビの収録で言及すると、その部分は全てカットされる。こういう事をしている限り日本人はいつまでたっても自立できない」と述べています。また学徒動員を受けたことは、言葉に言い表せないほどのショックを受けたそうで、戦後になっても、戦争を賛美するような内容の映画には、依頼を受けても絶対に出演しないという姿勢を貫き通しました。長身に対する妬みのために将校に苛められ、軍が嫌いになり、その延長として左翼的になったそうです。

毎日放送の『あどりぶランド』の「よってたかってインタビュー」のコーナーにゲストで招かれた際には、「国民年金(保険料)など払ったことがない。いくら年を取っても国の世話にだけはなりたくない」、「日の丸の赤い丸を切り抜いてしまえば風通しがもっとよくなるだろう」などと述べています。また、「スペインの街頭で物乞いと間違えられて、お婆さんに施しを受けそうになった」、「年収300万円だったのが、『平成教育委員会』に出てから月収300万円になった」など逸話は絶えません。

忘れえぬ人を想い続け、生涯独身でした。



フジテレビ『たけし・逸見の平成教育委員会』の生徒役(回答者)としてレギュラーで出演し、放映開始から1993年3月の「卒業」までほぼ皆勤でした。国語に関してはずば抜けた好成績を修めていた反面、算数の問題ではほとんど正解できず、算数の問題になると時に問題文を読むことを放棄し、解答する気がないような態度を示すほどに苦手としていました。国語が得意ということで文学部出身と間違われることも多く、法学部出身の経歴を意外がられることもありました。司会・先生役の北野武が遂に「天本君は算数の問題があと1問でも正解したら、海外留学を差し上げます!」と断言。リーチがかかっていた「たけし落とし」を見事完成させ、世界一周留学の旅を獲得しました。 なお、国語の授業中に、"二文字熟語をつくる"というもので"芸文"と回答したのが、正解とされず、そこで「"芸文"ってあるんですよ!」と反論し、逸見政孝に辞書を引かせた結果、掲載があったため正解となったこともあります。他にも、読み方を答える設問で「模る=かたどる」「具に=つぶさに」と正解を出した唯一の回答者でもあり、スタジオを沸かせていました。

『平成教育テレビ』でも番組の大部分に出演したが、「先生というのは、『自分は馬鹿です』と言っているようなもの」とつい本音を言ってしまい、ビートたけしや逸見政孝以下共演者を慌てさせたりしました。(Ernesto Mr. T は、非常勤ながら、教職で生計の大半を立てていますが、この言葉に間違いはありません。教頭、校長となるにつれ、その酷さが増していくことは云うまでもありません。George Bernard Shaw の有名な言葉に、次のようなものがあります。"He who can, does, he who cannot, teaches."「能力ある者は行ない、能力なき者は教える」)

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