ジャック・ジョンソン(Jack Johnson、1878年3月31日 - 1946年6月10日)、本名ジョン・アーサー・ジョンソン(John Arthur Johnson)は、「ガルベストンの巨人」のニックネームでもよく知られているアメリカ合衆国のプロボクサーです。黒人としては初めての世界ヘビー級王者(1908年-1915年)となり、そのことは当時非常に大きな論争の的となりました。その生涯を辿ったドキュメンタリーにおいて、ケン・バーンズは、「13年以上に渡り、ジャック・ジョンソンは地球上で最も有名であると同時に、最も悪名高い黒人であった」と評しました。なお、ジョンソンは、カラーラインを使って黒人ボクサーの挑戦を避ける白人王者に業を煮やした黒人達によって設立された「黒人ヘビー級王座」を獲得した経験もあります。
1902年までに、ジョンソンは対白人戦・対黒人戦合わせて50以上の試合で勝利を収めていました。1903年2月3日、ジョンソンは20以上のラウンドを重ねて“デンバー”エド・マーティンを破り、初のタイトルとなる世界黒人ヘビー級チャンピオン(当時の黒人ボクサーは黒人用のタイトルしか取得できなかった)の座に就きました。ジョンソンは完全なタイトルを手に入れようと試みましたが、世界ヘビー級チャンピオンであったジェームス・J・ジェフリーズがジョンソンとは戦おうとしなかったため、果たすことができなませんでした。黒人はタイトル戦以外の舞台でならば白人と対戦することができましたが、米国においてヘビー級チャンピオンという座は大変な栄誉であり、黒人がそれを競い合うに値するなどととはまったく考えられていなかったのです。しかし、ジョンソンは1907年に前チャンピオンのボブ・フィッシモンズと対戦する機会を得て、2ラウンドでフィッシモンズをノックアウトしてしまいました。
ジョンソンは1908年12月26日にようやく世界ヘビー級のタイトルを手に入れました。カナダ人のチャンピオン、トミー・バーンズを世界中追い掛け回して公の場で罵り続け、オーストラリアのシドニーでの試合に持ち込んだのです。試合は20,000人を超える観客の前で、レフェリーはなんとバーンズのマネージャーが務めましたが、ハンデにはなりませんでした。ジョンソンは今までの恨みを晴らすかのようにバーンズをいたぶり続け、見かねた警官が乱入して試合をやめさせた14ラウンドまでそれは続いたのです。これによりレフェリーはTKOの裁定を下してタイトルはジョンソンのものとなりましたが、それまでにジョンソンは何度もチャンピオンを打ちのめしていました。試合中、ジョンソンはバーンズとそのリングサイドのクルーを嘲っていました。バーンズが崩れ落ちそうになるたびに、ジョンソンは掴まえてもう一度立たせ、更に攻撃を加え続けました。ジョンソンがフィニッシュを決める瞬間、バーンズの敗北を映し出さないためにカメラが停められました。
ジョンソンがバーンズに勝利してからというもの、白人の間では人種的な憎悪の念が広まり、ジャック・ロンドンのような社会主義者でさえ、ジョンソン(類人猿とまで戯画化された)からベルトを奪取し、それを本来保持すべき「優生種」の白人の元へ齎す「グレート・ホワイト・ホープ」(Great White Hope、白人の期待の星)の到来を切望しました。そのため、ジョンソンはこうした「グレート・ホワイト・ホープ」としてプロモーターが用意した数多くの選手と立て続けに試合をさせられましたが、その多くはエキシビション・マッチでした。1909年だけでも、ジョンソンはビクター・マクラグレン、フランク・モラン、トニー・ロス、アル・カウフマン、ミドル級チャンピオンのスタンリー・ケッチェルらを退けました。ケッチェルとの試合では両者とも最後まで熱烈な戦いを繰り広げましたが、最終12ラウンドにケッチェルがジョンソンの頭に右パンチを叩き込み、ジョンソンからダウンを奪いました。ゆっくりと立ち上がったジョンソンはケッチェルの顎にストレートを放ち、何本かの歯と一緒にマットへ沈めました。フィラデルフィア・ジャック・オブライエンとの試合はジョンソンにとっては不本意なものでした。オブライエンの161ポンドに対して205ポンドと体格差の利のあったジョンソンは、この試合に6ラウンド引き分けという結果しか残すことができませんでした。
1910年、無敗のまま引退していた元ヘビー級チャンピオンのジェームス・J・ジェフリーズが現役復帰を宣言し、「私は白人が黒ん坊よりも優れていることを証明する、ただそのためだけにこの試合を戦う」と言い放ちました。ジェフリーズは6年間試合から遠ざかっており、復帰して試合に臨むためには100ポンドも減量する必要がありました。
試合は1910年7月4日、ネバダ州リノの中心部に作られた特設リングで22,000人の観客を前に行なわれました。リングサイドの楽団は "All coons look alike to me" と呼ばれる、人種的偏見に基づいて黒人を嘲弄した歌を演奏していました。
この試合は人種間の緊張関係の温床の相を呈し、プロモーターは白人で埋め尽くされた客席を煽動して "kill the nigger" の大音声を繰り返させました。しかし試合が始まってみれば、ジョンソンの方がジェフリーズよりも強く、機敏であることは明らかとなりました。第15ラウンド、その経歴を通じて初めて1ラウンドに2回のダウンを喫したジェフリーズのセコンドは、ジョンソンによるKOだけは避けようと判断して試合を放棄しました。この「世紀の決戦」によりジョンソンは225,000ドルの賞金を得ただけでなく、批判者たちをも沈黙させました。彼らは、前王者バーンズはジェフリーズが無敗のまま引退したおかげでベルトを手にした偽者のチャンピオンだと主張し、したがってジョンソンがバーンズを倒してチャンピオンになったとはいえ、そんな勝利など「無内容」だと過小評価していたのでした。
Arthur John Johnson (31 de marzo de 1878 – 10 de junio de 1946), mejor conocido como Jack Johnson y apodado “El Gigante de Galveston”, fue un boxeador estadounidense y probablemente el mejor peso pesado de su generación. Tiene el honor de ser el primer negro Campeón Mundial de los pesos pesados (1908-1915), y según la International Boxing Research Organization (IBRO) uno de los 10 mejores pesos pesados de la historia. En un documental sobre su vida, Ken Burns dijo: "Durante más de trece años, Jack Johnson fue el afroamericano más famoso y notorio de La Tierra."
En 1902, Johnson había ganado al menos 50 peleas contra rivales tanto blancos como negros. Johnson ganó su primer título el 3 de febrero de 1903 derrotando a "Denver" Ed Martin en un combate a 20 asaltos por el Título Mundial del Pesos pesado para boxeadores de Color. Sus esfuerzos por hacerse con el título absoluto fueron en vano, ya que el campeón James J. Jeffries rechazaba luchar contra él. Blancos y negros podían pelear juntos en otras competiciones, pero no por el título mundial. No obstante Johnson consiguió pelear contra el antiguo campeón Bob Fitzsimmons en julio de 1907, y lo noqueó en tan sólo dos asaltos.
Finalmente conquistó el título mundial el 26 de diciembre de 1908, cuando peleó contra el campeón mundial Tommy Burns en Sydney, Australia, tras haberlo seguido alrededor del mundo, sin cesar de solicitarle un combate por el título. La pelea fue detenida por la policía en un recinto que presentaba un lleno absoluto (20.000 personas). El título fue a parar a manos de Jack Johnson después de que los jueces le dieran la victoria por K.O. técnico (T.K.O.). Durante la pelea Johnson se mofó de Burns y la gente que le acompañaba en la esquina del ring. Cada vez que Tommy Burns iba a caer a la lona Jack Johnson le sujetaba impidiéndolo, para acto seguido continuar golpeándolo.
Tras la victoria de Johnson sobre Burns, las muestras de racismo contra Johnson se acrecentaron tanto que incluso el escritor Jack London solicitó la llegada de "La Gran Esperanza Blanca" que rescatara el título de manos de un negro como Johnson — que a menudo era caricaturizado como un simio — y lo devolviera al lugar al que supuestamente pertenecía, a manos de un blanco. Muchos fueron los boxeadores blancos que intentaron llegar a ser esa Gran Esperanza Blanca, pero todos fracasaron, incluso el ex-campeón mundial James J. Jeffries, que volvió del retiro con esta única misión.
私たちも有色人種なのです。
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