Juan Antonio de Zunzunegui y Loredo, (Portugalete, Vizcaya, 21 de diciembre de 1900 - 31 de mayo de 1982) novelista español, fue miembro de la Real Academia Española desde 1957 hasta su muerte.
Nació el 21 de diciembre de 1900 en Portugalete (Vizcaya). Estudió en los jesuitas de Orduña y en las Universidades de Deusto, Valladolid y Salamanca. Tuvo una gran amistad con Miguel de Unamuno quien -según el propio Zunzunegui- sería el autor que más le influyó. Por traslado de su familia a Madrid, termina en su universidad la carrera de derecho. En 1960 ocupa el sillón "a" dejado por Pío Baroja en la Real Academia de la Lengua. Falleció el 31 de mayo de 1982 siendo enterrado por deseo expreso en la villa de Portugalete, en el panteón de la familia de su esposa. Para dividir su extensísima producción utilizaba el término "flota" y según el tamaño de sus libros los consideraba de "gran tonelaje" y de "pequeño tonelaje". Entre los primeros destacan: Chiripi, El Chipichande, ¡Ay...estos hijos! y La vida como es, "relato picaresco" según el autor y ambientada en Madrid.
De "pequeño tonelaje" serían: Cuentos y patrañas de mi ría, Vida y paisaje de Bilbao o El hombre que iba para estatua.
Zunzunegui es el principal cronista literario de la vida y costumbres de la sociedad portugaluja y bilbaína del primer tercio del siglo XX.
En Portugalete hay un instituto que lleva su nombre. (I.E.S Juan Antonio Zunzunegui). Hay otros escritores destacados en la familia, como Santos Zunzunegui o el mexicano Juan Miguel Zunzunegui, quien sería pariente lejano pero una promesa de las letras hispanas debido a su estilo ilustrado pero una buena dosis de crítica y de ideas novedosas.
En 1963 Fernando Fernán Gómez adaptó una de sus novelas con el inédito largometraje El mundo sigue (以下の video clip).
スンスネーギ、Juan Antonio de Zunzunegui y Loredo, (Portugalete, Vizcaya, 1900年12月21日-1982年5月31日)
Zunzunegui は1900年12月21日、スペイン北海岸第一の商港、ビルバオのポルトゥガレーテで生まれました。ビルバオはバスク地方の中心都市です。北部の鉱工業地帯を背景にしてスペインでも有数の経済力をほこる都市であり、清楚端麗の都市美でも知られています。Zunzunegui はこの地の鉱山所有者の家に生まれました。Zunzunegui の小説はビルバオ財閥の家庭悲劇といったものが多いのですが、こういったものを書かせたら Zunzunegui の右に出るものはいないでしょう。マドリード、サラマンカの大学に学び、サラマンカではウナムーノの知遇を得ました。ウナムーノもバスク人です。楽天性とは反対の、何か張り詰めた、心情の悲痛な高まりとでもいったもの、熱っぽい、とでもいった重厚さがこの2人には見受けられます。悲痛な高まりは別として、この重厚さは同じバスク人であるピオ・バローハにもある感じられるところからすると、民族的な特質なのでしょうか。スペインの大学を出た Zunzunegui は、イタリア、フランスに遊び、そこの大学でそれぞれその国の文学の造詣を深めました。故国に戻ってからは、一時家業に手をつけたり、商売に色気をみせたりすることもあったようですが、30歳になるころは、濁り気なしの、スペインで最もひたむきに小説に打ち込む小説作家となっていました。
スペイン内戦が勃発した1936年には、Zunzunegui はマドリードにいましたが、右側にあったため、難を避け、メキシコの大使館に逃れるという一幕もありました。その保守的政治色は常に変わらないもので、首尾一貫したところがあります。30代の末で内戦の終局を迎えますが、年齢的にもようやく円熟期に入った創作活動は、フランコ体制の下、新時代の到来という条件が出来て、いよいよ油が乗り、それ以米力作を次々と毎年のように著して、スペインにおける有名文学賞をことごとく獲得していきました。栄光の Academia española 入りをも果したのです。堂々たる作家経歴といい、また、50をかなり越した、 箔の付いた年齢といい、貫禄は既に充分でした。入るべきものに入ったという感がありました。
Camilo José Cela などに比べ、Zunzunegui の文学は、性格がずっと一般向きに出来ていて、幅広い読者層を勝ち得ています。良さ悪さ、全てを含めた意味での国民作家というに真に相応しい作家と云えましょう。Zunzunegui を論じることは、現代スペイン文学の体質、ひいてはその背後にあるその社会の性向を論じることにもなるのかもしれません。
作品は生まれ故郷を描いたビルバオものと、スペインの首都を舞台にしたマドリードものとのほぼ2群に分けられます。
Zunzunegui の主人公は皆それぞれ何かの偏執を持っていて、その偏執が主人公たちを滅ぼしていきます。こうして精神異常に近い線を、読者をはらはらさせながら、うろついて見せ、作品の虜にするとするのが Zunzunegui の作品の特長と云えるかもしれません。
闘牛関連では、El supremo bien『至高の財』の第1部の最後に 先日拙ブログで御紹介した 大闘牛士 El Espartero の死とその悲嘆が描かれていることも付け加えておきましょう。
El Espartero murió エル・エスパルテロ 29歳にて逝く(1894年)
Juan Antonio de Zunzunegui の名を冠した Bilbao の Renfe 駅 の video が YouTube にありました。
RENFE CERCANIAS METRO BILBAO BILBO LUIS BRIÑAS JUAN ANTONIO ZUNZUNEGUI
Ernesto Mr. T は2年前 偶然この 駅を使いました。それだけのことです。
<ernestotaju@yahoo.co.jp> へ。
Ernesto Mr. T は2年前 偶然この 駅を使いました。それだけのことです。
ご意見、ご質問等ございましたら、