ジーン・タニー(Gene Tunney、1897年5月25日 - 1978年11月7日)
Gene Tunney は1897年5月25日ニューヨークに生まれました。本名はジェームズ・ジョゼフ・タニー James Joseph Tunney です。1915年デビュー。1926年デンプシーに判定勝ちで世界ヘビー級王座獲得。1年後のリターンマッチでも判定勝ちした試合は「ロングカウント事件」としても有名です。1978年7月11日死去しました。通算戦績は よく分っていません。¿65勝43KO1敗1分1無効試合8無判定?¿83戦77勝(45KO)1敗3引分?
ニューヨーク・グリニッジビレッジの裕福な家庭に生まれたジェームズ・ジョゼフ・タニーは、11歳のときに「世界ヘビー級チャンピオンになろう」と決心し、両親にボクシング用品一式を買ってもらいました。両親はどうせ子供の遊びと思っていましたが、やがてジェームズは家族の猛反対を押し切って18歳でプロボクサーになってしまいました。
そんなタニーのボクシングは、不良少年のストリ-トファイトとは全く違ったものでした。常に知的な研究、勉強によって成長し続けるボクサーでした。
184センチの身体にはがっしりとした筋肉が築き上げられてはいましたが、飛びぬけたパワーや目の眩むような運動神経を見せつけるわけではありませんでした。ただ、優れた先輩ボクサーたちからリングの科学を学び取る貪欲さは、タニーを他から際立たせていました。ボクシング・スタイルの基本は、ミドル級の貴公子と呼ばれたマイク・ギボンスを見て習得したそうです。ヘビー級にアウトボクシングを導入したとされるジェームズ・J・コーベットの伝記映画制作の際には、コーベットのスパーリングパートナー役を買って出て、当時の技術の精髄を体験しました。
L・ヘビー級でキャリアをスタートさせたタニーは、その完全主義的なボクシングで快勝に次ぐ快勝、一気にトップボクサーへと上りつめていきました。しかし、デビュー3年目、キャリアは思わぬ中断に見舞われてしまいました。無敗の13連勝をマークしたところで米国海軍に徴兵されフランスの戦線へと送り込まれてしまったのです。1917年、第一次世界大戦が徐々に終局に向かおう、という時期でした。
タニーの記録には、10ヶ月間の空白が出来ることになりました。しかし、実はタニーはこの間もボクシングを続けていたのです。アマチュアとしてリングに上がり、在外米軍L・ヘビー級王者となり、特別試合では同ヘビー級王者をも打ち破り、米海軍最強の男として名を馳せていたのです。いつしか人はたにーのことを "The Fighting Marine" と呼んでいました。
1918年、戦争終結とともにプロのリングに戻ったタニーは、一段と精力的に戦い始めました。最初の2年間でこなした試合がなんと23試合、1試合だけ引き分けであとは全勝17KOという凄まじさでした。
勢いに乗るタニーは、1922年1月にはベテラン、バトリング・レビンスキーに12回判定勝ちで全米L・ヘビー級王座も獲得しています。
しかし、突如難敵が現れました。全米王座の初防衛戦の挑戦者として、ハリー・グレブが名乗りを上げたのです。のちにミドル級世界王者となり、文豪ヘミングウェイに「最も偉大なアメリカ人」と称えられることになる伝説的強豪です。
1922年5月23日、ニューヨークで両雄は初めて対戦しました。自信を持って迎え撃ったタニーでしたが、グレブのケンカ殺法が挫折を知らない若者を打ち砕きました。
グレブの戦いぶりは、正規のものも反則も織り交ぜてリングのテクニックの博物館と言っても良いものでした。試合が始まるなり、グレブは狡猾にバッティング。タニーの鼻の骨を砕きました。激しく流れ落ちる鼻血に苦しむタニーを、グレブのダーティテクニックが襲いました。頭を押さえ付けての打撃、ホールディング、バッティング……。反則だけではありませんでした。タニーの集中力が途切れると、嵐のような連打が降り注いできました。
それまで経験したことのない苦しい12ラウンドを耐え抜きはしましたが、タニーは判定で敗れてしまいました。しかし、これが後にも先にも立った一つの敗戦です。グレブ戦でいたるところ負傷したタニーは、1週間の入院を余儀なくされましたが、回復するとすぐに復讐のためのトレーニングに入りました。
「グレブが自分よりも優れたファイターだとは思わない。勝つ方法は必ずあると思った」。そう言うタニーは、当時最もハイレベルのボクシング戦術家と言われた世界ライト級王者ベニー・レナードに教えを請いました。「グレブはありとあらゆる角度からパンチを出すために、ヒジが開くことが多い。そこを打ち込むといい。心臓めがけてな」とレナードはタニーに伝授しました。
「心臓ブロー」を練習し抜いたタニーは、再戦ではグレブの動きを抑えることに成功して王座奪回を果たしました。タニーとグレブはそれ以後も戦いを続け、タニーの2勝1敗1引き分けという成績が残っています。1925年5月に判定負けした後、グレブは「もう、タニーとやるのはヤメだ。奴の顔は見たくもないぜ」と言いいました。無双の豪傑グレブが、タニーを当代最高のボクサーと認めた瞬間でした。
翌年、1926年9月23日、フィラデルフィアで、タニーは7年間にわたって君臨してきたヘビー級王者ジャック・デンプシーを攻略しました。天才的パワーヒッターデンプシーのブルファイトをタニーはアウトボクシングで見事に押さえ込みました。グレブとの試練で磨かれた技巧で 3-0の判定勝ちを 収めることに成功したのです。
しかし、この試合の1ヶ月後、あのグレブは目の手術の失敗でこの世を去ったのです。世界ヘビー級王者となったタニーは、葬列の先頭でグレブの棺を担ぎました。
1年後、1927年9月22日、シカゴでのデンプシーとの再戦にも判定勝ちしました。7回に痛烈なダウンを喫するピンチもありましたが、興奮したデンプシーがニュートラルコーナーにさがらず、14秒とも言われるロングカウントで命拾いする幸運もありました。インターバルで回復したタニーは、8回には逆に右ストレートでデンプシーをダウンさせ、判定勝ちで初防衛を飾りました。
1928年7月26日、ヤンキー・スタジアムでトム・ヒーニーを下し二度目の防衛を達成した後、鉄鋼王アンドリュー・カーネギーの遺産相続者である富豪、ポーリー・ロウダーとの婚約、及びボクシングからの引退を表明しました。タニーにはもはや思い残すことはなく、実業界に転じ、14もの事業に関係して、ビジネスマンとしても大きな成功を収めました。
現役中からシェイクスピアや哲学書を愛読し、劇作家ジョージ・バーナード・ショーとも親交のあったインテリでもあり、後年、イェール大学で講師としてシェイクスピアを講じました。「元ボクサー」とは信じられない人もいたそうです。 また俳優の仕事も短期間行い、1926年に The Fighting Marine などに出演しています。残念ながら、この映画のフィルムは現在は残っていませんが。
現役中からシェイクスピアや哲学書を愛読し、劇作家ジョージ・バーナード・ショーとも親交のあったインテリでもあり、後年、イェール大学で講師としてシェイクスピアを講じました。「元ボクサー」とは信じられない人もいたそうです。 また俳優の仕事も短期間行い、1926年に The Fighting Marine などに出演しています。残念ながら、この映画のフィルムは現在は残っていませんが。
デンプシーの他に、タニーが下した有名なボクサーには、後の世界ライトヘビー級王者トミー・ローラン、デンプシーに善戦した強豪トミー・ギボンズ、ジョルジュ・カルパンティエらがいます。
タニーは1928年度のリングマガジン ファイター・オブ・ザ・イヤーに選ばれ、1980年には世界ボクシング殿堂、1990年には国際ボクシング名誉の殿堂博物館に収められました。
1978年7月11日に病死しました。享年81歳でした。彼の死後、その亡骸はコネチカット州スタンフォードのロングリッジ・ユニオン墓地に葬られました。
初めにも書きましたが、通算戦績は よく分っていません。¿65勝43KO1敗1分1無効試合8無判定?¿83戦77勝(45KO)1敗3引分?
タニーは当時のトップ選手の中では珍しく、ボクシングの試合をチェスのように考えて組み立てていました。早くからデンプシー打倒を目標とし、そのために7年計画を立てていたと言われています。脆く傷つきやすかった拳の強化に意を用いたり、デンプシー戦に備えフットワークを強化するため、後ろ向きに走る練習を繰り返したとのエピソードもあります。前述しましたように、ジェームス・J・コーベットやベニー・レナードの影響を受け、俊敏なフットワークから鋭い左ジャブ、右ストレートを放ち、敵の動きを察知してカウンターを狙う戦法で幾多の強打者を抑えていきました。
James José Tunney, Gene Tunney para el mundo del boxeo, fue un boxeador estadounidense nacido el 25 de mayo de 1897 en la aldea de Greenwich, Connecticut. Sus padres pertenecían a la clase obrera, y Tunney se crió en las calles de Nueva York. Cuando se sintió atraído por el boxeo, lo ensayó en el gimnasio local.
Para luchar en la Primera Guerra Mundial se alista en la marina de Estados Unidos. La guerra le da oportunidad de empezar a ser alguien el mundo del boxeo, ya que en 1919 ganó en París el campeonato de semipesados de la expedición norteamericana.
A su vuelta a Estados Unidos en 1919, se enfrenta a fuertes contrincantes, como Tommy Loughran o Georges Carpentier con victorias en todas sus peleas.
La que sería la única derrota de su carrera se produjo el 23 de mayo de 1922 frente a Harry Greb, perdiendo el título de campeón de los semipesados que había arrebatado a Levinski. Recuperó el título en la revancha, y aún se enfrentó 3 veces más en su carrera con Greb, venciendo en todas ellas. En escritos que dejó sobre estas peleas, Tunney aseguró que Greb había sido su rival más encarnizado, y que le horrorizaba pensar en el primero de sus combates, el que perdió. Realmente, fue aquél un combate salvaje, en el que Tunney ya desde el primer asalto fue en inferioridad, ya que su contendiente le fracturó la nariz y le infligió golpes en los ojos que le privaron de parte de la visión el resto del combate. A día de hoy un combate de estas características sería detenido en el primer asalto, pero en aquella época, Tunney aguantó en esas condiciones la friolera de 14 asaltos.
En la categoría de los pesados, el campeón Jack Dempsey tenía firmado un compromiso para poner su título en juego ante Greb, pero el promotor de Dempsey no quería esta pelea, por lo que le dio la oportunidad a Tunney.
El 23 de septiembre de 1926 se celebra la pelea en el Sexquicentennial Stadium de Filadelfia. Las apuestas estaban 3 a 1 a favor de Dempsey, y ningún aficionado sensato daba nada por Tunney. Pero Tunney se alzó vencedor por puntos en 10 asaltos, en una decisión inapelable, ya que al menos 8 asaltos los ganó con gran claridad. Lo que todo el mundo calificó de gran sorpresa, no debió de haberlo sido tanto. El serio Tunney, con entrenamiento y sacrificio constante, y supliendo sus carencias con inteligencia y deseos de triunfo, venció a Dempsey, que desde que era campeón mundial llevaba vida disipada, se entrenaba poco o nada, y lo fiaba todo a sus glorias pasadas.
La revancha se celebró el 22 de septiembre de 1927, en uno de los combates más célebres de la historia del boxeo, y que se conoce como el de "la cuenta larga". En el séptimo asalto, Dempsey logró tumbar a Tunney. En vez de retirarse al rincón neutral para que el árbitro Dave Barry contase, según establecía una nueva regla (todavía vigente), Jack Dempsey no reaccionó de manera ágil y perdió 7 segundos en lo que se iba a la esquina neutral, tiempo que unido a los 10 de la cuenta permitió a Tunney recuperarse, retomar el combate y volverlo a su favor para volver a vencer nuevamente a Dempsey por decisión en 15 asaltos. Aun así, siempre quedará la duda sobre el arbitraje en ese combate, ya que al árbitro Dave Barry se olvida de aplicar esa misma regla cuando inicia con decisión una cuenta con Dempsey en el suelo, pero esta vez sin que Tunney se encontrara en la esquina neutral.
Después de una defensa más, exitosa, en 1928 se retira del boxeo, dejando el título vacante. Había disputado un total de 67 combates profesionales, con 65 victorias, 1 derrota y 1 combate nulo.
Hombre serio y cuidadoso, tal y cual lo había sido durante su vida boxística, invirtió sus ganancias boxísticas en negocios, que llevó exitosamente durante el resto de su vida. Fallecíó el 7 de noviembre de 1978.
En 1990 fue incluido en el Salón Internacional de la Fama del Boxeo.
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