2013年5月14日火曜日

Charles Chaplin visitó Japón チャップリン初来日(1932年) El Circo 『サーカス』Tempura

1932年の今日、5月14日、Charles Chaplin が シンガポールにジャワ、バリ島を経て兄シドニーとともに初来日しました。



訪日中、たまたま発生した国粋主義的な士官によるクーデター未遂事件である「五・一五事件」の巻添えになりかけました。「日本に退廃文化を流した元凶」として、首謀者の間でチャップリンの暗殺が画策されていたのです。

チャップリンは、大正時代から日本では「変凹君」「アルコール先生」という愛称で親しまれていました。これは当時の日本人にはチャップリンの名が発音しにくかったため、配給会社が綽名での紹介をしたためで、酔いどれ役も多かったことからそのように呼ばれていたのです。
    正月興行として恒例だったニコニコ大会。ロスコー・アーバックル(通称デブ君)、メーベル・ノーマンド、チェスター・コンクリン、マック・スウェイン、ベン・ターピンなど花形の喜劇役者がお目見えする中、ひと際子供たちに人気があったのがチャップリンでした。
    チャップリン喜劇を得意とした映画説明者(活動弁士)に大蔵貢、杉浦市郎、松竹で活躍した俳優・小倉繁は“和製チャップリン”と云われました。
    戦前に日本で公開されたチャップリン映画は『モダン・タイムス』(1938年/昭和13年封切)までで、太平洋戦争による空白期間を経て、戦後初のチャップリン作品は『黄金狂時代』サウンド版でした(1946年/昭和21年)。1940年製作の『独裁者』は1960年(昭和35年)に封切られました。
    チャップリンが映画の中で使用した有名な根鞭ステッキは、滋賀県草津市の特産品で、地元の竹(寒竹)で作られており、しなりが強いものでした。ただし最初からステッキを使っていたわけではなく、当初は雨傘を用いていました。
    運転手(後に秘書)として採用した高野虎市の仕事ぶりを高く評価していたため、一時家の使用人がすべて日本人で占められていました。2番目の夫人リタ・グレイは、「まるで日本人の中で暮らしているかのよう」と評したほどです。ただ、その次にチャップリンに身を寄せていたポーレット・ゴダードは高野を嫌っていたため衝突し、高野は辞任しました(高野解雇説は『チャップリンの影』の中で大野裕之が資料を元に否定しています)。
    The Circus『サーカス』El Circo (以下の video) の製作中、牛原虚彦が高野の紹介で弟子入りしていました。撮影されたシーンの出来をチャップリンが確認する際、彼も見学することができたそうです。非常に勉強になったと後に淀川長治との対談などで振り返っています。


    チャップリンは 1932年(昭和7年)5月14日に初来日しましたが、五・一五事件に遭遇して、多大な衝撃を受けたようです。歌舞伎座や明治座で念願だった伝統芸能を鑑賞しました。初代中村吉右衛門や六代目尾上菊五郎、二代目市川左團次の楽屋を訪ね、所感を述べています。また喜劇役者の曾我廼家五郎とは、互いに富士山を色紙に描いて交換しあいました。帝国ホテルに定宿し、和牛ステーキがとても気に入ったとのことです。また箱根の富士屋ホテル、横浜のホテルニューグランドに逗留しています。日本橋の「花長」では海老の天麩羅を36尾も食べ、その後の来日でも天麩羅を好んで食べたことから、「天麩羅男」の綽名がついたほどです。さらに「花長」で修行した調理師が乗船しているということで、帰国時の船を氷川丸に決めたのはこの時でした。

A Chaplin le gustó la TEMPURA mucho.

ご意見、ご質問等ございましたら、<ernestotaju@yahoo.co.jp> へ。